ずっと姫路古事記塾に通っているのに、実は一度も姫路城へ行ったことがありませんでした。


「今朝の散歩はここにしよう!」


そう決めて、少し早起きして出かけました。


まずは姫路駅前の展望デッキ「キャッスルビュー」へ。

上がってみると、まっすぐ正面に白い姫路城が見えます。


そこから姫路城を真正面に眺めながら、大手前通りをまっすぐ歩きます。


姫路駅から姫路城までは約1km。

桜門橋を渡り、三の丸広場まで行って、また姫路駅へ。

ゆっくり歩いて40分ほどの朝散歩になりました。


大手前通りには、たくさんの彫刻が並んでいます。

一つひとつ眺めたり、散歩している方やワンちゃんを見たり。

お城までの道のりそのものが楽しい時間でした。


そして三の丸広場では、写真を撮ってくださったお嬢さんと、88歳のお母さまとの素敵な出会いも。


お二人ともとってもチャーミングで可愛らしくて、ついついお話が弾みました。

伊勢神宮にも何度もいらしているそうで、伊勢のお話までできて、思いがけず楽しいひとときになりました。


ただ歩いているだけなのに、景色を眺め、人と出会い、言葉を交わす。

朝の散歩には、こんな小さな贈りものがあるのですね。


少しずつ涼しくなり、歩くことが楽しい季節になってきました。


これから各地へ出かけたときも、少し早起きをして、その土地を歩いてみようと思います。


いつも通っている場所にも、まだまだ知らない景色や出会いがたくさんありそうです。 #姫路城 #姫路古事記塾 #国宝 #白鷺城 #早朝散 #秋の気配 #風が涼しい




































普段の私たちは、立場、常識、損得、恐れ、他人からの評価など、いろいろなものをまとって生きている。


しかし、それらを一枚一枚取り払っていった奥には、


「私は本当はどう生きたいのか」

「何を大切にしたいのか」

「何のためなら力を尽くせるのか」


という、もっと根源的なものがある。


そこから出てくる根本の力が「ひ」なのでしょう。


「この根本の力が出たときに、初めて私たちの生活は、あるがままで〈うるわしい〉ことになる。


ここでいう「うるわしい」は、外見が美しいという意味ではなく、その人の内と外が一致していること。


自分の奥にある「ひ」と、言葉や行動が一つになっている状態です。


だから無理がない。飾る必要もない。誰かになる必要もない。


その人が、その人として生きている姿そのものが「うるわしい」のです。


全国古事記塾主宰

今野華都子絵と文記す。


9/4神戸古事記塾の学びよりシェア

「うけひ」は『古事記』では、天照大御神と須佐之男命の場面に登場します。


二柱は、まったく性質の異なる神様です。


その二柱が向き合い、互いの心を明らかにするために「うけひ」をします。


これを単なる「占い」や「勝負」として読むだけではなく、


「それぞれの内にある『ひ』を明らかにする」


出来事として読んでみると、「うけひ」の意味がずっと深く見えてきます。


ここでいう「ひ」とは、私たちのいのちの奥にある、生み出し、育て、発展させていく根本の力。


そして「うけひ」とは、まだ自分に無いものを外から与えてもらうことではありません。


まず、


自分の中に、すでに「い」がある。いのちがある。


そのことを発見し、認め、肯うことから始まります。


そして、そのいのちの奥にある「ひ」を自覚して、


「私はこれを生きる」

「私はこれを成す」


と、まごころをもって定める。


さらに大切なのは、定めるだけではなく、その「ひ」を実際の暮らしや仕事の中へ注いでいくことです。


けれど、人は一人では生きていけません。


自分のいのちを現して生きようとすれば、必ず誰かと出会い、関わることになります。


だから「うけひ」は、自分一人で立てる誓いで終わりません。


人と人とが、それぞれの「ひ」を持って出会い、互いのまごころを明らかにし、生かし合っていく。


そこに「むすび」が生まれます。


同じ者同士だから結ばれるのではありません。


違う「ひ」を持つ者同士だからこそ、自分一人では生み出せなかったものが生まれる。


それが「むすひ」であり、さらに新しいものを生み出す「みこうみ」へとつながっていくのでしょう。


そう考えると、「うけひ」とは、


「いのちの力を、どこへ注ぐかを定めること」


なのではないでしょうか。


みそぎによって余計なものを祓い、

自分の中にすでにある「いのち」に気づく。


その奥にある「ひ」を認め、


「私は、このいのちを何に使うのか」


「このいのちで、何を生み出していくのか」


と自らに問い、まごころをもって生きる。


そして、自分とは違う「ひ」を持つ人と出会い、結ばれ、互いを生かし合いながら、新しいものを生み出していく。


それが、今を生きる私たちにとっての「うけひ」なのだと思います。


古事記の神々の物語は、遠い昔のお話ではなく、


今日の私たちの「いのちの使い方」を問いかけているのかもしれません。


全国古事記塾主宰

今野華都子記す


写真は神戸古事記塾の皆様









2枚目は岡本 ユウコさんが人参ケーキにチーズクリームの乗せたケーキと梨とシャインマスカットを持ってきてくれました。美味しかった〜♪皆様ご参加ありがとうございました💕🙏



全国に広がる神社で寺子屋

今度は、東京の明治神宮❣️

もちろんリーダーは、

藤波礼子先生です。


礼子先生は、今野華都子先生主催の神戸古事記塾生で一緒に学ぶご縁をいただき、

『枚岡親子塾』の塾長と立ち上げにご尽力をいただいてます。


湊川神社の『寺子屋楠公さん』

をはじめ兵庫県では3か所

大阪、愛媛、東京と子ども寺子屋活動を長きにわたり、志のある先生方と日本の文化を広めておられる凄い先生です。


しかも今回は、実兄でいらっしゃる高橋史郎先生主催の『高橋塾』とのコラボ企画なんです。


護神氣溢れる明治神宮で

五感を使いながら

日本の文化に触れる

スペシャルな1日を

親子で体験できるチャンスです


お近くの方に是非広めてくださいませ。


#明治神宮で寺子屋

#広がる親子塾

#日本文化を親子で体験






スサノオの「かちさび」


学問も技術も経済も政治も、「進歩すること」「勝つこと」だけを追い求めれば、いつしか人間や自然を置き去りにしてしまうことがあります。


だからこそ、前へ進む力とともに、受け止める力、相手を認める力、補い合う力が必要なのだと思います。


自分一人を見つめているだけでは、自分の本当の役割は案外わからないものです。


自分とは違う人に出会い、その人の中に自分にはない貴さを見つけたとき、初めて自分に与えられているものも見えてくる。


人は一人で完成するのではありません。


違う受持ちを持つ者同士が出会い、互いの資質を認め、補い合う。

そこに「むすひ」が起こり、新しいもの、新しい世界が生まれていくのです。


「勝つ」ことよりも、違いを貴び、結び合うこと。


そのためには、まず「自分だけが正しい」という心を手放すことではないでしょうか。


相手を自分と同じにしようとするのではなく、

「この人には、私にはない何があるのだろう」

という眼差しで相手を見る。


理解できない違いに出会ったときこそ、すぐに否定せず、まず聴いてみる。

そして、自分にできることと相手にできることを持ち寄ってみる。


違いは、争うためにあるのではなく、互いを補い、より大きなものを生み出すためにある。


そう考えると、出会う人は皆、自分の「受持ち」を教えてくれる大切な存在なのかもしれません。


須佐之男命の物語は、今を生きる私たちにも、「我が勝つ」から「共に生かし合う」へという大切な道を教えてくれているように思います。


9/3京都古事記塾より


全国古事記塾主宰

今野華都子


ご参加ありがとうございました💕🙏







御稜威(みいつ)の光は、特別な人だけに与えられたものではなく、本来、誰の内にも備わっているものだと思います。


御稜威とは、人を圧倒する「威圧感」とは違います。


威圧する人の前では、人は縮こまります。

けれど、御稜威を感じる人の前では、不思議とこちらの背筋が伸び、心が澄み、自分の中にある光まで目を覚ます。


本当に光のある人は、自分を大きく見せようとはしません。


「私が、私が」と前に出るのでもなく、誰かと比べて自分を高く見せる必要もない。


ただ、自分に与えられた命を生き、自分の役割を引き受け、言葉と行いを一致させて、淡々と目の前のことを大切にしている。


だから、「御稜威の強い人」がいるのではなく、


「誰の中にもある御稜威を、素直に現して生きている人」がいる。


私たちは、何かを付け加えて光り輝くのではないのでしょう。


不安や恐れ、見栄や執着、人との比較など、自分の光を覆っているものを少しずつ祓っていく。

そうすると、もともとそこにあったものが自然と現れてくる。


御稜威とは、

自分を輝かせようとして放つ光ではなく、本来の自分を生きたとき、自然ににじみ出てくる光。


そして、その光は自分だけを照らすのではなく、出会った人の中にある光まで、そっと目覚めさせていくものなのだと思います。


全国古事記塾主宰

今野華都子絵と文記す


今日から全国行脚。

よろしくお願いいたします。





おかげさまで、神宮へ

江戸時代、伊勢神宮への参拝は、庶民にとって「一生に一度は行きたい」と願う特別な旅でした。

なかでも、全国から大勢の人々が一斉に伊勢を目指した「おかげ参り」。

「おかげ」という言葉は、とても日本的な言葉だと思います。

自分一人の力で生きているのではない。

神さまのおかげ。
天地自然のおかげ。
ご先祖さまのおかげ。
そして、人さまのおかげ。

たくさんの「おかげ」の中で、今日の私が生かされている。

おかげ参りの素晴らしいところは、参る人だけではなく、迎える人にも「おかげさま」の心があったことです。

伊勢へ向かう道中では、沿道の人々が旅人に食べ物を差し出したり、泊まるところを提供したりする「施行(せぎょう)」が行われました。

「おかげさまで参る人」と、
「おかげさまで迎える人」。

伊勢への道そのものが、人と人とを結ぶ「むすび」の道だったのかもしれません。

今回も、皆さんが道場に来て、きれいに整えてくださいました。

ありがたいことです。

翌朝は、日の出前からみんなで草むしり。

そして、きれいになった道場をあとにして、皆で「おかげさまで」の神宮参拝へ向かいました。

初めて神宮へ参られる方には、神宮の歴史や社殿、そこで行われているお祭りや日々の営みなどをご案内しました。

参拝を終えて道場へ戻り、朝ごはんはトマトとカボスの朝粥雑炊。

一緒に働き、参り、食卓を囲む。

そして、それぞれがまた、自分の「受け日持ち」の場所へと帰っていかれました。

そんな皆さんの後ろ姿を見送りながら思いました。

この道場も、昔のおかげ参りの道中にあったような、お伊勢さんと人とを結ぶ場所であったらいいな、と。

ここに集い、心を緩める。

一緒に働き、一緒に食べ、一緒に語る。

そして、芋の子を洗うように、お互いがお互いに触れ合いながら、少しずつ磨き合っていく。

誰かに「こうなりなさい」と教えられるのではなく、余分なものが少しずつ落ちて、もともと自分の中にあったものが現れてくる。

自分の本質に出会って、それぞれの場所へ帰っていく。

そしてまた、それぞれの場所で、自分にいただいた「日」を受け持って生きていく。

昔も今も、お伊勢さんへ向かう道には、人と人を結ぶ「おかげさま」がある。

道場もまた、その「むすび」の小さな場所になっていたら、こんなに嬉しいことはありません。

今日もたくさんの「おかげさま」に、感謝です🙏💕








どうせやるなら、楽しめるところまでやる!


親にこう言われたことを思い出す。


「どうせ最後にはやることになるのなら、文句を言っていないで、さっさとやれ。


どうせやるなら、『難しい』と言っていないで、何回でも失敗して覚えろ。


どうせ覚えるなら、人に教えられるくらい詳しくなれ」と。


たとえば、毎日の料理も同じです。


最初は面倒に感じる夕食づくりでも、包丁の使い方や火加減を少しずつ覚え、冷蔵庫にある材料で献立を考えられるようになると、ただの「やらなければならない家事」ではなくなります。


家族に「今日の料理、おいしいね」と言われれば、次は何を作ろうかと考えることさえ、楽しみになっていくでしょう。


不思議なもので、

わからないことは面倒だけれど、

やってみるうちに「ああ、そうか」とわかるようになると面白くなる。


そして、自分なりに工夫できるようになると、もっと楽しくなる。


一つのことを身につけると、

それまで難しそうに見えていた「次の課題」にも、

取り組める自分になっている。


人生は、ある日突然、大きく変わるのではない。


「やってみよう」

「覚えてみよう」

「もう少し詳しくなろう」

「楽しくなってきた」

「もしかしたら、これ、得意かも」


そんな小さな変化の積み重ねが、

いつの間にか自分の能力を大きく進化させている。


だから私は、

目の前にやるべきことが現れたら、こう思う。


どうせやるなら、面白くなるところまでやってみよう。


今日の小さな「やってみよう」が、

明日の自分を照らす灯りになるのだから。


全国古事記塾主宰

今野華都子 絵と文記す




「霊性の時代」と聞くと、

どこか神秘的で、特別な世界のことのように感じるかもしれませんが


霊性とは、日本人が古くから大切にしてきた、


自然と和し、人と和し、すべてのいのちと共に生きる心そのものです。


日本人は、自然を人間が支配するものとは考えてきませんでした。


山にも川にも海にも、草木にも、

自分たちを超えた大いなる働きを感じ、

恵みに感謝し、畏れ、

「生かされている」ことを知っていました。


太陽に手を合わせる。

「いただきます」と言う。

ご先祖さまに手を合わせる。


そんな日々の暮らしの中に、

日本人の霊性は息づいていたのだと思います。


『古事記』にも、

異なるものが出会い、結ばれ、

そこから新しいいのちが生まれていく

「むすひ」の世界が描かれています。


そして「和する」とは、

みんな同じになることではありません。


違うものが違うままに、

互いを認め、互いを生かし合うこと。


自然と和する。

人と和する。

自分自身とも和する。


私たちは豊かになり、便利になりました。

けれどその一方で、

自然への畏敬や、人への思いやり、

生かされていることへの感謝を

どこかに置き忘れてはいないでしょうか。


だから「霊性の時代」とは、

新しい何かを手に入れる時代ではなく、


私たちが、忘れていたものを思い出す時代。


自分さえよければ、ではなく、

人も、自然も、未来のいのちも大切にする。


何を持っているかではなく、

どんな心で生きるか。


すべてのいのちは、

受け継がれ、結ばれ、

また新しく生まれながら続いていく。


その大きないのちの流れの中に、

私たちはみんないる。


それを思い出し、

今日、目の前の人を大切にする。

自然に感謝する。

いただいたいのちを精いっぱい生きる。


そこから「霊性の時代」は、

もう静かに始まっているのだと思います。


全国古事記塾主宰

今野華都子絵と文記す





「教える」ことは、知識や方法を渡すことです。


けれど、人が本当に育つのは、

教えられた時だけではないのだと思います。


むしろ、

「あなたなら大丈夫」

「失敗しても、そこからきっと何かを学べるよ」

と信じてもらった時に、

人は少しずつ、自分の中にある力に気づいていくのではないでしょうか。


私たちは、つい相手を思うあまり、

「こうした方がいい」

「それでは失敗する」

「もっとこうしなさい」

と、先回りして教えたくなります。


仕事でも同じです。


上に立つ人が何もかも細かく指示してしまえば、

その人はいつしか、

「言われたことをすればいい」

と思うようになります。


けれど、


「あなたに任せるね」

「困った時はいつでも助けるから」


そう言って信じてもらえた人は、

自分で考え、自分で決め、

その結果にも向き合おうとします。


もちろん、

「信じる」ということは、放っておくことではありません。


必要なことは、きちんと教える。


でも、教えたあとは握りしめない。


転ばないように、いつまでも手を引くのではなく、

転ぶことも、迷うことも、その人の人生の大切な経験として見守る。


教えることは、道を示すこと。


信じることは、

その人が自分の足で歩いていけると信じて、

そっと手を離すことなのかもしれません。


子どもを育てる時も、

人を育てる時も、


「私の思うような人になってほしい」

ではなく、


「あなたの中には、ちゃんと生きていく力がある」


そう信じる眼差しが、

何よりも人を強くするのだと思います。


教えただけでは、人は育たない。


信じられて、人は育つ。


そして、

誰かに信じてもらった人は、

やがてまた、誰かを信じられる人になっていく。


人を育てるということは、

もしかしたら、

その人の中にある力を信じ抜くことなのかもしれません。


全国古事記塾主宰

今野華都子絵と文記す