
惜別の天守閣 -② / 広島城と桜 2026
日ごとに春爛漫化が進む今日このごろですが。
昨日は前夜から続いた大雨の影響で、少し肌寒さを感じたものの、陽が顔を出し始めると気温は一気に上がりました。
しかし夕方にさしかかり始めたころ、強い北風が吹きさらして、陽の傾きが大きくなるほど、寒さを感じるように。
しかし突然、風は反転して南風となり、一時的に寒さが緩みます。
しかし完全に日没を過ぎて帳が降りてしまったころから、再び北風が吹き荒み気温を一気に下げました。
もう暦の上では春なものの、北風にも最後の意地があって、このまま南風の勢力に押し流される訳には、いかなかったのでしょう。
北風には北風のプライドがあるのかも知れませんけど、既に太陽黄度は立夏に向かっていて、どんなにあがいてもムダなんですよね。

春の陽気に対して冬将軍も、最後の存在感を示したかったのでしょうね。
プライドは大切ですが、行き過ぎると迷惑でしかありませんよね。
さて、広島城ですが、福島正則(ふくしままさのり)公の時代には、海抜0m地域であるが故に、大規模都市開発の土木工事が行われて。
幕府から謹慎と改易を申し渡されながら、浅野長晃(あさのながあきら)公の時代には、同等以上の干拓工事が実施されています。
これは単純に、豊臣縁故の大名 = 外様大名か、徳川勢傘下の大名か、単純にそのように捉えられます。
とにかく昭和の戦後時代でも、豪雨や台風で洪水災害が多発していた広島は、江戸時代においても都市整備が急務でした。
武家諸法度の縛りがあるため容易に城の改修や、城下町の整備ができない時代でしたが、広島に関しては浅野氏時代に構築された石垣などが現存しています。
↓↓ ステレオグラフ 交差法 ↓↓

また、大規模な都市整備事業は引き続き行われ、約250年間で当初の区域より5~6倍規模にまで市街地は広がりました。
それによりたびたび悩まされていた洪水被害や、それを修復した記録が多数残っている上に、地震の被害にも記録に残っています。
1624(寛永1)年、安芸国を震源地とした地震では石垣や多門・櫓・塀などが崩壊したことを最初に、以降数度地震災害の記録が綴られています。
広島の都市開発が急務であることは、幕府も理解していたことから、毛利・福島と連なる外様領地であることで問題解決ができずにいたため。
福島氏を改易して徳川方大名を配置して、幕府転覆の危惧を無くした上で、都市開発事業を推進させたと、考える方が自然です。
1864(元治1)年の第一次長州征討の際には、広島城は徳川慶勝を総督とする幕府軍の大本営となります。
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— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 1, 2026
「惜別の天守閣 -② / 広島城と桜」
広島城の天守から離れつつ、散策しながら撮っています。
広島城天守閣にとって最後の春来春かも知れない٠٠٠٠٠٠をイメージして13枚です。#広島城 #桜 #cheriblossom
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