もし私が道端で迷子になったとき、誰かが「ここを曲がれば光が見える」と教えてくれたら、どれほど心強いでしょう。
裁判という迷路の中で、私は愛犬アラレのために、そして同じ悲しみを抱える誰かのために、公正な判決という光を求めて歩いていました。
私が願っていたのは、単なる勝ち負けではありません。
動物医療の現状を改善し、同じような悲しみを防ぐための一歩になる。
その希望を「正義の光」と信じていました。
しかし、現実の裁判は違いました。
事件が「後遺症なく処理される」こと、そして社会全体の秩序を守ることが最優先とされます。
その流れの中で差し出されたのが和解でした。
和解とは、勝つことでも負けることでもない。
まるで灰色の光のように、正義を求める心と現実の妥協が交わるところで生まれる、複雑であいまいな光です。
私は敗訴の見込みを告げられ、和解を選ばざるを得ませんでした。
強いられたと言ってよいでしょう。お金が欲しかったのではありません。
求めていた公正な判決は手に入らず、納得できない思いは残ったままです。
それでも、この国の医療過誤裁判では、和解を選ぶしかない現実があります。
人間の医療過誤裁判で患者側の勝訴率はおよそ2割。5割ほどは和解で終結します。
獣医療過誤ではさらに厳しく、遺族が勝訴することはほとんどありません。
和解とは、過誤が明らかにされないまま、医療機関がなんらかの形で金銭を支払うものです。
つまり「まったく責任がない」とは言えないのです。
私は和解を通して、裁判所の論理や社会の仕組みを身近に感じました。
そして、現実の中で「正義とは何か」を問い続ける機会を得たのです。
勝訴と敗訴の間には、数字や判決文では表せない選択肢がある、それが和解でした。














