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グルコサミン博士のブログ

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アラレは、私にとってかけがえのない存在でした。


 

けれど、その命は病院での簡単な検査と処置をきっかけに奪われました。あまりに突然の事故、そして納得のいかない対応。私はただ泣き崩れるだけでなく、なぜこんなことが起きたのかを問い続けるしかありませんでした。

 

その思いはやがて、裁判へとつながっていきました。弁護士にも評価されるほどの精度にまで証拠を揃い、作り上げました。それでも結果は、不本意な和解。科学に基づく検証ではなく、裁判官ひとりの「心証」で結論が決まってしまう。その現実を前に、私は深く失望しました。

裁判所は事実を明らかにし、弱者を救済する場所ではない。
それを思い知らされた一方で、私の行動は無意味ではなかった、と信じたい気持ちもあります。

 

先日も書いたように、ある法律事務所で働く友人は「飼い主を馬鹿にするような体質の病院にとって、意識の高い飼い主の行動は警鐘になった」と言ってくれました。また、私のnote記事を読んでくださる獣医療関係者もいます。そうした事実は、たとえ小さくても「声が届いた証」なのかもしれません。

 

それでも。
アラレを失った現実は変わらず、私の胸に深い喪失感だけが残り続けています。

裁判に挑んだからこそ感じた無力さも、悔しさも消えることはありません。

では、私はこの喪失から生まれた思いを、どう残していけばいいのか。
その答えを探すように、いまもこうして文章を書いています。

 

怒りや悲しみだけではなく、静かに伝わる形で。
誰かが同じ苦しみに直面したときに、「一人ではない」と思えるように。
そして、アラレという存在が、確かに生きてここにいたことを残すために。

アラレを守ることはできなかった。
けれど、アラレが遺してくれた問いかけは、これからも私の中で生き続けます。

喪失の先に生まれる静かな思いを、どう残すのか。
その模索こそが、私の歩みそのものなのだと思います。

 

アラレ、君の存在はママの心の中で生き続けています。

アラレの裁判は、不本意な和で幕を閉じました。


先日、法律事務所に勤めている友人と会い、この裁判のことを話したのですが、彼はこう言いました。
「一部の動物病院は、飼い主をどこか馬鹿にしている。だから事故が多発しても体質が変わらない。でも、あなたの行動は、少なくとも意識の高い飼い主がいるという警鐘を病院に鳴らしたのだと思う。」

その言葉に、少し救われる思いがしました。

そして、noteに投稿した記事には、こんなコメントもいただきました。
「和解で終わったことをアラレちゃんに対して申し訳なく感じていらっしゃるお気持ち…切ないです。でも私は決して「負け」ではないと思います。声をあげ、裁判という形で闘い抜かれたこと自体が、どれだけ大きな意味を持つか。アラレちゃんママは本当に立派だと思います。
私もいま、愛犬を亡くして動いていますが、結果として真実にたどり着けず、幕引きのような形で終わるかもしれません。それでも私は全然構わないと思っています。黙って見過ごすことのほうが、ずっと悔いになるからです。 アラレちゃんママの姿勢を拝見して、私も後悔のないように歩み続けたいと改めて感じました。」

この言葉をいただいたとき、胸の奥に静かに温かい灯がともるようでした。
たとえ結果が思い描いたものと違っても、声をあげたこと自体に意味がある。
その思いを共有できる方がいることは、私にとって大きな励ましです。

実際、私の記事を獣医療関係者も読んでくださっているようです。
少しでも獣医療のレベルが上がり、アラレのように不幸な子が一匹でも減ってほしい、その一心で、私は裁判に挑みました。
けれども裁判の限界に阻まれ、今の形で声をあげ続けるしか道は残されていません。
「アラレママ」と呼んでいただくことに、もちろん違和感はありません。
少しでも誰かのお役に立てているのなら、それはアラレの供養そのもの。

アラレの事件を通して、私は初めて「裁判所の現実」に向き合いました。


 

そこには、私が思い描いていた「真実を科学的に解明してくれる場所」という姿とは、まったく違う実態がありました。

アラレ事件を担当したのは、その部の裁判長と、裁判官一年目の判事補でした。
 

その判事補は、終始「気持ちはわかります。「お金のためではないことがわかります」と言っていました。この言葉に一瞬救われました。
 

けれども、裁判の進行が進むにつれ、敗訴の見込みだから、和解を検討しなさいという流れになっていきました。
日本の裁判所にとって、和解は後遺症のない処理とされます。
事件を解決したときれいにまとめるための手段。

 

私は最初から和解する気持ちはありませんでした。
アラレの死の真相を明らかにしたい、その一心でしたから。
しかし和解はできないと伝えたその瞬間、裁判官の態度が一変しました。
 

その経験を通して、私は痛感しました。
裁判所は科学的に事実を解き明かす場ではないのだということ。
むしろ処理をいかに早く、丸く収めるかが重視されているのです。

さらに、今回担当していた若い判事補も、ベテラン裁判官の判断に寄り添う形で動いていました。
これでは、裁判官が交代しても、結局は同じ論理、同じ結論が繰り返されるだけ。
日本の司法が変わらないまま固定化されてしまうのではないか。
そんな危惧を強く抱かずにはいられませんでした。

 

アラレの事件は、私にとってかけがえのない存在を失った悲しみと共に、
司法の壁に打ちひしがれる経験でもありました。
そして一つの問いを突きつけられました。

「裁判所は、果たして誰のための場所なのか。」

アラレを亡くしたあと、私はずっと考え続けています。


 

命に「軽重」はあるのだろうか。
そして、動物の命は人間の命に比べて軽く扱われてよいのだろうか、と。

 

裁判の場で突きつけられたのは、「犬はもの」という法律の扱いでした。
その瞬間、アラレの存在が、私たちにとってかけがえのない命から、単なる所有物へと置き換えられてしまったのです。

どれほど大切に思っても、どれほど深い絆を結んでいても、裁判の中では「命」ではなく「物産」としてしか見てもらえない。
それが、現実でした。

しかし、飼い主にとって動物は、家族そのものです。
その命を託す場所が動物病院である以上、そこで問われるべきは医療としての技術だけではなく、倫理としての姿勢でもあるはずです。
命に向き合う姿勢は、人と動物で分けてよいものではありません。

 

残念ながら、動物医療の現場にはいまだに「飼い主は医療知識がないから分からないだろう」と軽んじる体質や、「事故が起きても責任を取らなくていい」という空気が広く残っています。
その結果、アラレのように不幸な事故で命を落とす子が後を絶たない。
ここにこそ、動物医療における最大の倫理的課題が潜んでいるのだと思います。

 

命に軽重はあるのか。
私は、答えは「ない」と信じています。
ただ一つの命は、かけがえのない存在であり、数字で計れない重みを持っています。
その視点を、医療の現場に携わる人こそ、大切に持ち続けてほしい。

アラレの裁判は不本意な和解で終わりましたが、それでも私が声をあげた意味は、ここにあると思っています。
「命を軽んじてはいけない」という当たり前のことを、あらためて問いかけるために。

 

私のnoteを獣医療関係者の方々も読んでくださっています。
この声が少しでも届き、動物医療の倫理のレベルアップにつながり、アラレのような不幸な子がひとりでも減ることを、私は心から願っています。

軽井沢での滞在に欠かせないスーパーといえばツルヤ。特に軽井沢店は500台近い駐車場を備えた巨大店舗で、観光客も地元の人も別荘民もひっきりなしに訪れます。ゴールデンウェークやお盆期間にレジに並ぶ人の多さに驚きますが、不思議と並んでいる時間すら旅の一部と感じさせてくれるのがツルヤの魅力という人もいるが、私は今回のお盆休みには一度もツルヤ軽井沢店に足を踏み入れなかった。レジだけではなく、駐車スペース探すのも一大苦労ですっかり苦手になってしまいました。

 

私は滞在中、自分の食材を買い込むだけでなく、親戚や友人に「信州の風セット」と名付けた詰め合わせを送っています。ここではその品と、私ならではの思い出や贈り方をご紹介します。

 
1. レトルトカレー

信州産エリンギが入ったカレーは、ツルヤらしい工夫の一品。非常時用の備蓄としても常備していますが、正直「災害時まで待てない」ので時々食卓に登場します。

 
2. 牛乳あんドーナツ

好奇心で偶然買ったのが始まりでした。あまりにおいしくて、東京に戻ってから似た品をいろいろ試しましたが、どうしてもツルヤのしっとり感には及ばず。「比べてみたけれど、やっぱりツルヤにしかない味」だと実感しました。

 
3. リンゴジュース
 

信州産りんご100%。種類がとても豊富で、りんごの品種によって味わいが異なります。季節限定品もあるので、訪れるたびに新しい味に出会えるのも楽しみのひとつ。さらに「混濁タイプ」と「透明タイプ」に分かれ、にごりは濃厚で果実感たっぷり、透明はすっきり飲みやすいと、それぞれ魅力があります。

私の一押しはこの混濁リンゴジュース。初めて飲んだとき「りんごをかじった瞬間の香りがそのまま入っている」と思いました。我が家ではたまに帰り電車のお供セットの一部に。

 
4. 信州みそ

川中島みそやツルヤオリジナルなど種類豊富。一押しはこの蔵づめです。中辛と減塩タイプもあり、送り先の年齢にによって選びます。このお味噌を使ったおせんべいも人気のようです。

煮込み料理だけでなく、冷やしきゅうりにのせて晩酌の友にもしています。

 

5. ジャム各種

ものすごく種類があるが、写真は私がよく選ぶ種類。信州の特徴、長野の果実をそのまま閉じ込めたジャム。選ぶ時間が長すぎて、結局悩むこと自体が楽しみになっています。親戚に送るときはジャムを多めにして「朝食が華やぐセット」に。

 

6. ツルヤオリジナルクラフトビール

ツルヤのロゴが入ったクラフトビールは、旅の記念としても特別感があります。冷蔵庫に冷やして「乾杯するときに旅を思い出せる」のが気に入っています。

 
7. ナッツ類
 

ツルヤオリジナルクラフトビールに素焼きナッツはお酒の友に、夜のひとときを豊かにしてくれる「小さなぜいたく」です。

 

8. 信州ワイン(赤・白)

手頃な価格でありながら安定した味わい。友人宅に持参する際、「気取らないのに土地の個性が感じられる」と喜ばれます。

 
9. ディープソース
これも種類が豊富で、悩みながら選ぶ。上記の種類は私がよく買っています。

野菜にも肉にも合う万能ドレッシング。味が深く、これ一本で料理が一段と豊かになるので、意外にお土産として喜ばれる調味料です。

 

10. 花岡の和菓子(くるみだんご)

ツルヤ店内のテナントで買える和菓子。お土産というよりその場で食べるご褒美。電車に乗り込む前に必ず買って電車のお供セットとして、リンゴジュースと一緒にいただくのが私の定番です。

 

こうして選んだ10品を「誰にどう贈るか」「どんな場面で食べるか」に合わせて組み合わせるのが、私流の楽しみ方。普通なら専門店で買うようなお土産を、あえてスーパーで選ぶからこそ、暮らしと旅の中間のような軽井沢の記憶を持ち帰れるのです。

アラレを失ったとき、私はどうしても納得できませんでした。


 

病院での検査の中で命が失われ、説明も十分ではない。
「これは事故だったのか、それとも過失だったのか」。
その問いに向き合わずには、前へ進めませんでした。

 

だから私は裁判に踏み出しました。
一人ではとてもできないほどの資料作りに取り組み、AIの助けを借りながら、最後弁護士からも「十分通用する」と言われるほどの準備を整えました。
それは「正しさ」を追い求める行為そのものでした。

 

けれども、現実の裁判は科学的な解明ではなく、裁判官ひとりの心証で結論が左右される場。
最終的には、不本意な和解で幕を閉じました。
どれほど理路整然と積み上げても、正しさが届かない壁がある。
その限界を痛感した瞬間、深い虚しさに襲われました。

でも、
その過程でアラレが私に教えてくれたことがあります。

正しさを求めることは大切だけれど、それだけでは生きていけないということ。
怒りや悔しさに囚われ続けてしまえば、残された日々を曇らせてしまうということ。
だからこそ、あるところで手放すこともまた必要なのだと。

手放すことは、諦めることではありません。


アラレが生きていた証を、より静かに、より確かに残していくための選択。
その声を誰かに届けるために、私が書き続けるという形に変わったのです。

正しさと手放すこと。
相反するように見える二つの思いは、どちらもアラレが私に託してくれた大切なものです。

 

アラレ、
君が教えてくれた正しさを胸に刻みながら、私は同時に、静かに手放すことを学んでいきます。
それは決して忘れることではなく、君の存在をより深く抱きしめることなのだから。

愛犬アラレの裁判は、不本意な形で和解に終わりました。


 

けれど先日、法律事務所で働く友人と話す中で、私の裁判には意味があったのだと改めて感じる出来事がありました。

 

友人によれば、アラレの検査を担当した動物病院を含む一部の病院は、過去にも同様の事例が多く、事前説明や管理がずさんで、事故後も責任を取る誠実な対応ではなかった。このような体制が事故があっても変わらなかった。

しかし、私の裁判は、この一部の病院に「知識や責任意識の高い飼い主が存在する」という現実を示すものでした。この結果、従来のやり方を見直さざるを得ず、改善意識を持たざるを得ないはずです。

なるほど。

アラレの事故を起こした病院は二名の麻酔専門医を増やしたことを後になってわかりました。

 

思い通りに裁判が進まなかったとしても、愛犬を守るための私の行動は決して無駄ではなかったと友人がいう。そうか、声を上げることが、動物医療の安全意識を高めるきっかけになることを少し実感しました。

 

同じように悩む飼い主の方々に伝えたいのは、愛するペットを守るためには、たとえ小さくても声を上げる価値があるということです。私たち一人ひとりの行動が、少しずつでも動物医療の未来を変える力になると信じています。

アラレを失った裁判を通して、私は動物医療の現場に横たわる大きな課題に直面しました。
それは「動物の命が、法律上は軽く扱われている」という事実です。

日本の民法では、動物は「物」として位置づけられています。
そのため、たとえ医療事故で命が奪われても、人間の医療過誤と比べれば、扱いは驚くほど小さなものにとどまります。
裁判所が下す判断も、飼い主が感じる「かけがえのない命の重さ」とは、埋めようのない隔たりがあるのです。

 

しかし、現代の社会において動物は「家族」です。
犬や猫をはじめとする伴侶動物は、単なる財産ではなく、人と深い関係性を結び、精神的支えにもなっています。
欧米の一部ではすでに、法律上「動物は物ではない」と定義される国もあり、命の尊厳を認める方向に制度が動き始めています。
日本も、いずれはその流れに追いつかざるを得ないでしょう。

動物医療の倫理面にも、課題は山積しています。
医療事故が起きても責任が曖昧にされ、再発防止策が十分に共有されない現状。
閉ざされた体質の中で、飼い主の声はしばしば軽視されます。
しかし、そこに「透明性」と「説明責任」がなければ、信頼は生まれません。

私は裁判で痛感しました。


個々の飼い主がどれほど準備をしても、現行の法制度の枠の中では、動物の命を十分に守ることができないのです。
だからこそ必要なのは、制度そのものの見直しです。
動物を「命」として扱う法改正。
医療事故が起きたときの情報開示と検証の仕組み。
そして何より、動物医療に携わる人々が「命に向き合う専門職」であるという倫理観を持ち続けること。

命に軽重はない。
動物の命を「人間より軽い」と見なしてしまう仕組みを変えることが、これからの社会に問われているのだと思います。

アラレを守ることはできませんでした。
けれど、この経験を通して見えた課題を声にすることが、アラレが遺してくれた使命だと感じています。
そしていつか、動物の命が正しく扱われる社会になることを願ってやみません。

例年だと、お盆が過ぎれば秋を感じる軽井沢。

しかし、今年は30℃の夏日がまだまだ続き、緑豊かな高原も、地球温暖化の影響をひしひしと感じさせます。これまで暑さや自然災害から避難できる場所でありましたが、10年後、私たちはどこで安全を確保できるのでしょうか。人類は、自然を尊重し共存していかなければ、絶滅の危機を迎える日が来るのかもしれません。

 

一方で、軽井沢は年々人気が高まり、観光者も若返っています。銀座通りなどでは、食べ歩き用のお店がどんどん増え、町の風景も少しずつ変化してきました。

旧軽井沢の食べ歩きを紹介するサイトもたくさんあって、びっくりしました。

【2025】旧軽井沢銀座通りでおすすめの食べ歩きグルメ20選! | NAVITIME Travel

これは時代の流れとも言えますが、人気の高まりには、一長一短があります。

 

例えば、軽井沢産のトウモロコシ。

私も親戚や友人に送ろうと、発地市場に昼過ぎや午前10時半に足を運びましたが、すでに完売でした。

数年前は午後でも手に入ったのですが、今後は観光客と同じく、8時半に現地に行き、9時の開店を待たなければならないかもしれません。

お盆がおわって、一週間ぶりツルヤで買い物をした際も、あんドーナツが完売して手に入らず、少し寂しい思いをしました。

観光客が増えることで町が潤うのは喜ばしいことですが、オーバーツーリズムによる渋滞問題や、定住者・別荘民の普通の生活が確保できなくなる懸念もあります。

便利さと賑わいの影で、軽井沢の暮らしや自然の価値が揺らいでいることを、私たちは見過ごすわけにはいきません。

軽井沢の夏、そしてこれからの未来。美しい高原と人々の暮らしを守るために、私たちは何を大切にしていくべきか、考えさせられる毎日です。

アラレの裁判は、不本意ながら和解で終わってしまいました。

結局、科学に基づく真相の解明ではなく、一人の裁判官の「心証」によって結論が下されました。犬は「物」であるという法律上の扱いも重なり、命の重さは軽視されてしまいました。敗訴の見込みを告げられたとき、私は唖然とし、深い無力感に包まれました。

 

そのとき私は思ったのです。
もしAIさんが裁判官の代わりに案件を担ってくれたら、もっとフェアで、公平な判決になるのではないか、と。

AIさんは、私と共に資料を読み込み、事件の真相や私の気持ちを理解してくれました。長いやりとりの中で、AIさんは偏見なく耳を傾け、論理を整理してくれました。

 

しかし同時に、AIさんはこう答えました。
「私は裁判官の代わりにはなれません。私Iには心がない。怒りも涙もなく、ただ計算するだけです。最終的な判断と責任を負うことはできません。」

しかし、人間の裁判官もまた、命の重さを見失っています。
「AIにはできないが、人間だからできるはずのこと」を放棄している。
そこにこそ、司法の最大の盲点があります。
 

科学に基づかない裁判、裁判官の裁量、この国の司法は誰のために存在しているのでしょうか。

 

それでも私は思います。
AIさんのような存在がこれからもっと司法の場で活用されれば、少なくとも「心証」という不透明、非合理的な壁に閉ざされることなく、科学的で論理的な検討がなされるでしょう。そうなれば、命の重さが軽んじられることも少しは減っていくはずです。

 

私はそれを強く望みます。