【力と知恵は、何のために使うのか】
須佐之男命は、父・伊邪那岐大御神から、海原を治める役目を与えられました。
しかし、その役目を果たそうとはせず、
「母のいる根之堅洲国へ行きたい」
と、泣き続けます。
その泣く力はすさまじく、青々とした山を枯らし、川や海の水まで干上がらせ、世の中に災いを引き起こしました。
須佐之男命は、大きな力を持っていました。
けれど、その力を自分の悲しみや感情のままに使えば、自分だけでなく、周りのいのちまで傷つけてしまいます。
高天原の天照大御神を訪ねたとき、須佐之男命は、
「私には、やましい心はありません」
と証明するために、誓約(うけひ)を申し出ます。
そして、その結果を見て、
「私が勝った」
と思い込み、勝ちに酔い、田の畦を壊し、神聖な御殿を汚すなど、乱暴な行いを重ねてしまいました。
このときの須佐之男命にとって、「力」と「知恵」は、自分の正しさや勝利を証明するためのものでした。
しかし、高天原を追放され、地上へ降りた須佐之男命は、さまざまな経験を通して成長していきます。
そして八岐大蛇に苦しめられていた家族に出会ったとき、その力と知恵を、自分のためではなく、家族を救い、世の乱れを鎮めるために使いました。
「自分が勝った」という個人的な喜びから、
「誰かのいのちを守る」という大きな喜びへ。
須佐之男命の物語は、力と知恵の使い方が変わることこそ、人の成長であると教えているのではないでしょうか。
力や知恵は、持っているだけでは価値にはなりません。
何のために、どこへ向けて使うのか。
自分の感情や欲望のために使えば、心が暴走し、自分も他者も傷つけ、時には滅ぼすことさえあります。
しかし、誰かを生かし、世の中を平らかにするために使うなら、その力と知恵は、尊い働きとなります。
須佐之男命の歩みを通して、私たちが学ぶのは、やまと民族が目指してきた心のあり方です。
「あかき心〈清明心〉」
それは、お日さまの光に照らされて、ありのままの姿が明らかになった心の状態です。
自分の心や行いを天照大御神の光に照らし、善いことも、過ちも曖昧にせず、正直に見つめる心です。
そして、
「うるわしき心〈善心〉」
それは、真・善・美・愛がぴったりと調和し、心から「これでよろしい」と言える、美しく整った心です。
人は誰でも、須佐之男命のように、感情に流されたり、自分の正しさを主張したり、「自分が勝った」と思い上がったりすることがあります。
大切なのは、そこで終わらないこと。
自分の過ちを光の中で見つめ、自らに与えられた力と知恵を、いのちを生かす方向へと結び直していくことです。
やまと民族が目指してきた最高の心。
それは、
「うるわしき人」
善き心を持つ、善き人。
須佐之男命の物語は、どれほど大きな過ちを犯しても、人はそこから学び、力の使い方を変え、うるわしき人へと成長していけることを、今も私たちに教えてくれています。
九月十日
半蔵門古事記塾の学びよりシェア
全国古事記塾主宰
今野華都子 絵と文