
広電 SANFRECCE 5108号 / 西広島駅にて
こちらも久しぶりにUPします、5100形 サンフレッチェ広島のラッピング電車、5108号です。
昨年はJ1リーグを20勝 8分 10敗 → 勝点68 / 得失点差+18で、4位にてシーズンを終了しました。
ルヴァンカップでは優勝を決め、天皇杯はベスト4、ACLE GL敗退 2025-26シーズン 東地区グループステージで敗退という戦績でもありました。
2025(令和7)年は、エディオンピースウイング広島での本格的なシーズンとなり、Jリーグカップ制覇というタイトルを獲得となりましたが。
安定した上位争い: リーグ戦では最終盤まで上位に食い込み、昨シーズンに続く4位と安定した強さを見せたシーズンでもありました。
個人記録では、新井直人、中村草太、木下康介らがチームの得点源として活躍し、ゴール期待値を上回るパフォーマンスを見せました。
カープ、サンフレ、ドラゴンフライズのトリプル優勝も、妄想や夢ではないこの近年ですが、今年のオール広島はどうでしょう。
5月だし梅雨入りまでまだまだな時期なのに、ちょっと天気が好くない写真です。
五月晴れとはほど遠い感じです。
上衣を着ている人もいるので、暑くもなかったのだと思います。
今年は4月も中旬だというのに、北風が吹き荒れて、日中でも肌寒く感じるのですけれど。
4月の初旬は23℃とか、花粉は煩わしいけれど、春らしい幸せな日々だったのに。
家の中で暖房が必要な今の環境は、何かの嫌がらせ?かとも思えてきます。
そして日付は飛んで、9月26日に高須駅で撮った、宮島口行きサンフレ電車です。
この日は美しい青空で、気持ちよさそうに見えますが、確か秋になっても終わらない夏だったんですよねぇ。
気温も30℃以上あったはず。
夕方にはスズムシやコオロギが鳴くのに、熱帯夜な違和感は、クーラー入れても電気代が気になって。
眠れない夜でした。
サッポロ一番からは、オタフクソース焼そばがロングセラーとなっていますが、サンヨー食品とオタフクソースでは。
カップ焼そば向けのお好み焼きソースを共同開発で、昔のゆうゆ(岩井由紀子)さんがCMやっていた頃よりは、ちょっと お味は向上しています。
そして夜の写真ですが、これは12月24日の夜に、西広島駅での写真です。
ルヴァンカップの優勝記念ヘッドマークが貼られた姿です。
実はこの姿なんですが、日中に撮影できていなくて、この夜の写真が唯一だったりします。
また後日にと、先送りせず、ひつこく撮っていて正解だったのは、結果論なんですけど。
と言うことで、サンフレ電車でした。
カップ焼そばだとオタフクソースは水っぽくなって、その風味が台無しになるのですけれど。
改良しても、鉄板で焼けていないソースは、やはり広島人には物足りなかったりします。
それでもたまに、買うんですけどね(爆)
-安芸もみじ⛩️広島-
宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -④
昨日の午後から雨予報で、今日も1日夜まで降り続くとのことでしたが。
昨日の朝9時から降り始めて、なかなか強い雨が降り頻っていますが、早めに降り始めたのですから。
上がるのも早くなるのでしょうか。
と言うことで、宮島の桜 2029 、4回目です。
幸神社からところどころ階段になっている坂道を登ると、誓真大徳頌徳碑から降りて来た″山辺の古径″と合流します。
すると目の前に五重塔が、本来はそびえ立っているのですけれど。
今年はその姿がありません。
2023(令和5)年から昨年までの3年間は、多宝塔が修繕工事中で、そのすがたを見ることが叶わなかったのですけれど。
今年からは五重塔が、しばらく姿を見ることができなくなりました。
寂しいですが、その美しい姿となって、再び会えることを楽しみにしていたいと思います。
さて桜には、ほんと凄い数の種類がありますが、宮島では唯一の1本となる桜が、塔の岡茶屋にあります。
釣り鐘緋桜(つりがねひざくら)と呼ばれる桜で、一般的には寒緋桜(カンヒザクラ)と呼ばれる種類です。
釣鐘状の濃いピンク色の花を下向きに咲かせる桜ですが、宮島のものは八重寒緋桜(ヤエカンヒザクラ)ではないかと思われます。
八重緋寒桜(ヤエヒカンザクラ)と呼ばれていますが、宮島の桜 2026 -①で述べた桜と椿の話しで。
桜はヒラヒラ散り逝くのに対して、椿は首からポトっと墜ちて終わるのが、人の人生の終焉に似て、人もそれぞれ花もそれぞれだと。
しかし寒緋桜 = 釣り鐘緋色も、ヒラヒラ散って桜吹雪とはならず、椿のように花ごと落ちる最後を迎えます。
桜桃(サクランボ)も、花が散った後に実が成りますけれど、収穫しなければ枝のつけ根から、ポトっと落ちますよね。
釣り鐘緋色は、実が成りませんが、同じような形態で終わりを迎えます。
花もそれぞれと言いましたが、更に身内の•••••••,桜もそれぞれなところは、やはり人の生き様と同じなのでしょうね。
ところで塔の岡茶屋には、この桜とは別にもう1つ名物な松の木があります。
背丈は130~150センチ程度ですが、1本の枝の長さが約30メートルもある「龍髯の松」(りゅうぜんのまつ)。
樹齢200年を超えるクロマツで、江戸時代後期に植樹され、その樹齢は200年を超えるのですが、これをどう撮るかは長年の宿題(笑)
龍の髭のように真横に伸びる独特な姿が特徴の松ですが、桜を入れてこの角度から撮る•••••••,も、答えの1つかも分かりません。
と、写真の方は岡(山)へ昇って、豊臣秀吉(とよとみひでよし)公が奉られる豊国神社へ。
秀吉公が聚楽第を模して大伽藍を建立しようとしていたのですが、工事途中で逝去されてしまい、建築途中で放棄された建物。
でしたが、宮島島内の別の場所へあった豊国神社を、この大伽藍″千畳閣″の中へ遷宮して、現在は厳島神社の摂社となっています。
まぁ結果的にではありますが、全国の豊国神社の中で唯一、秀吉公が建てた自分の神社となりました。
ラスト7枚は、塔の岡 = 豊国神社境内から撮った、桜と厳島神社です。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 10, 2026
「宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -④」
幸神社進むと誓真大徳頌徳碑から降りて来た″山辺の古径″と合流します。
修繕の始まった五重塔は、その姿を見ることはできませんが、やはり塔の岡へ。#宮島 #桜 #cherryblossom
🌍️https://t.co/MNmWvfj55g
□ pic.twitter.com/SNuI2Z4YkD
アメブロアプリから写真をアップロードすると、有料会員でもやっぱり画質が劣化するので。
広島城の記事では X(Twitter)を貼っていましたが、宮島の桜でも貼っています。
16枚中、4枚ですが、クリアな画像をご覧頂けます。
尚、Xは更新が遅くなりますので、そこは御容赦くださいませ。
宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -③
宮島の桜 2026 3回目です。
宮島桟橋前広場から要害山へ、石階段を昇って宮尾城跡の桜を、UPしてきました。
今年は宮尾城内の桜を散策せず、今伊勢神社から存光寺へ向かって、石階段を降りました。
そこから町屋通りを歩いて、塔の岡へ向かいます。
例年に比べて、写真が少ないのは、ご容赦下さいませ。
と、いうことで、冒頭の写真は今伊勢神社の鳥居です。
遠くに誓真大徳頌徳碑周辺の桜の群れを入れて、写真に撮ってみました。
何でも食べる鹿が、この木の葉や皮は絶対に食べないと言われる、アセビの花が満開で、桜と一緒に撮ってみました。
今伊勢神社は厳島神社の末社ですが、三重県の伊勢神宮から勧請された神社です。
御祭神は伊勢神社なので 天照大神(あまてらすおおみかみ)が奉られています。
また、八幡大神(はちまんのおおかみ)、春日大神(かすがのおおかみ)、素戔嗚尊(すさのをのみこと)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、興津彦命(おきつひこのみこと)、興津姫命(おきつひめのみこと)が合祀されています。
厳島神社は創建時より佐伯氏が代々神職を務めていましたが、平家断絶後には藤原氏の傍系が派遣されたことにより•••••••。
相殿には大織冠 藤原鎌足霊神(ふじわらのかまたり みたまのかみ)が奉られています。
その今伊勢神社を後にするに、昨年は迂回したので今年は、聖階段を降りようと試みます。
100段の石階段は概ね45度に近い急勾配で、25メートルの高低差。
「通りゃんせ」の歌詞に、″行きはよいよい 帰りは怖い″とありますが、昇るのも根性がいるものの。
降りるのは、その視覚効果から、かなり危険を感じます •••••••, まぁ、恐い訳です。
手摺も無くて、落ちだしたら地面まで止まることなく、一直線なので。
中間の鳥居までは秘密の迂回路を通って、安全策(笑)
そこから存光寺の桜を撮りながら、地面を目指して、無事に降りられたら町屋通りを通って、幸神社へ向かいます。
以前も記したのですけれど、草津の幸神社は「さいわいじんじゃ」と読みますが、宮島の幸神社は「こうじんじや」と発音します。
江戸時代には黄金色の鳥居が建っていたそうですが、今も残っていたら究極の映えスポットですよね。
幸神社では桜より、今年は美しく苔生した石燈籠が 気になって、こちらをメインに撮りました。
幸神社まで来ると次は塔の岡なんですが、今年は残念なことに•••••••。
五重塔が無いんです。
修繕のために足場が組まれて、安全ネットも張られているのですが、その代わりに修復成った多宝塔が、その姿を見られました。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 9, 2026
「宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -③」
要害山の今伊勢神社から存光寺へ、そして町家通りを歩いて。
幸神社を通り、塔の岡へ。
今日も写真は16枚UPしています。#宮島 #桜 #cherryblossom
🌍️https://t.co/RKz69EMIO4
□ pic.twitter.com/59eOwgaPdl
アメブロアプリから写真をアップロードすると、有料会員でもやっぱり画質が劣化するので。
広島城の記事では X(Twitter)を貼っていましたが、宮島の桜でも貼っています。
16枚中、4枚ですが、クリアな画像をご覧頂けます。
尚、Xは更新が遅くなりますので、そこは御容赦くださいませ。
宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -②
日本三景 安芸の宮島と言えば、1922(大正11)年12月にアインシュタイン博士が、そして1937(昭和12)年と1948(昭和23)年には。
ヘレンケラーが滞在されたことは有名なお話しですが、1954(昭和29)年2月、マリリンモンローも新婚旅行で来日した際に宮島を訪問し、宮島の情景に感動して涙を流したという逸話が残ります。
日本人でも、初代総理大臣の伊藤博文(いとうひろぶみ)公は、弥山信仰者であり何度も宮島滞在をしていました。
紅葉谷にある老舗旅館「岩惣」を常宿とし、1896年、1906年、1907年には後藤新平(ごとうしんぺい)伯爵と会談を行うなど、政治の場としても利用していました。
数えれば他にもキリが無いのですが、日本人として忘れてはならないあの人も、宮島へ宿泊者をしたことがあります。
「こころ」「それから」「門」「明暗」「三四郎」「坊ちゃん」「吾輩は猫である」•••••••,と、もうお解りかも知れません。
夏目漱石(なつめそうせき)先生です。
夏目先生は2026(令和8)年12月9日に没後110周年を迎えますが、今から130年前の1896(明治29)年4月に。
愛媛県松山市の中学校から、新赴任先の熊本へ船で向かう途中、宮島へ一泊しています。
4月7日の広島地元紙 中国新聞の記事によれば、実物は既に失われているものの、宿帳のコピーが残っていて。
夏目先生の本名の夏目金之助との署名が、 紅葉谷の岩惣から発見されたそうです。
これまでの資料としては、宮島宿泊は当時一緒に宿泊した高浜虚子(たかはまきょし)先生へ、思い出話として手紙に記しているだけでした。
老舗旅館″岩惣″の宿帳が発見されたことにより、1896(明治29)年4月10日に岩惣へ宿泊したことが、判明したそうです。
夏目先生はこの年、 回廊の 柱の影や 海の月 という俳句を詠んでおり、短編小説″一夜″では「百二十間の回廊」「海の中には大きな華表」などの記述があるそう。
タイトルの百二十間の回廊とは、そもそも厳島神社の回廊の呼称であり、華表は″とりい″と詠まれていて、大鳥居を指しています。
そして華表とは、中国の宮殿や陵墓などの前に建てられる、龍や雲の模様が彫刻された一対の華やかな石柱のこと。
古代は「誹謗木」と呼ばれる標識でしたが、装飾されて花表とも呼ばれましたが、タイトルでは夏目先生が鳥居を文学的に表したものです。
また、1909(明治42)年にソウルの太院君別荘を訪れた日の日記に「宮島の紅葉に水のない位なり」と記しています。
夏目先生にとって、たった一泊ではありましたが、宮島での強い印象を受けたのが、今も感じ取れます。
今は温暖化作用で、桜が昔よりは早く咲いて散ってしまいますが、当時は当日に満開もしくは桜吹雪だったことと思われます。
明治29年4月10日の天気は、データが取れませんでしたが、夏目先生の手紙から推察するに、好い空模様だったと情景が思い浮かびます。
「宮島にて紅葉に宿したる事など(中略)今も愉快なる印象を脳裡に留め居候」
と記していることから、本当に楽しかった思い出となっていた様子です。
ちなみに″紅葉に宿したる″とは、岩惣が旅館の商号で、食堂は もみぢや と登記していたため、モミジに泊まったと、オシャレに表現しているところは、さすが文豪と言ったところでしょう。
尚、岩惣には明治時代の看板が保存されていて、それには「もみぢや いは惣旅館」と書かれています。
昨日の写真は宮島港・宮島桟橋前広場の桜ですが、当時は場所が違ったので、夏目先生は見ておられないのですけれど。
今日の写真は厳島合戦の毛利軍 囮城″要害山″の桜なので、ひょっとしたら散策され見られていたかも知れません。
そして岩惣ては夏もみじを肴に、一献 傾けていたのかも知れませんね。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 8, 2026
「宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -②」
世界遺産の島 宮島にある史跡、要害山の桜です。
この山は厳島合戦の折に毛利軍が、囮城として布陣を敷き宮尾城と呼ばれた場所です。
写真は16枚UPしています。#宮島 #桜 #cherryblossom
🌍️https://t.co/qDUwAreMKD
□ pic.twitter.com/SbtWKIDPdt
アメブロアプリから写真をアップロードすると、有料会員でもやっぱり画質が劣化するので。
広島城の記事では X(Twitter)を貼っていましたが、宮島の桜でも貼っています。
16枚中、4枚ですが、クリアな画像をご覧頂けます。
尚、Xは更新が遅くなりますので、そこは御容赦くださいませ。
宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -①
例年通りなら、今年も宮島の桜をUPするところですが、今年は広島城天守閣が閉城と言うことで。
「惜別の天守閣 / 広島城と桜」のタイトルでの、毎日更新としたいと思います。
と言ってはおりましたが、やはりこのブログから「宮島の桜」が無い訳にはまいりません。
世界遺産の島の春を満喫して頂きたく思います。
広島市内も、ずいぶんと花は散ってしまっていますが、完全な葉桜とはなっていなくて、まだ多少は桜が見られます。
己斐の旭山神社は昨日、桜吹雪に見えたのですが、日曜日はお花見のラストデーでもあったようです。
今年は開花から一気に咲き乱れるまで、1週間ほど時間がかかったので、長く楽しめた年でもありました。
また、一気に花開いた木もあれば、いつまで経っても大きな蕾のままな、個体差も激しかったことも、長く楽しめた要因でした。
さて私ですが、昨年まで例年ならば、一気に2週間ほど毎日更新で突っ走るものの。
今年は疲労と睡魔に勝てず、月曜日の更新を断念してしまいました。
こういう些細なところが、去日に話した生存率の•••••••。
「あぁ、こういうことかぁ~」と、思ったりするシーンだったりします。
桜の花が散るように、誰もがみんな散る時を迎えるのですけれど。
自分がどう散るのかも、気がかりではありませんが、気になるところではあります。
そう言えば昨日、知人と桜と椿の話をしていたのですが、ヒラヒラしながらも一気に終わってしまう桜と。
終焉を迎えたら、首から花ごとドサっと落ちる椿。
どちらも美しく可憐でありながら、最後の迎え方は対照的ですよね。
どちらも人の生涯の終え方に似ているのですが、人それぞれなところと同じように。
花にも生き様というのが、それぞれあるんだなぁと、感慨深く染み入ったところです。
人も、人生の中で花に喩える場面は時折ありますが、花も人と同じく生きていると実感しました。
花も人も、散り方はそれぞれです。
史実ではいろいろ伝わり、それなりによく知っている気になりますけれど。
実際は、どのような気持ちで生きて、何を思いながら散って逝かれたのでしょう。
春の陽気にノンビリしている鹿さんですけれど、この夫婦もこれまでどんな人生を生きてきて、これからどんな一生を過ごすので しょう。
春は新しく命が芽吹き、生命力の息吹を感じる季節だからこそ、そういうところに想いがいってしまう一面もあります。
桜の花の切なさが、そう感じさせるのかも知れません。
そんなこんなで、宮島の桜の毎日更新です。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 7, 2026
「宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -①」
神の宿る島 そして 世界遺産の島。
宮島の春です。#宮島 #桜 #cherryblossom
https://t.co/cq1yMfpPXI
□ pic.twitter.com/xJvMc9rNcO
アメブロアプリからアップロードすると、有料会員でも画質が劣化するので。
広島城の記事では X(Twitter)を貼っていましたが、宮島の桜でも貼っていきます。
16枚中、4枚ですが、クリアな画像をご覧頂けます。
尚、Xは更新が遅くなりますので、そこは御容赦くださいませ。
広電 別れの茶屋踏切 / 雨降り頻る桜と雫
| ・ | ・ | ![]() | ||
| ⭐⭐⭐ 郷土史 日本史 私撰集 ⭐⭐⭐ | ||||
昨日の記事「広電 5000形 GREENMOVER / 春と桜花とX’mas?」で、別れの茶屋踏切での写真を。
2枚UPしましたが、今日の写真は昨日の雨の中で撮った、別れの茶屋踏切のソメイヨシノです。
ここは史跡にこそ指定されていませんが、広島城の開城と共に整備された西国街道の。
今でも郷土史ファンには有名なスポットです。
が、この桜は元 街道樹(街路樹)ではなく、個人所有の木です。
付近の某家にお子さんが誕生され、それを記念して植えられた桜だそうです。
草津町は、記紀の時代では神武天皇の仮皇居、熊襲征伐での神功皇后の力剪山、それ以降は草津八幡宮や草津城など。
日本史好きにはそういうイメージが強いようですが、江戸時代から草津は広島でも優良な漁港でした。
今でも草津漁港は稼働しており、広島市中央市場も隣接していますが、江戸時代には草津城下の港から魚の行商さんが活躍していました。
今は広島電鉄の宮島線が走り、住宅街が広かった陸内地となっていますが、当時は海岸線の行商道でした。
尚、草津城下とは言いますが、江戸時代には一国一城令によって草津城は廃城となっていましたが、城下町はそのまま残って現在に至っています。
その草津港から行商さんは西へ東へ北へと、鮮魚を担いで売りに歩くのですが、東へのルートがこの行商道でした。
西広島と呼ばれる己斐にも、かつては己斐城がありましたが、これは江戸時代に廃城となったのではなく、織豊時代に広島城へと移転した故に役目を終えた城でした。
仕事を終えた行商さんたちが、帰路へつく際に西国街道と行商道の合流点、帰りは別れの交差点となるここで、一息入れた場所でした。
その呼び名が示す通り、この分岐路にはかつて茶屋(喫茶店のような店)があり、ここでお茶を飲んだり、お餅を食べたりして家路へと向かっていました。
もちろん江戸時代では街道筋ですから、普通に往来する人々や、この先の宮島往還へ向かう旅人でも、賑わっていた場所でした。
江戸幕府260年の時が終わり、明治時代となって、鉄道が敷設されて1897(明治30)年9月25日に己斐駅(西広島駅)が開業した後も、その賑わいは衰えず。
1922(大正11)年8月22日に宮島線が己斐~草津間に開業した折には、茶屋隣にできた踏切に″別れの茶屋″と名前が付きました。
何故、一個人のお店の名称が、鉄道踏切の名称となったのか。
それは己斐にかつて存在した、柴竹庄という茶店を併設した屋敷の伝承地から始まります。
この屋敷へ住んでいたのは、柴竹源左衛門(しばちくげんざえもん)と言う人で、第3代 広島藩主の浅野長晟(あさのながあきら)公の、幼友達であったと伝わります。
「江戸時代の初期、長晟公が通りかかると八幡川が出水して川を渡れず困っていた。近所の柴竹源左衛門が板を持って来て渡してやった」との逸話が伝わります。
広電西広島駅から約100メートルの場所へ、今はコンクリート橋となった、源左衛門橋が架かっています。
そこから更に約200メートル進んだ場所へ茶店があり、長晟公が源左衛門と談笑しながら茶を飲み、しばしの時を共にした後に別れたと記録が残ります。
ちょうどその辺りに柴竹庄と呼ばれる茶店を併設した屋敷がありました。
尚、浅野長晟公が藩主だったのは1619年から1632年の13年間で、別れの茶屋が創業したのはそれから約100年後の、宝暦年間(1751~1763年頃)と伝わります。
そして更に、山陽本線が敷設されて以降は踏切を渡って平坦な旧道が続きますが、それ以前はここから険しい山道へと繋がった古 西国街道でした。
宮島やその先の岩国の方面へ向かう人は、ここから命がけの峠越えを始めることとなり、急激な坂道を登ることとなります。
道は己斐峠へと繋がり、沼田を通って再び海岸線へ向かうのですが、このルートには山賊も棲んでいて、旅人の安全は脅かされていました。
それ故に、旅人を見送る人は市街地からここまで一緒に歩き、旅の安全を祈願しながら見送った場所。
最後に一緒にお茶を飲み、お餅を食べて出立する場所。
街道は時代と共に整備され、 平坦な海岸線ルートがやがてメインルートに遷っていきますが、別れの茶屋の名称は広島の町の歴史そのものでもあった訳です。
茶屋は昭和初~中期に廃業となったようですが、お店としては継続されていて、現在はご子孫(柴竹さん)がパン屋「別れの茶屋」を営んでおられます。
広島の″峠の力餅″である、名物の″よもぎ餅″は現在でも販売されていて、その歴史を味わうことができます。
今日は写真を21枚UPしていますが、せっかくの宮島線沿いなのですから、電車を入れての写真は7枚あったりします。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 5, 2026
「広電 別れの茶屋踏切 / 雨降り頻る桜と雫」
線路沿いに咲き誇る個人所有の桜。
広島城天守閣閉城の今、別れの茶屋の広島 郷土史を綴ってみました。#郷土史 #広島 #別れの茶屋
🌎https://t.co/B69ubxonOA
□ pic.twitter.com/PA9UFvLyUw
もみじまんじゅうなら、どっちも好き♪
あんパンはこしあんかな?
でも、アンパンマンはつぶあんならしいよ(笑)
広電 5000形 GREENMOVER / 春と桜花とX’mas?
厳しく辛い極寒な季節に、心から待ち望んだ春でしたが。
桜の季節も、もう過ぎ去ろうとしています。
冒頭と2枚目は、別れの茶屋踏切近くの、ソメイヨシノです。
これね、長い年月、ヤマザクラだと思っていたのですけれど、実はソメイヨシノのようです。
春を謳歌して咲き乱れると、電車と合わせて撮れづらくなるので、3分咲きの頃に撮りました。
そう、広島城よりも前なんですよね。
この日に撮ったのが、5000形 GREENMOVER だったので、今日は初代グリーンムーバーの写真をUPします。
広島電鉄の5000形 電車は、フラットフロアの超低床車の先駆けで、日本で初めて営業運転を始めたバリアフリー車両でした。
5両編成なのに、台車を3つしか履いていない魔法のような構造は、ドイツのシーメンス社による設計。
今でこそ、全国に超低床電車は当たり前のように走っていますが、当時は超低床のバスも存在していませんでした。
1号編成は、話題作りのためにわざわざ飛行機で納品され、広島空港で電車が降ろされました。
残りは普通に船便で輸送され、1999(平成11)年から2002(平成14)年にかけて12編成が輸入されましたが。
今はもう2編成しか走っていません。
ところで広島城の桜と言えば、昨日の記事で最終回でしたけれど、その最後の記事がね。
基本的に歴史系の内容を書く時には、一旦、箇条書きを羅列して、そこへ書籍やネットからの必要な資料を羅列。
そこから文章へと構築していくのですけれど、これを毎日更新でやろうとしてら、とても大変で(笑)
朝7時の公開に間に合わなかった日が、4回中3記事(爆)
執筆途中の状態を、1番手グループでお越し頂いた方々へは、見られてしまいました(照)
が、最後の昨日の記事はね、編集しても更新内容が反映されず、または同一文章が2つ入っていたり、見知らぬ文章が混入していたり。
8時前まで、悪戦苦闘な戦闘状態図でした。
7時過ぎの数分間、昨日の記事はアクセス不能になっていたのは、私のせいではないのですけれど。
それでも1日で1番多い訪問時間帯なので、多くの方々へご迷惑かけてしまいました。
もう、いみ解んない。
でも、ごめんなさい。
もうこれはね、今日は絶対に謝っておこうと、ここへ記しました。
さてグリーンムーバーですが、ラスト4枚の夜間の写真は、クリスマスイブ = 12月24日の西広島駅でした。
他の写真は、桜の写真以外は全部、高須駅付近です。
惜別の天守閣 -④ / 広島城と桜 2026
「惜別の天守閣 / 広島城と桜 2026」の最終回です。
この広島から、お城が無くなる。
そんな現実が、未だに信じられませんが、広島城へ行ってみると、中へ入ることはできません、
毛利家から福島氏へ、そして浅野家へと城主の変遷があった広島城ですが、廃藩置県後は浅野氏は侯爵家となります。
華族だった浅野長武(あさのながたけ)公は第29代当主で、日本国の美術史家、政治家であり、貴族院侯爵議員、東京国立博物館長を歴任しました。
祖父の名前は″武″で、父の名前は″武治″ですが、両名とも″長武″公から1字を頂いたものです。
長武公は1895(明治28)年生まれ、祖父 武は1912(大正1)年の生まれ、父 武治は1938(昭和13)年の生まれです。
祖父 武が亡くなった後、祖母 花子の名義で、日本刀や頼山陽著の絵画や屏風などの他、浅野家ゆかりの品を、広島城へ寄贈しました。
天守閣は資料館そして美術館として建てられた再建模擬天守でしたが、三の丸へ整備中の「広島城三の丸歴史館」へ。
天守閣の収蔵品を展示・保管するとのことで、2026年度中の開館予定となっています。
さて、広島城の略歴をこれまで3回に分けて記しましたが、今日はその4となります。
1894(明治27)年に開戦した日清戦争では、当時の山陽本線の終点であり、陸軍専用線の宇品線の起点でもあった広島へ、大本営が設置されました。
大本営の建物は石造りの白亜な洋風建築で、広島城の本丸へ建築され、城内の第五師団司令部へ仮皇居も造営されました。
明治天皇は広島城へ1894(明治27)年9月〜1895(明治28)年4月の約7ヶ月間常駐され、この間、臨時帝国議会が開催されるなど、広島は事実上の日本の首都として機能しました。
1895(明治28)年2月に、広島で最初の日清講和交渉が行われましたが、清国側の使節団に条約を締結するための十分な権限(全権)が記されていなかったことから。
条約締結後の法的根拠が担保されない故に、天皇陛下御臨席で、伊藤博文(いとうひろふみ)内閣総理大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)外務大臣と。
張蔭桓(ちょういんかん)全権大使、邵友濂(しょうゆんれん)全権大使との交渉は、わずか数日で打ち切られ、使節団は2月4日に宇品港から帰国しました。
第2回の講和会議は下関で行われ、広島大本営は解散となりましたが、建物はこの後に史跡となりました。
大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されており、当時、従軍記者として訪れた正岡子規が1句残しています。
広島へ大本営が設置された事実は、近隣都市の呉には海軍鎮守府が整備されたこともあり、この後、軍都として発展を続けることになります。
現在の相生通りは広島城の外堀だった位置で、紙屋町交差点は大手御門がありましたが、都市整備の過程で1909(明治42)年に、埋め立てが始まります。
お堀の埋め立ては中堀も同時に行われ、1911(明治44)年に完了した後は路面電車の軌道が敷設されました。
路面電車の開業は1912(大正1)年11月で、現在の本川町~稲荷町の区間であり、この線路は開業以来変わっていません。
1915(大正4)年にはコンベンションセンター「広島県物産陳列館(現 原爆ドーム)」が櫓下門前にオープンし、日本有数の都市として栄華を誇りましたが。
1945(昭和20)年8月6日、人類史上初の核攻撃を広島は受けて、都市が消失します。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 2, 2026
「惜別の天守閣 -④ / 広島城と桜 2026」
今回は夕暮れから夜景の13枚です。
そして、広島城の略歴をこれまで3回に分けて記しましたが、今日はその4。
最終回です。#桜 #桜名所 #cherryblossom
🌍️https://t.co/7aUVzSk2yu
□ pic.twitter.com/FVzU9cp0t8
正岡子規は1895(明治28)年春、日清戦争の従軍記者として広島に約1ヶ月滞在し、比治山や呉で多くの句を詠みました。
「鶯の口のさきなり三萬戸(鶯の鳴き声の先には、3万戸の広島市街地が見える)」は、比治山から見下ろした当時の広島市街を詠ん だ句。
「呉かあらぬ 春の裾山 灯をともす(呉の山裾に明かりが灯る、春の穏やかな夕景)」は呉の街を詠んだ句です。
-追記-
-安芸もみじ ・原点回帰のリンク-
長く広島の地へ住んでいると
平和公園や周辺の慰霊碑に
必ず父•母•親戚の誰かが収まっています
広島城閉城
迷いましたがやはり
最後はこれで締めくくらなければ終われません
-注釈-
インスタ内の日本語訳は間違っています。
実際の英文は、以下のように記されています。
「広島への原爆投下。
1945年8月6日、第二次世界大戦末期に発生しました。アメリカ合衆国は、ボーイングB-29スーパーフォートレス爆撃機「エノラ・ゲイ」から「リトルボーイ」と呼ばれる原子爆弾を投下しました。
爆発により広島市の大部分が瞬時に破壊され、約7万~8万人が即死、さらに数万人が火傷や放射線被曝により後遺症で亡くなりました。この原爆投下は甚大な破壊と長期にわたる健康被害をもたらし、その3日後には長崎にも原爆が投下されました。
これらの出来事の後、日本は降伏し、事実上第二次世界大戦は終結しました。」
翻訳・安芸もみじ
惜別の天守閣 -③ / 広島城と桜 2026
あれだけ天気が好かったものの。
翌日•••••••,そう、昨日はまた雨な日となりました。
降り頻る雨の中で、満開を誇る桜は。
その寒さと雨に散り始めてしまいました。
春は暖かい南からの空気に、北からの冷たい空気が流れ込んで来るので、どうしても飽和状態を超えてしまい。
雨となって湿気が地上へ落ちて来てしまいます。
そのタイミングが、桜の満開の時と重なってしまうと、少し物哀しく感じてしまう春となってしまいます。
今年は開花宣言から実際に咲き誇り始めるまで、日数がかかり過ぎたことが残念に感じます。
さて、1871(明治4)年7月14日、明治新政府による改革で廃藩置県が実施されました。
各藩の領主・大名による藩政体制は終りを告げることとなり、各県が発足して広島藩は広島県へと移行しました。
初代広島県知事は幕末に坂本龍馬(さかもとりょうま)公と親交の深かった、河野敏鎌(こうのとがま)大参事で、広島城 本丸には広島県庁が設置されました。
知事が伊達宗興(だてむねおき)参事へ代わると、広島県内を17大区・158小区に区画されましたが。
その渦中にて本丸へ陸軍駐屯地となる鎮西鎮台(後の熊本鎮台)、第一分営が置かれ、県庁舎は三の丸に移転しました。
1873(明治6)年1月になると、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には大日本帝国陸軍の施設が拡充されるようになります。
2ヶ月後の3月には、三の丸に兵営が置かれることになったことから、県庁舎は国泰寺へ移転します。
1887(明治20)年、広島の開基地ということから、旧城廓内である丸の内を正式に「基町」と名付けられています。
1888(明治21)年5月、広島鎮台は第五師団に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させます。
広島市は軍都として近代都市へと発展し始めて、現代に繋がる広島旧市内の基盤が完成しました。
1894(明治27)年)6月10日に山陽鉄道(現 JR山陽本線)が広島まで開通すると、7月には日清戦争が開戦され、城内に広島大本営が設置されます。
8月20日には、陸軍専用線として宇品線が広島〜宇品間で開通。
9月15日から1895(明治28)年4月27日まで、明治天皇は広島に行幸し常駐されたことから、第7回帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能します。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 2, 2026
「惜別の天守閣 -③ / 広島城と桜」
本丸から内堀を抜けて、お堀沿いを歩きます。
もう夕暮れも深くなって、せつなさがマシマシです。#桜 #桜名所 #cherryblossom
🌍️https://t.co/D5qC5BGQov
□ pic.twitter.com/GhAs4gxR9S
アメブロアプリからアップロードすると、有料会員でも画質が劣化するので。
桜の記事のみ、X(Twitter)を貼っています。
13枚中、4枚ですが、クリアな画像をご覧頂けます。
尚、明日もXは更新が遅くなりますので、そこは御容赦くださいませ。
惜別の天守閣 -② / 広島城と桜 2026
日ごとに春爛漫化が進む今日このごろですが。
昨日は前夜から続いた大雨の影響で、少し肌寒さを感じたものの、陽が顔を出し始めると気温は一気に上がりました。
しかし夕方にさしかかり始めたころ、強い北風が吹きさらして、陽の傾きが大きくなるほど、寒さを感じるように。
しかし突然、風は反転して南風となり、一時的に寒さが緩みます。
しかし完全に日没を過ぎて帳が降りてしまったころから、再び北風が吹き荒み気温を一気に下げました。
もう暦の上では春なものの、北風にも最後の意地があって、このまま南風の勢力に押し流される訳には、いかなかったのでしょう。
北風には北風のプライドがあるのかも知れませんけど、既に太陽黄度は立夏に向かっていて、どんなにあがいてもムダなんですよね。

春の陽気に対して冬将軍も、最後の存在感を示したかったのでしょうね。
プライドは大切ですが、行き過ぎると迷惑でしかありませんよね。
さて、広島城ですが、福島正則(ふくしままさのり)公の時代には、海抜0m地域であるが故に、大規模都市開発の土木工事が行われて。
幕府から謹慎と改易を申し渡されながら、浅野長晃(あさのながあきら)公の時代には、同等以上の干拓工事が実施されています。
これは単純に、豊臣縁故の大名 = 外様大名か、徳川勢傘下の大名か、単純にそのように捉えられます。
とにかく昭和の戦後時代でも、豪雨や台風で洪水災害が多発していた広島は、江戸時代においても都市整備が急務でした。
武家諸法度の縛りがあるため容易に城の改修や、城下町の整備ができない時代でしたが、広島に関しては浅野氏時代に構築された石垣などが現存しています。
↓↓ ステレオグラフ 交差法 ↓↓

また、大規模な都市整備事業は引き続き行われ、約250年間で当初の区域より5~6倍規模にまで市街地は広がりました。
それによりたびたび悩まされていた洪水被害や、それを修復した記録が多数残っている上に、地震の被害にも記録に残っています。
1624(寛永1)年、安芸国を震源地とした地震では石垣や多門・櫓・塀などが崩壊したことを最初に、以降数度地震災害の記録が綴られています。
広島の都市開発が急務であることは、幕府も理解していたことから、毛利・福島と連なる外様領地であることで問題解決ができずにいたため。
福島氏を改易して徳川方大名を配置して、幕府転覆の危惧を無くした上で、都市開発事業を推進させたと、考える方が自然です。
1864(元治1)年の第一次長州征討の際には、広島城は徳川慶勝を総督とする幕府軍の大本営となります。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 1, 2026
「惜別の天守閣 -② / 広島城と桜」
広島城の天守から離れつつ、散策しながら撮っています。
広島城天守閣にとって最後の春来春かも知れない٠٠٠٠٠٠をイメージして13枚です。#広島城 #桜 #cheriblossom
https://t.co/2krOdvNVlF
□ pic.twitter.com/1BNiHc1q89
アメブロアプリからアップロードすると、有料会員でも画質が劣化するので。
桜の記事のみ、X(Twitter)を貼っています。
13枚中、4枚ですが、クリアな画像をご覧頂けます。
Xは更新が遅くなりますので、そこは御容赦くださいませ。






















































