「教える」ことは、知識や方法を渡すことです。


けれど、人が本当に育つのは、

教えられた時だけではないのだと思います。


むしろ、

「あなたなら大丈夫」

「失敗しても、そこからきっと何かを学べるよ」

と信じてもらった時に、

人は少しずつ、自分の中にある力に気づいていくのではないでしょうか。


私たちは、つい相手を思うあまり、

「こうした方がいい」

「それでは失敗する」

「もっとこうしなさい」

と、先回りして教えたくなります。


仕事でも同じです。


上に立つ人が何もかも細かく指示してしまえば、

その人はいつしか、

「言われたことをすればいい」

と思うようになります。


けれど、


「あなたに任せるね」

「困った時はいつでも助けるから」


そう言って信じてもらえた人は、

自分で考え、自分で決め、

その結果にも向き合おうとします。


もちろん、

「信じる」ということは、放っておくことではありません。


必要なことは、きちんと教える。


でも、教えたあとは握りしめない。


転ばないように、いつまでも手を引くのではなく、

転ぶことも、迷うことも、その人の人生の大切な経験として見守る。


教えることは、道を示すこと。


信じることは、

その人が自分の足で歩いていけると信じて、

そっと手を離すことなのかもしれません。


子どもを育てる時も、

人を育てる時も、


「私の思うような人になってほしい」

ではなく、


「あなたの中には、ちゃんと生きていく力がある」


そう信じる眼差しが、

何よりも人を強くするのだと思います。


教えただけでは、人は育たない。


信じられて、人は育つ。


そして、

誰かに信じてもらった人は、

やがてまた、誰かを信じられる人になっていく。


人を育てるということは、

もしかしたら、

その人の中にある力を信じ抜くことなのかもしれません。


全国古事記塾主宰

今野華都子絵と文記す




「いのちを大切にする」とは

『えほん古事記』に込めた願い


夏休みが終わる頃になると、私は毎年、胸の痛むニュースを目にします。


長い休みが明ける前後は、子どもや若者の自殺が増える傾向があります。2025年には、小中高生538人のいのちが自ら絶たれました。統計のある1980年以降、最も多い人数です。


538人。


数字にしてしまうと、一つの統計のように見えてしまいます。


けれど、その一人ひとりに名前があり、顔があり、家族があり、生まれた日の喜びがあり、その子にしかない時間があったはずです。


私はこの現実を前にすると、


私たち大人は、子どもたちに「なぜ、いのちは大切なのか」を、本当に伝えてきただろうか


と考えずにはいられません。


「いのちを大切にしなさい」


私たちはそう言います。


けれど、


「どうして、いのちは大切なの?」


と子どもに聞かれたら、私たちは何と答えるでしょう。


死んではいけないから。


一度失ったら戻らないから。


家族が悲しむから。


もちろん、どれも大切なことです。


けれど私は、もっと根の深いところに、日本人が昔から感じてきた「いのち」の捉え方があるように思うのです。


やまと言葉の「いのち」とは


私たちは「命」というと、つい「生きていること」「死んでいないこと」を思い浮かべます。


けれど、やまと言葉の「いのち」を考えるとき、それは単に身体の中にある生物的な生命だけではないように思います。


いのちとは、


私たちを生かし、育て、次へ次へとつないでいく大きな働き。


花が芽吹く。


木が育つ。


子どもが生まれる。


傷ついた身体が癒えていく。


人と人が出会い、そこから、それまでなかった何かが生まれる。


そこには目には見えないけれど、確かに、


生まれよう、育とう、成っていこう


とする力があります。


『古事記』では、天地の初めに、高御産巣日神、神産巣日神という「むすひ」の神々が現れます。


「むすひ」とは、何かを完成した形で置いておくことではありません。


ものが生まれ、育ち、姿を変え、さらに次の何かを生み出していく働きです。


「苔むす」という言葉があります。


誰かが苔を一枚一枚貼りつけるわけではありません。


水があり、光があり、土があり、時間がある。


さまざまなものが働き合う中で、いつしか苔が生まれ、育っていきます。


いのちも、それと似ています。


私が「いのちを持っている」のではない


私たちは、自分一人の力で生まれてきたのではありません。


父母がいます。


その父母にも、また父母がいます。


数えきれない祖先から、いのちは渡されてきました。


そして、水がある。


土がある。


太陽がある。


空気がある。


植物や動物のいのちをいただき、多くの人々に支えられて、今日の私が生きています。


そう考えていくと、


「これは私のいのちです」


というだけでは、何かが足りないように感じます。


むしろ、


私がいのちを持っているのではなく、

大きないのちの働きが、今、私という姿になって現れている。


私は、そんなふうに感じるのです。


だから日本人は、食事の前に「いただきます」と言います。


食べ物という「物」をいただくのではありません。


植物や動物、そして、それを育て、運び、料理してくださった多くの働きをいただいて、自分のいのちへとつないでいく。


「私は一人で生きているのではない」


ということを、毎日の食事のたびに口にしてきたのです。


いのちは、自分一人で終わらない


そして、いのちは、人が亡くなったところですべてが消えてしまうものでもありません。


その人が育てた人がいる。


伝えた言葉がある。


残した仕事がある。


誰かにかけた優しい一言がある。


その人から受け取ったものが、また誰かの中で生きていく。


祖先から受け取ったものを、今を生きる私たちが受け取り、また次の人へ渡していく。


そう考えると、いのちとは、


「生まれて、何十年か生きて、死んで終わる」


一本の線ではありません。


受け継がれ、結ばれ、また新しく生まれ続けていく、大きな流れ


なのだと思います。


言葉はいのちそのものではない


「言葉はいのちを表す、いのちに至る道ではあるが、いのちそのものではない」


という言葉があります。


「花」という言葉を何度説明しても、春の日に花を見上げたときの美しさや、香りや、やがて散っていく姿そのものにはなりません。


「愛」という言葉を知っていても、人を愛することそのものとは違います。


「いのち」も同じです。


言葉によって、その方向を指し示すことはできます。


けれど、いのちそのものは言葉の中には収まりません。


なぜなら、いのちは今この瞬間にも、動き、変わり、生まれ、育ち続けているからです。


だから私は、


「いのちとは何か」を教えること以上に、

「いのちをどう生きるのか」を伝えることが大切なのではないか


と思います。


与えられた今日一日を生きる。


目の前の人を大切にする。


食べ物を粗末にしない。


物を大切に使う。


小さな虫や草花にも、そこにある「いのち」を感じる。


自分に与えられたものを育てる。


そして、それを次の人へ手渡していく。


それが「いのちを大切にする」ということなのではないでしょうか。


『えほん古事記』に込めた願い


私は『えほん古事記』を作るとき、子どもたちに、


「立派な人になりなさい」


「正しく生きなさい」


と教えたいと思ったのではありません。


あなたは、突然ここに現れた存在ではない。


あなたのずっと前から続いてきたいのちがあり、そのいのちが今、あなたというかけがえのない姿になっている。


そして、あなたの中にも、


生まれようとする力、

育とうとする力、

傷ついてもまた立ち上がろうとする力、

誰かと結ばれ、新しいものを生み出していく力がある。


それを、子どもたちに感じてもらいたかったのです。


いのちを大切にするとは、ただ「死なないこと」ではありません。


自分に渡されたいのちを生きること。


うれしい日も、苦しい日も、迷う日も、そのすべてを抱えながら、自分のいのちを今日へ、そして明日へつないでいくこと。


そして、自分のいのちだけでなく、目の前にある人のいのち、動物のいのち、植物のいのち、物を生み出した人の思いや、自然からいただいたものまで、大切にして生きること。


私は、それを子どもたちに小さいうちから伝えたい。


あなたのいのちは、あなた一人で始まったものではない。

そして、あなた一人で終わるものでもない。


遠い遠い昔から渡されてきた、大きないのちの流れの中に、あなたはいる。


そのことを知ったとき、子供達も自分のいのちも、他者のいのちも、少し違って見るような人になるその一助になりたい。

と切に願うのです。


それが、私が『えほん古事記』に込めた願いです。


全国古事記塾主宰

今野華都子絵と文記す


















暑い夏の日、娘たちが帰ってきたような三日間


8月23日から2泊3日で、塾生たちが道場へ遊びに来てくれました。


せっかく来てくれるのだから、娘たちが実家へ帰ってきた時のように、ゆっくり、のんびり、たくさん笑って過ごしてもらいたい。


そんな思いで迎えた三日間でした。


初日は、もぐら先生の絵を届けに来てくれた喜代ちゃんも加わって、5人でまったりティータイム。


それからみんなで玉ねぎをじっくり炒め、南インドカレー作り。

台所に立ちながら、食べながら、あれこれ尽きないおしゃべり。


そして実はこの夜、来年に向けて考えていた壮大な


子どもたちが古事記に触れ、自分の心のままに好きな神さまを描き、その絵が京都の美術館に並ぶ――そんな場をつくってみたいのです。日本の神様を描くプロジェクト」を、初めてみんなに発表してしまいました。


翌8月24日は、伊勢志摩の海と鳥羽を満喫する一日として


松阪でレンタカーを借りて、ゴーリキマリンビレッジへ🚙


船に乗り込み、ムーさんと川崎さんに案内していただいて海へ。

雲ひとつない快晴、太陽はギラギラ☀️

帽子、サングラス、飲み水もしっかり準備して、人生初のキス釣りです🎣


釣竿の使い方を教えていただき、いざ挑戦。


私は餌を針につけるのがちょっと苦手でしたが(笑)、あちらこちらから聞こえる


「釣れた〜!」


の歓声が嬉しくて、みんなすっかり夢中になりました。


途中、無人島へ上陸。

海岸で子どものようにパチャパチャと海水につかりました。


強い日差しで赤くなっていた肌も、海から上がる頃には不思議と赤みが引いているように感じて、海の気持ちよさを全身で味わいました。


帰りには、二見浦の夫婦岩を海側から見ることもできて、またまた大歓声。


陸へ戻ると、今度は釣った魚のさばき方を教えていただきました。


自分たちで釣った魚のお刺身や天ぷら、夏ガキ、猪肉の焼肉まで。

海の幸、山の幸をいただきながら、ムーさんのお話をゆっくり伺う贅沢な時間。


ムーさん、そしてゴーリキマリンビレッジの皆さま、心のこもったおもてなしを本当にありがとうございました。


道場へ戻ってシャワーを浴び、さっぱり着替えたら、夕方からは鳥羽の「馳走」さんへ。


馳走さんは、この日も予約でいっぱいの大人気店です。


美味しいお料理をいただいていると、店内に置いてあった『えほん古事記』を、一組のお客様が手に取ってくださっていました。


そして、なんとそのままお買い上げに。


女将の京子さんが

「作者がちょうどここにいるのよ」

と私を紹介してくださり、一緒に記念撮影。


すると今度は、別の親子連れのお客様が、帰り際に『えほん古事記』を手に取ってくださいました。


女の子の名前は英美ちゃん。


絵本にサインをしながら、


「来年、この絵本を読んで、英美ちゃんの好きな神様の絵を描いてね。みんなの絵を集める公募展をやろうと思っているから、ぜひ応募してね」


と伝えると、


「描く! 描きたい〜!」


と、目を輝かせてくれました。


すると翌日には、その親子さんからお店へ、

「絵のサイズは?ほかに決まりはありますか?ぜひ描きたいです」

と問い合わせがあったそうです。


なんだか嬉しくなりました。


前日の夜、ほんの数人の仲間に初めて話したばかりのプロジェクトが、翌日にはもう、知らない誰かの心に届いて動き始めている。


何かを「広めよう」と力むのではなく、本当にやりたいと思うことを真心から発すると、その思いに響いてくださる方がいるのですね。


小さく口にしたばかりの来年の夢が、もう歩き始めています。


そして三日目。


朝からゆっくりと、彼女たちの質問に答えながら、人生のこと、これからのこと、心のことをたくさん話しました。


特別な観光旅行というより、

一緒に料理をし、

海へ出て、

魚を釣り、

食卓を囲み、

笑って、

語り合った三日間。


娘たちが実家に帰ってきたような時間を過ごしてもらいたいと思って迎えたのに、終わってみれば、私のほうがたくさんの喜びをもらっていました。


暑い暑い夏の日。


きっと彼女たちにとっても、そして私にとっても、

これからの人生のどこかでふと思い出すような、

最高の夏の三日間になりました。


また、いつでも実家にかえるように来てくださいね。


 #伊勢志摩 #鳥羽馳走 #ゴーリキマリンビレッジ #キス釣り
















「絵の路線を変えたのですか?」と聞かれることがあります。

けれど、自分では変えようと思ったことも、変わったという感覚もありません。

私はいつも、目の前にあるものや、その時ふっと心に浮かんだものを描いているだけです。

神様を描くときも、仏様を描くときも、子どもを描くときも、動物や花を描くときも、私の中ではそれほど違いはありません。

表に現れる姿は違っていても、そこから出てくる心根は同じなのだと思います。

一本の木に、いろいろな形の葉がつき、季節ごとに違う花が咲くように。

見る人には「絵が変わった」と見えるのかもしれない。

けれど私にとっては、変わったのではなく、もともと自分の中にあったものの一部が、その時、その形になって現れているだけなのです。

時には、偶然に任せてみることもある。
思いがけず残った筆の跡、混ざった色、偶然生まれた形。
そこに、自分でも知らなかった自分を見つけることがあります。

そうやって描き続けているうちに、
「自分らしい絵を描こう」と思わなくても、
何を描いても、そこに自分の線があり、自分の色があり、自分の形があることに気づいていく。

自分らしさとは、苦労してつくり上げるものではなく、
本当は、何をしても消すことのできないものなのかもしれません。

だから今は、どんなものが自分の中から出てくるのかを決めつけず、その時に現れてくるものを、そのまま楽しんで描いています。

根っこはひとつ。
葉も花も、その時々で違っていい。

お仕事、古事記塾、お料理、お絵描き、遊び、何をしても、

どんな姿で現れても、そこにはちゃんと自分がいる。

だから、これがわたしと決めつけないで、、これからもいろんな自分を楽しんで生きていく。

今日もよろしくお願いいたします💕🙏

全国古事記塾主宰 今野華都子絵と文記す
















初めて描いたハガキ絵のカエル🐸

みんなにどんなに笑われたことか(笑)


これがわたしの原点、3年前ここから始まった。


【文殊菩薩と獅子】

文殊菩薩は、なぜ獅子に乗っているのでしょう。

文殊菩薩は「智慧」の菩薩です。

その智慧とは、
ただ物知りになることではなく、

迷いを断ち、本質を見抜き、
そして恐れず進む智慧。

右手に持つ剣は、
迷いや執着を断ち切る智慧。

左手の経典は、
真理を学び、見極める智慧。

そして足元の獅子は、
その智慧を現実の中で生きるための
勇気と力強さを表しているといわれます。

仏の教えが迷いを打ち破ることを、
獅子の咆哮になぞらえて
「獅子吼(ししく)」とも言います。

私は、文殊菩薩が獅子を退治するのではなく、
その背に乗っているところにも
大切な意味があるように思います。

私たちの中にある
怒りや恐れ、不安、強い欲望。

それらを無くそうとするのではなく、
智慧によって乗りこなし、
生きる力へ変えていく。

だから文殊菩薩のお顔は静かで、
その下の獅子は力強い。

静かな智慧と、前へ進む勇気。

「分かった」で終わらず、
見抜いたなら一歩を踏み出す。

この世を生きる私たちに、
文殊菩薩はそんな智慧の使い方を
教えてくださっているのかもしれません。

今日も、
迷った時こそ本質を見つめ、
恐れず一歩前へ。

そんな思いで
文殊菩薩を描きました。



〈大日如来像〉


人は、ときに名誉や肩書き、優劣や承認を求め、

「特別な存在でありたい」という思いから競い合います。


もちろん、そうした気持ちは誰の中にも多少はあるでしょう。


けれど、それらを人生の中心に置かず、

ただ自分の命を生きている人もいます。


人は言葉を交わす前から、

表情や目線、姿勢、声、間の取り方など、

相手からたくさんのものを無意識に受け取っています。


だから、会った瞬間に伝わるものがあります。


何も纏っていないのに、怖がっていない。

競っていない。

人を値踏みしない。

自分を証明しようともしない。


そんな人の前では、

こちらまで力を抜くことができます。


それを「境地」と呼ぶ人もいるでしょう。

「波動」「器」「存在感」と表現する人もいるかもしれません。


けれど、それはもっと素朴に、


内側と外側の隔たりが少ない人が持つ、安心感


なのではないでしょうか。


しかも、その人は世間から離れて静かにしているわけではありません。


よく働き、

よく笑い、

料理を作り、

おいしく食べ、

人と集まり、

絵や音楽を楽しむ。


社会の中で、いきいきと生きている。


そこには、

無欲と生命力が同時にある。


無欲になれば、世間や経済活動から離れていく生き方もあります。


反対に、行動的になればなるほど、

競争心や承認欲求が強くなることもあります。


けれど、


よく動くのに、何者かになろうとしていない。

生命力に満ちているのに、人と争わない。


そんな生き方もあります。


強い人は、ともすると人を従わせたくなる。


優しい人は、ともすると相手に合わせすぎてしまう。


けれど本当の強さとは、


強くても支配しない。

優しくても迎合しない。

相手を変えようとしない。


そういうものなのかもしれません。


そのような人のそばにいると、

なぜかこちらまで素直になり、

余計な力が抜け、

本来の自分へと戻っていきます。


人を自分のところへ引き寄せるのではなく、


その人を、その人自身へ返していく。


そんな在り方があります。


それは、特別な修行によって何かを身につけたというより、

生きる中で少しずつ余計なものが削ぎ落とされてきた姿なのかもしれません。


けれど本人には、

「何かを削ぎ落としてきた」という感覚さえないでしょう。


ただ目の前のことを面白がり、

人と出会い、

やってみたいことをやり、

喜び、

失敗し、

また工夫し、

夢中になって生きてきた。


そうしているうちに、

余計なものを持たなくなっていく。


そして、そのような人に出会ったとき、

私たちは知識や言葉を超えて感じるのかもしれません。


「この人は、何かを教えているのではない。

生き方そのものが答えになっている」


大日如来は、宇宙そのものの智慧、

すべての命の根源にある真理を表す仏といわれます。


真理とは、遠い場所にある特別なものではなく、

何かをたくさん身につけた先にだけあるものでもない。


余計なものを手放し、

自分の命をそのまま生きること。


日々を喜び、

人を生かし、

自らもいきいきと生きること。


その姿の中にこそ、

宇宙の智慧は静かに現れてくるのかもしれません。


全国古事記塾主宰

今野華都子 絵と文記す




8月のオンライン古事記塾


⭐︎    ⭐︎    ⭐︎    ⭐︎    ⭐︎    ⭐︎    ⭐︎    ⭐︎    ⭐︎        

8/20(木)継続クラス

 テキスト:第三集少彦名(初回)


8/21(金)新規クラス  

テキスト:第七集ヤマタノオロチp130いほつまさかき


    


オンライン古事記塾受講URL は、

申し込みされた個人メールに送りましたのでご確認ください、


一日二回開催

9:00〜11:00.    

20:00〜22:00

(30分前に開けます)  


 


今後の予定

2026年




8/20 (木)継続. 21 (金)新規


9/24 (木)継続. 25(金)新規

1022 (木)継続. 23 (金)新規


11/26 (木)継続. 27 (金)新規

12/17 (木)継続.  18 (金)新規


お問い合わせはメッセンジャーで。

よろしくお願いいたします。


今野華都子❤️




私たちには千本の手はありません。


でも、誰かにかける一言も、

差し出すこの手も、

静かに祈る心も、


今世の誰かを救う「観音さまの手」になるのかもしれません。


大きなことをしなくてもいい。


今日、目の前の人に

自分の一本の手を差し出す。


その小さな優しさがつながったなら、世界にはきっと、


千手観音のような優しい手が

たくさん生まれていくのでしょう。


千の手を動かしている中心にあるのは慈しみの心。


そんなことを思いながら描いた〈千手観音〉です🙏


全国古事記塾主宰 

今野華都子絵と文記す






雨上がりの空を見上げると、

雲の形から、いろいろなものが浮かんでくる。


その雲からインスピレーションを受けて、一枚の絵を描いてみた。


こうして描いてみると、改めて思うこと。


同じものを見ていても、

人はきっと、それぞれに自分の見たいように見て、

感じたいように感じているのだと。


世界は、自分の心を映す鏡なのかもしれません。


だから私は、

自分の中にある美しいもの、

心地よいもの、

楽しいものを、これからも素直に表していきたい。


それを「好き」と言ってくれる人が現れたら嬉しい。

でも、現れなくてもいい。


誰かに認めてもらうためではなく、私が見ている世界を、私らしく描いていく。


それでいいのだ❤️