「いのちを大切にする」とは
『えほん古事記』に込めた願い
夏休みが終わる頃になると、私は毎年、胸の痛むニュースを目にします。
長い休みが明ける前後は、子どもや若者の自殺が増える傾向があります。2025年には、小中高生538人のいのちが自ら絶たれました。統計のある1980年以降、最も多い人数です。
538人。
数字にしてしまうと、一つの統計のように見えてしまいます。
けれど、その一人ひとりに名前があり、顔があり、家族があり、生まれた日の喜びがあり、その子にしかない時間があったはずです。
私はこの現実を前にすると、
私たち大人は、子どもたちに「なぜ、いのちは大切なのか」を、本当に伝えてきただろうか
と考えずにはいられません。
「いのちを大切にしなさい」
私たちはそう言います。
けれど、
「どうして、いのちは大切なの?」
と子どもに聞かれたら、私たちは何と答えるでしょう。
死んではいけないから。
一度失ったら戻らないから。
家族が悲しむから。
もちろん、どれも大切なことです。
けれど私は、もっと根の深いところに、日本人が昔から感じてきた「いのち」の捉え方があるように思うのです。
やまと言葉の「いのち」とは
私たちは「命」というと、つい「生きていること」「死んでいないこと」を思い浮かべます。
けれど、やまと言葉の「いのち」を考えるとき、それは単に身体の中にある生物的な生命だけではないように思います。
いのちとは、
私たちを生かし、育て、次へ次へとつないでいく大きな働き。
花が芽吹く。
木が育つ。
子どもが生まれる。
傷ついた身体が癒えていく。
人と人が出会い、そこから、それまでなかった何かが生まれる。
そこには目には見えないけれど、確かに、
生まれよう、育とう、成っていこう
とする力があります。
『古事記』では、天地の初めに、高御産巣日神、神産巣日神という「むすひ」の神々が現れます。
「むすひ」とは、何かを完成した形で置いておくことではありません。
ものが生まれ、育ち、姿を変え、さらに次の何かを生み出していく働きです。
「苔むす」という言葉があります。
誰かが苔を一枚一枚貼りつけるわけではありません。
水があり、光があり、土があり、時間がある。
さまざまなものが働き合う中で、いつしか苔が生まれ、育っていきます。
いのちも、それと似ています。
私が「いのちを持っている」のではない
私たちは、自分一人の力で生まれてきたのではありません。
父母がいます。
その父母にも、また父母がいます。
数えきれない祖先から、いのちは渡されてきました。
そして、水がある。
土がある。
太陽がある。
空気がある。
植物や動物のいのちをいただき、多くの人々に支えられて、今日の私が生きています。
そう考えていくと、
「これは私のいのちです」
というだけでは、何かが足りないように感じます。
むしろ、
私がいのちを持っているのではなく、
大きないのちの働きが、今、私という姿になって現れている。
私は、そんなふうに感じるのです。
だから日本人は、食事の前に「いただきます」と言います。
食べ物という「物」をいただくのではありません。
植物や動物、そして、それを育て、運び、料理してくださった多くの働きをいただいて、自分のいのちへとつないでいく。
「私は一人で生きているのではない」
ということを、毎日の食事のたびに口にしてきたのです。
いのちは、自分一人で終わらない
そして、いのちは、人が亡くなったところですべてが消えてしまうものでもありません。
その人が育てた人がいる。
伝えた言葉がある。
残した仕事がある。
誰かにかけた優しい一言がある。
その人から受け取ったものが、また誰かの中で生きていく。
祖先から受け取ったものを、今を生きる私たちが受け取り、また次の人へ渡していく。
そう考えると、いのちとは、
「生まれて、何十年か生きて、死んで終わる」
一本の線ではありません。
受け継がれ、結ばれ、また新しく生まれ続けていく、大きな流れ
なのだと思います。
言葉はいのちそのものではない
「言葉はいのちを表す、いのちに至る道ではあるが、いのちそのものではない」
という言葉があります。
「花」という言葉を何度説明しても、春の日に花を見上げたときの美しさや、香りや、やがて散っていく姿そのものにはなりません。
「愛」という言葉を知っていても、人を愛することそのものとは違います。
「いのち」も同じです。
言葉によって、その方向を指し示すことはできます。
けれど、いのちそのものは言葉の中には収まりません。
なぜなら、いのちは今この瞬間にも、動き、変わり、生まれ、育ち続けているからです。
だから私は、
「いのちとは何か」を教えること以上に、
「いのちをどう生きるのか」を伝えることが大切なのではないか
と思います。
与えられた今日一日を生きる。
目の前の人を大切にする。
食べ物を粗末にしない。
物を大切に使う。
小さな虫や草花にも、そこにある「いのち」を感じる。
自分に与えられたものを育てる。
そして、それを次の人へ手渡していく。
それが「いのちを大切にする」ということなのではないでしょうか。
『えほん古事記』に込めた願い
私は『えほん古事記』を作るとき、子どもたちに、
「立派な人になりなさい」
「正しく生きなさい」
と教えたいと思ったのではありません。
あなたは、突然ここに現れた存在ではない。
あなたのずっと前から続いてきたいのちがあり、そのいのちが今、あなたというかけがえのない姿になっている。
そして、あなたの中にも、
生まれようとする力、
育とうとする力、
傷ついてもまた立ち上がろうとする力、
誰かと結ばれ、新しいものを生み出していく力がある。
それを、子どもたちに感じてもらいたかったのです。
いのちを大切にするとは、ただ「死なないこと」ではありません。
自分に渡されたいのちを生きること。
うれしい日も、苦しい日も、迷う日も、そのすべてを抱えながら、自分のいのちを今日へ、そして明日へつないでいくこと。
そして、自分のいのちだけでなく、目の前にある人のいのち、動物のいのち、植物のいのち、物を生み出した人の思いや、自然からいただいたものまで、大切にして生きること。
私は、それを子どもたちに小さいうちから伝えたい。
あなたのいのちは、あなた一人で始まったものではない。
そして、あなた一人で終わるものでもない。
遠い遠い昔から渡されてきた、大きないのちの流れの中に、あなたはいる。
そのことを知ったとき、子供達も自分のいのちも、他者のいのちも、少し違って見るような人になるその一助になりたい。
と切に願うのです。
それが、私が『えほん古事記』に込めた願いです。
全国古事記塾主宰
今野華都子絵と文記す