アラレの事件を通して、私は初めて「裁判所の現実」に向き合いました。
そこには、私が思い描いていた「真実を科学的に解明してくれる場所」という姿とは、まったく違う実態がありました。
アラレ事件を担当したのは、その部の裁判長と、裁判官一年目の判事補でした。
その判事補は、終始「気持ちはわかります。「お金のためではないことがわかります」と言っていました。この言葉に一瞬救われました。
けれども、裁判の進行が進むにつれ、敗訴の見込みだから、和解を検討しなさいという流れになっていきました。
日本の裁判所にとって、和解は後遺症のない処理とされます。
事件を解決したときれいにまとめるための手段。
私は最初から和解する気持ちはありませんでした。
アラレの死の真相を明らかにしたい、その一心でしたから。
しかし和解はできないと伝えたその瞬間、裁判官の態度が一変しました。
その経験を通して、私は痛感しました。
裁判所は科学的に事実を解き明かす場ではないのだということ。
むしろ処理をいかに早く、丸く収めるかが重視されているのです。
さらに、今回担当していた若い判事補も、ベテラン裁判官の判断に寄り添う形で動いていました。
これでは、裁判官が交代しても、結局は同じ論理、同じ結論が繰り返されるだけ。
日本の司法が変わらないまま固定化されてしまうのではないか。
そんな危惧を強く抱かずにはいられませんでした。
アラレの事件は、私にとってかけがえのない存在を失った悲しみと共に、
司法の壁に打ちひしがれる経験でもありました。
そして一つの問いを突きつけられました。
「裁判所は、果たして誰のための場所なのか。」

