一つだけ何か極めたら良いと良く言うけれども。
エキスパートは確かに憧れるけれども。
二つ以上の異なる視点、尺度でものごとを見つめられる人が好きだ。
医療職しながらスピリチュアル好きな人とか。
教員しながら裏社会にもある程度詳しい人とか。
でもね、それら得意分野が似た分野だと、あまり意味がない。
矛盾の扱いが上手くならないからだ。
寧ろ、自分の無謬を信じるようになるから、人としてどんどん退化する。
そしてそれをわたしは心の中で、勉強の出来る馬鹿と呼ぶ。
学んで知識を得た時であれ、
何かを体験した時であれ、
感情、感覚を感じた時であれ、
それを「ふーん、そうなんだ。へーえ」
と、特に感動もなしに「そういうもんなんだね」という感じだと、ただの無駄なもの。
勉強したとしても、ただのテスト勉強ですよ。
教科書から、誰かから、伝え聞いたものを、そのまま吸収するだけでは、勉強ではありません。
常に疑問を持ち、斜に構えるくらいでちょうど良くないですか。
教科書や、誰か偉い人の言説なんて、
教科書を書いたの気持ち人や発言した人の意図や目論見まで読めないのであれば。
(まあ、読めないだろうけどね。でも読もうとしようよ。)
コピーなんて。
中身の無い、エセ。
活用なんて出来ない。
ただ、その知識に縛られるだけ。
大事なのは、
こ、これか!
そうだったのか!
という「アハ体験」があるかどうかであり。
ロジックではなく、ビビッと「確信」出来てるかどうかであり。
それがあるか無いかって、とても、重要。
そして、それを理解していない人が
人にものを教えたとしても、無力だと思う。
それぞれの自分の得意な分野を「俯瞰」出来る人と話していると安心感があるし、似た者同士オーラを感じてホッとする。
両極、知らないとね。
酸いも甘いも、清も濁も。
矛盾を受け入れる強さも。
どの考え方が、どの生き方がいっとう優れているとか、多分そんなにないよな。
とりあえず、
右脳と左脳をバランス良く使える人は頭がいいと思うけど、
右脳使いのエキスパートが生み出すもの、
左脳使いのエキスパートが生み出すもの、
それぞれわたしは好きだったりする。
(ものすごくふわっとした、勿論学術的ではない言い方をしているのは自覚している。わかりやすさ重視。)
でも、
わたしが一緒にいて心地よく感じるタイプの人は、多分脳梁が発達してる人が多い。
音楽やってる人とか、作家とか、そうだよね。
わたしは子どもの頃から、
大脳新皮質で硬くものごとを捉え過ぎて、
前頭前野を疲弊させて来たのかも知れないな。
とか。
たとえばこんな仮説、能書きは、あっても無くてもいいんですよ。
あることで害になるならむしろ無くていいんです。
そんなん。
どーでも良くて、
創造と、探究、そして表現、体現。
そして、自分を俯瞰しながら、進化していくこと。
それが出来なきゃねえ。
勿体ないよね。
脳だけに決めさせちゃダメなんだよな。
身体を置いてきぼりにしちゃ。
身体全体に、心が宿って居るんだからさ。
西野さんのFacebook投稿より。
この人のこと、好きな部分と苦手な部分両方あるけど、これは同意以外にないわ。
「20代のうちは、自力を高めた方が絶対に得」
— NewsPicks Studios (@NewsPicksStudio) 2023年1月16日
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