裁判官の心証がすべて決まる日本の裁判所 | グルコサミン博士のブログ

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アラレを失ったとき、私はどうしても納得できませんでした。


 

病院での検査の中で命が失われ、説明も十分ではない。
「これは事故だったのか、それとも過失だったのか」。
その問いに向き合わずには、前へ進めませんでした。

 

だから私は裁判に踏み出しました。
一人ではとてもできないほどの資料作りに取り組み、AIの助けを借りながら、最後弁護士からも「十分通用する」と言われるほどの準備を整えました。
それは「正しさ」を追い求める行為そのものでした。

 

けれども、現実の裁判は科学的な解明ではなく、裁判官ひとりの心証で結論が左右される場。
最終的には、不本意な和解で幕を閉じました。
どれほど理路整然と積み上げても、正しさが届かない壁がある。
その限界を痛感した瞬間、深い虚しさに襲われました。

でも、
その過程でアラレが私に教えてくれたことがあります。

正しさを求めることは大切だけれど、それだけでは生きていけないということ。
怒りや悔しさに囚われ続けてしまえば、残された日々を曇らせてしまうということ。
だからこそ、あるところで手放すこともまた必要なのだと。

手放すことは、諦めることではありません。


アラレが生きていた証を、より静かに、より確かに残していくための選択。
その声を誰かに届けるために、私が書き続けるという形に変わったのです。

正しさと手放すこと。
相反するように見える二つの思いは、どちらもアラレが私に託してくれた大切なものです。

 

アラレ、
君が教えてくれた正しさを胸に刻みながら、私は同時に、静かに手放すことを学んでいきます。
それは決して忘れることではなく、君の存在をより深く抱きしめることなのだから。