
宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -②
日本三景 安芸の宮島と言えば、1922(大正11)年12月にアインシュタイン博士が、そして1937(昭和12)年と1948(昭和23)年には。
ヘレンケラーが滞在されたことは有名なお話しですが、1954(昭和29)年2月、マリリンモンローも新婚旅行で来日した際に宮島を訪問し、宮島の情景に感動して涙を流したという逸話が残ります。
日本人でも、初代総理大臣の伊藤博文(いとうひろぶみ)公は、弥山信仰者であり何度も宮島滞在をしていました。
紅葉谷にある老舗旅館「岩惣」を常宿とし、1896年、1906年、1907年には後藤新平(ごとうしんぺい)伯爵と会談を行うなど、政治の場としても利用していました。
数えれば他にもキリが無いのですが、日本人として忘れてはならないあの人も、宮島へ宿泊者をしたことがあります。
「こころ」「それから」「門」「明暗」「三四郎」「坊ちゃん」「吾輩は猫である」•••••••,と、もうお解りかも知れません。
夏目漱石(なつめそうせき)先生です。
夏目先生は2026(令和8)年12月9日に没後110周年を迎えますが、今から130年前の1896(明治29)年4月に。
愛媛県松山市の中学校から、新赴任先の熊本へ船で向かう途中、宮島へ一泊しています。
4月7日の広島地元紙 中国新聞の記事によれば、実物は既に失われているものの、宿帳のコピーが残っていて。
夏目先生の本名の夏目金之助との署名が、 紅葉谷の岩惣から発見されたそうです。
これまでの資料としては、宮島宿泊は当時一緒に宿泊した高浜虚子(たかはまきょし)先生へ、思い出話として手紙に記しているだけでした。
老舗旅館″岩惣″の宿帳が発見されたことにより、1896(明治29)年4月10日に岩惣へ宿泊したことが、判明したそうです。
夏目先生はこの年、 回廊の 柱の影や 海の月 という俳句を詠んでおり、短編小説″一夜″では「百二十間の回廊」「海の中には大きな華表」などの記述があるそう。
タイトルの百二十間の回廊とは、そもそも厳島神社の回廊の呼称であり、華表は″とりい″と詠まれていて、大鳥居を指しています。
そして華表とは、中国の宮殿や陵墓などの前に建てられる、龍や雲の模様が彫刻された一対の華やかな石柱のこと。
古代は「誹謗木」と呼ばれる標識でしたが、装飾されて花表とも呼ばれましたが、タイトルでは夏目先生が鳥居を文学的に表したものです。
また、1909(明治42)年にソウルの太院君別荘を訪れた日の日記に「宮島の紅葉に水のない位なり」と記しています。
夏目先生にとって、たった一泊ではありましたが、宮島での強い印象を受けたのが、今も感じ取れます。
今は温暖化作用で、桜が昔よりは早く咲いて散ってしまいますが、当時は当日に満開もしくは桜吹雪だったことと思われます。
明治29年4月10日の天気は、データが取れませんでしたが、夏目先生の手紙から推察するに、好い空模様だったと情景が思い浮かびます。
「宮島にて紅葉に宿したる事など(中略)今も愉快なる印象を脳裡に留め居候」
と記していることから、本当に楽しかった思い出となっていた様子です。
ちなみに″紅葉に宿したる″とは、岩惣が旅館の商号で、食堂は もみぢや と登記していたため、モミジに泊まったと、オシャレに表現しているところは、さすが文豪と言ったところでしょう。
尚、岩惣には明治時代の看板が保存されていて、それには「もみぢや いは惣旅館」と書かれています。
昨日の写真は宮島港・宮島桟橋前広場の桜ですが、当時は場所が違ったので、夏目先生は見ておられないのですけれど。
今日の写真は厳島合戦の毛利軍 囮城″要害山″の桜なので、ひょっとしたら散策され見られていたかも知れません。
そして岩惣ては夏もみじを肴に、一献 傾けていたのかも知れませんね。
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— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 8, 2026
「宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -②」
世界遺産の島 宮島にある史跡、要害山の桜です。
この山は厳島合戦の折に毛利軍が、囮城として布陣を敷き宮尾城と呼ばれた場所です。
写真は16枚UPしています。#宮島 #桜 #cherryblossom
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アメブロアプリから写真をアップロードすると、有料会員でもやっぱり画質が劣化するので。
広島城の記事では X(Twitter)を貼っていましたが、宮島の桜でも貼っています。
16枚中、4枚ですが、クリアな画像をご覧頂けます。
尚、Xは更新が遅くなりますので、そこは御容赦くださいませ。











