こんにちは、フォトグラファーの森藤ヒサシです。
みなさん、コーチングって、聞いたことありますよね。
私が初めて、コーチングという言葉を聞いたのは、
2000年になった頃。
当時は、コーチングといっても、
誰もよくわからない感じのものでした。
コンサルタントはあっても、
コーチングって、
ほとんどの人が知らなかったんですよね。
このコーチングと出会って、
私も、だいぶ変わった、
そのきっかけについて、お伝えしますね。
2000年当時!
コーチというのは、
馬車のこと。
馬車で、目的地まで連れていく、
というのが、
コーチングの語源とされます。
2000年当時、
コーチというと、
野球のコーチや水泳のコーチなど、
スポーツのコーチを思い浮かべる人が、
とても多かったです。
そのころのコーチのイメージは、
目的地までに連れていくと言っても、
コーチのやり方を
選手に伝えるという、
いわゆる
ティーチングだったんですよね。
コーチングというのは、
教えるんじゃなくて、
クライアントの目的に沿って、
クライアントの中にある、自分の答えを導き出すために、
適切な質問をすること、
相手の話を聴くことなのです。
私は、PGCという団体で、
尊敬する先輩の、佐藤泰博さんがリーダーの勉強会において、
初めて、コーチングというものを知りました。
その時は、小野ひとみさんという、コーチを招いての、
セミナーだったのですが、
眼から鱗のセミナーだったんですよね。
さっき言ったように、
コーチングとは、
基本的には、相手の目的を知るために、
聴く能力が必要!
聞く
ではなく、
聴く
聴くの漢字を見ると、
十の目と心を持って耳で聞く
という意味。
あー、今まで、
わたしのきくは、
聞く
でしかなかったなー。
と。
それだけじゃなく、
スタッフの話を、
聞いているつもりで、
ほとんど、アドバイスしていたのですから、
ひどい上司です。
スタッフは、話を聞いて欲しかったのです。
わたしは、良かれと思って、
アドバイスをしてしまっていましたが、
それは、相手の心に寄り添うことではないんですよね。
ちょー反省。
また、コミュニケーションを
キャッチボールに喩えてもいました。
いかに、相手に投げやすいボールを返してあげるか、
相手の取りやすいところに、投げてあげるか!
それが大切。
豪速球を投げたり、
暴投したり、
ボールが手前で落ちてしまうような、
取りにくい玉を投げていては、
相手も、いい気持ちにはなりませんよね。
あー、
いつも、豪速球投げていたし、
相手のボールも、きちんと受け取ってなかったわ〜。
と、
これも超反省!!
だったのです。
これをきっかけに、
まっきーは、
コーチングを習い始めたのです。
(まっきーもこのセミナーに参加していたので・・)
当時、コーチングの会社といえば、
コーチ21(現コーチA)。
そこで、資格をとるために、
一生懸命コーチングを学び、
スタッフ教育に生かしていくのです。
さらに、
このコーチングがきっかけとなり、
外部でのセミナーを受けることも楽しくなっていき、
喜田先生、本田健、へとつながっていきます。
そしてわたしは、
まっきーがコーチングのクラスを受けていたときに、
わたしも、コーチについてもらいたいと話したところ、
コーチの小野量子さんに、パーソナルコーチになってもらい、
それ以後、ずっと彼女に色々なことを相談したり、
困ったときに、導いてもらっているのです。
小野量子さんがコーチになってくれたのは、
多分2002年くらい。
今も、月3回、電話でコーチングを受けています。
なんと、18年以上も続いているんですよね。
ありがたい限りです。
ちなみに、
わたしは、コーチングのセミナーを受け、
眼から鱗、と言いましたが、
そのあとも、
やっぱり、人の話を聞くのは、得意にならず、
(少しは、人の話を聴けるようにはなりましたが・・・)
ついついアドバイスをしてしまう癖が抜けず、
自分では、
コーチングの資格はとらず、
ずっと、クライアントのままなのでした。
2000年にうちのスタジオ、
パセオヌエボ
がオープンし、
順調に、お客様が増えていきました。
と言っても、
スタッフは、まだそんなに多くはなく、
めっちゃ忙しい日々が続いていました。
ホント大変だったわ〜。
でも、充実していたなー。
大子に泊まりに行ったとき!
3億近い借金をし建てたパセオヌエボ。
今思うと、
そんなにかけんでもよかった!
特にストロボ、
と、ちょっと後悔。
だって、うちの140平米ある大きなスタジオの上に、
ストロボのショールームかと思うほど、
ストロボが吊り下がっているのです。
軽く10数灯。
全部で、1000万円近く。
当時、ストロボの値段って、
本当に高かった!
今のコンピューターと同じ感覚。
コンピューターのメモリなんて、
1MB、1万円、
って言われてましたもんね。
ストロボも、
今は、手軽に数万円で買える時代。
1000万円はかけすぎました。
とはいえ、
たくさんのお客様が来てくれていたので、
15年後、とりあえず、
借金は完済。
大変でした。
2002、2003年の頃、
仕事は、本当に忙しかったのですが、
少人数のスタッフにもかかわらず、
なんとかこなせていました。
よくも、この少人数でやってたな、
と思います。
私も、まっきーも
若かったからかな?
2002年当時の小貫写真館スタッフ
私は、土日はブライダルスナップ撮影。
すぐに現像と、プリントをして、
ブライダルスナップアルバムを、
夜遅くまで編集。
スタッフが撮影した、スタジオ撮影の写真も、
全てネガをチェックし、
修正をし、台紙を貼る。
帰るのは、
いつも夜遅く。
もしくは、
自宅に戻ってからも、
仕事を真夜中までする。
そんな毎日でした。
10月11月12月と、
写真館の1番の稼ぎどき。
全く休みも取れず、
ストレスも溜まりまくっていたので、
まっきーが、
どこか、休みに行きたい!!
ということで、
12月初めに、
東京お台場の
日航ホテルに泊まりに行ったのです。
まっきーは、
うちの両親からのプレッシャー、
スタッフからのきつい当たりもあり、
心も体もゆっくりする暇もなく、
まあまあ、ボロボロだったんですよね。
でも、
当時の、私の感覚。
なんの用事もなく、
東京に泊まりに行くって、なんで?
まっきーのきつさを、
理解できてなかったんですよね。
私は、実家で働いているので、
気楽なのですが、
まっきーにとっては、
嫁ということもあり、
私とは違うプレッシャー、
スタッフからも、
きつくあたられることもあり、
大変だったのに、
ポジティブ自立の私は、
理解できていなかったのです。
なので、
ただ、ゆっくりをしに、
東京のホテルに泊まりに行くなんて、
ありえない、
と思っていたのですが、
まっきーのあまりの疲れ方に、
これは行かんといかん!
(駄洒落ではないです)
と思い、しぶしぶ、お台場まで行くのです。
で、
その結果、
実は、私がハマってしまいました。
ホテルのプールでのんびり。
サウナに入って、
おいしい食事を食べて、
ただただ休む。
働き始めてから、
あまりない経験。
ゆっくりする
ということ、
知らなかったんですね。
翌年も、
また、同じ時期に泊まりに行き、
その翌年からは、
那須にある二期倶楽部(2013年クローズ)に、
定期的に行くことになるのです。
常に全力で仕事をし、
そして、休めるときに、
癒しのホテルに泊まりに行く。
そんな生活が始まったのでした。
そんな、二期倶楽部も、
色々な問題で、閉鎖してしまったのは、
本当に残念。
少人数で、頑張っていた頃を思い出すと、
まだまだ、私もがんばらなきゃ、
と思うのです。
忘年会にて
私は、
写真館の家に生まれてきたので、
小さい頃から、
写真館と住居が一緒の場所で
暮らしてきました。
まあまあ、
自営業のおうちでは、
よくある光景かと思います。
一般的なサラリーマンの家庭とは違い、
仕事場と住居が同じなので、
いい部分は、
帰ったら、両親がいる、
と言うこと。
子供の頃はなんとも思いませんでしたが、
大人になって思うのは、
仕事場と住居が同じになってしまうと、
プライベートがなくなるのです。
みなさんは、
どんな家庭に育ちましたか?
仕事が忙しくなるとともに、
自宅に戻っても、
仕事をしなければならない日が続いていました。
もともと、
新しいスタジオを建てたとき、
実は、3階の一部分を
住居にできるように、設計していました。
結婚して、4年がすぎようとしていたとき、
車で10分だった自宅から、
スタジオの3階に引っ越したのです。
新たに作ると言うよりも、
もともと設計していた場所を、
改装した感じ。
せっかくそこに住むんだから、
超オシャレな感じにしたい!!!
と思い、
色々なインテリア雑誌を買い込み、
自分たちが好きなスタイルの、
部屋にしました!
広いリビング、
高い天井、
その天井まである、壁一面の棚!
設計してくれたのは、
よく同じ場所で飲んでいた、
中学の先輩、
古橋さん。
おかげさまで、
素敵な自宅になりました。
しかし、
仕事場と住居が同じになってしまったので、
プライベートの時間がますます少なくなります。
スタッフは、18:30に帰っていきますが、
私とまっきーは、
二人で遅くまで仕事、
と言う毎日。
20時に3階の自宅に戻って、
夕食を食べて、
また、1階に戻って仕事をする。
自分で言うのもなんですが、
よく仕事をしていました。
えらかったわ〜。
その代わり、
まっきーは、きつかったねー。
そんな感じで、
プライベートもないものだから、
子供なんて、
できるわけもなく、
あー、このまま二人の生活なのかなー?
まあ、それでもいいか?
なんて感じで、
思っていながら、
なんだかんだで、
楽しい日々を過ごしていました。
ただ、思うのは、
仕事場と住居、
できるのであれば、
別々の方がいいね!
今も、田園調布で、
仕事場と住居、一緒ですが・・・・
ちょっと余談です。
2001年12月24日。
クリスマスイブ、寒い雪の日でした。
うちのスタジオの駐車場に、
一匹の小さな子猫が泣いていました。
ミャーミャー!
ずっと泣いているので、
あまりにかわいそうになり、
自宅に連れて帰ったのです。
実は、私は、
猫アレルギー!!
猫に触れただけで、
目が痒くなり、
肌も痒くなるので、
できるのであれば、
猫には触りたくはない!!
なのですが、
あまりに、寒い中で泣いている子猫がかわいそうだったので、
連れて帰ってしまったのです。
まっきーは、
マジでいいの?
と、私に言います。
猫好きのまっきーは、
小さい頃から猫を買っていて、
ペットを飼う大変さを、
重々承知しています。
飼うんなら、
覚悟を持たないと、
飼えないよ!
と、言われ、
私も自信がありません。
翌日のクリスマス当日、
二人で、東京に用事があり、
行くことになっていました。
私は、寒い自宅の庭に、
段ボールの中に猫を置いて、
東京に出かけたのです。
まあ、いつでも、逃げられるようにしたので、
東京から戻ったら、
いないだろうなー!
すごい罪悪感を持ちながら、
とは言っても、
猫を買う自信もありませんでした。
まっきーと車の中で、
もし、帰って、
まだ、猫がいたら、
うちで飼おう!
と決め、
自宅に戻りました。
庭に出てみると、
なんと、
まだ、
段ボールの中に、
子猫がうずくまっていたのです。
寒い夜空の中、
ずっと待っていてくれたのです。
クリスマス。
神様がくれた、
小さな命。
寒かったねー、
と、
すぐにうちの中に連れていき、
あったかくしてあげました。
とても、その子猫が愛おしくなり、
そのあと、うちで飼うことになったのです。
それが、
うちの、ミャーちゃん。
ミャーミャーうるさいので、
ミャーちゃんです。
しかし、問題が!!
私の猫アレルギー。
その後、私は、
自宅に戻る時は、
マスクをして、家に入ります。
逆ですよね!!
そして、
よく、涙を流しながら、
くしゃみをしながら、
ミャーと遊ぶのです。
ほんと、大変でした。
しかし、驚くべきことに、
1ヶ月もすると、
なんと、マスクなしでも、
ミャーと接することが、
できるようになってきたのです。
なんと、
猫アレルギー、克服したのです。
すごいっしょ!
そして、その数ヶ月後、
ミャーちゃんと一緒に、
スタジオの3階に引っ越すことになるのです。
プライベートのない、
忙しい毎日も、
ミャーちゃんに癒されながら、
仕事も頑張ることができました。
そんなミャーちゃんも、
5年前、天国に行ってしまいました。
朝、まっきーが起きたら、
横たわっていました。
ひさしさーん
泣きながら、まっきーが、
ミャーが、ミャーが・・・・
声をかけても、
起き上がってきませんでした。
そんな、ミャーちゃんの、
ミャーミャーと言う、うるさい泣き声、
今、書きながら、頭の中で、
泣いているのです。
ミャーちゃんと!
Blissとは、
至福
という意味。
Happyよりも、
もっと、
心の奥から、
幸せを感じる、
そんな言葉。
このBlissという会社を
2003年に立ち上げるのですが、
まあまあ、苦労しました。
2002年の年賀状用の写真!
30代前半の頃って、
自分がイケてる!
と、勘違いしてしまうんですかね?
私は、そんな感じでした。
2002年の頃、
私は、地元水戸で、
ブライダルフォトグラファーとして、
まあまあ、名前を知ってもらえるくらいになっていました。
1996年、
まだ、そんなにブライダルスナップが流行っていない頃、
私は、今までにないような、
気軽で、かっこいいスナップ写真を撮りはじめ、
いくつかのホテルや結婚式場から声がかかり、
ブライダルスナップの先駆者と言われていました。
まあ、水戸界隈で、ですが・・・
毎週土日は、
ブライダルスナップを撮影にいく、
そんな忙しい日々でした。
当時撮影したブライダルスナップ
スタッフも増強し、
軌道に乗ってきたようにも見えたので、
なんと、
派遣カメラマンの会社を、
立ち上げようと思ったのです。
当時私は、34才。
まあ、イケイケドンドンの頃ですわ!
調子にのってたわー。
東京タワー🗼
写真が好きな、
アマチュアカメラマン、
もしくは、
写真に興味がある素人の人たちに、
手取り足取り、
カメラをおしえ、
3ヶ月後には、
ブライダルカメラマンになれるような、
プログラムを作ったのです。
今思うと、
まあまあ、斬新で、
先進的な感じ。
これに力を入れていたら、
今頃、もっと成功していたかも。
と思ってしまいます。
派遣カメラマン業を始めたのが、早すぎたのかもね。
実は、新たな会社を立ち上げようと思った理由が、
もう一つあります。
それは、
父親からの独立。
写真館に戻ったはいいけど、
何をするにせよ、
社長である、父親に従わなければならず、
自分の自由が効く会社を作りたい!
と思っていたのです。
わがままですわ。
そして、
2003年2月に
新会社、
BLISS
を立ち上げることとなりました。
至福という意味です。
両親にも相談しませんでした。
まっきーと連名でのダブル代表。
二人の会社です。
しかし、
新会社を立ち上げたはいいのですが、
なかなかうまくいきません。
それもそのはず。
カメラマン派遣業に力を入れればいいのにもかかわらず、
自分もフォトグラファーとして、
第一線で活躍したい!
なんて生意気な思いもあり、
自分が目立ちたいので、
カメラマンを育てるのにも、
力をそんなに入れることもできません。
また、
両親にも、黙って会社を立ち上げたものですから、
応援ももらえません。
まあ、自分勝手な、自分のわがままな思いだけで
やりはじめたものだから、
そりゃ、うまくいきませんよね。
そして、さらに、それなのに、
会社を東京に移転し、
ブライダルスナップを東京でも始めるのです。
高い費用を払って、ゼクシーに広告を載せ、
お客様は来てくれても、
ほとんど広告費に消えていくという悪循環。
何も見えていませんでした。
事業計画も立てず、
ただ、やってみたいということで始めただけの会社。
自分の力の無さに痛感したのです。
何を始めるにせよ、
まわりから応援されるやり方でやること。
これは、
後々、メンターである本田健から、
言われた言葉です。
まわりから、
どれだけ応援されるか!
これが、事業を成功させるためのコツ。
まわりから応援をもらうためには、
自分もまわりに対して、
どれだけ応援しているか!
が大切。
当時の私は、
自分のことしか考えず、
親から独立したい!
私が、東京でカメラマンをやったら、うまくいくはず!
東京で、カメラマンとして成功したい!
と思っていたのです。
あかんですわー。
こうして、新会社Blissを立ち上げたはいいものの、
売上は上がらず、
最初は、失敗に終わるのです。
とにかく、
認めてもらいたかったんですよね。
特に、父親から。
今はよくわかります。
とはいえ、
ここで終わらないのが、面白いのです。
この数年後、
この会社があるおかげで、
ブランディングフォトが、
脚光を浴びることになるのですが、
それはまた、
別の機会にお伝えしますね。
まあ、
突っ走ると失敗する。
それは、今でもついついやってしまいますが、
ホント、いい教訓です。
つづく
森藤ヒサシストーリー
3アメリカ編その2(ニューヨーク&エミさん)
4アメリカ編その3(ナショナルパーク編他)
幸せになる写真撮りたい方、
BLISSまたは、
パセオヌエボまで、
お問い合わせください!
最後まで、お読みいただきありがとうございました。













