◆ 丹後の原像
【94..「天日槍と丹後」幻視考 (2)】
ずいぶんと放置したものでした。
この企画物記事の現況を説明しておきますと…
「丹後史料叢書」の中の「丹後舊事記」を中断し、
「古代海部氏の系図」を始めました。
それも中断し、
「豊受大神にじわりと…」始めました。
それも中断し、
「天日槍と丹後」幻視考を始めました。
その途中で放置しているといった状態です。
これはひとえに自身の体調不良や転職のドタバタにかこつけた怠惰。
参拝活動を停止しているため
神社等の紹介記事のネタが無いこともあり、
しばらくは当記事を始めとした
企画物記事に注力していきます。
…と
怠惰を起こさないように
自身への戒めとして顕にしておきます。
あまりに放置し過ぎたので、簡単なおさらいから始めることにします。
韓流スターの如く颯爽と華やかに渡来してきた
天日槍(アメノヒボコ、天之日矛・天日鉾)。播磨「穴禾
(しさは)」→近江
(琵琶湖東側)→越国「角鹿
(つぬが)」敦賀
(つるが)(記は若狭国とする)→但馬へと移った様子が記紀等から得られます。
越国「角鹿」から但馬へ移る際には、日本海を移動したと考えるのが自然でしょうが、なぜか丹後が飛ばされています。実際のところほとんど伝承が無く、この原因を探らねばならないというのが、この記事を起こした理由。
ここで一つ考慮せねばならないのが、山陰~北陸地方に広がる「四隅型突出墓」。弥生時代の墓。
なぜか丹後と若狭だけぽっかりと空白(実は但馬国にも見当たらない)。丹後の海部氏は出雲の熊野から移住してきたのでしょうが、文化圏が異なるのではないかとも考え得るのです。これは放置して置けない案件。
前提として、これまでの自身のあらゆる知見から以下を示しておきます。
* 越前国一ノ宮
氣比神宮の主祭神である伊奢沙別大神
(イザサワケノオオカミ)と同神ではないかと考える
*各地にみられる「兵主神(ヒョウズノカミ)」と同神である場合が多い
* 垂仁天皇の御代、3世紀末頃に朝鮮半島の「加羅」から来日したと考える(「新羅」からではない)
* 子の但馬諸助(タヂマモロスク)までが本当の子孫であり、以降の系譜は鍛冶製鉄部族が自家の始祖として取り込んだのではないか
簡単におさらいを…と言いつつも
言葉足らずであった部分を補うと長くなってしまいましたが…。
両神が記紀に於いて記されるルートを再確認しておきたいと思います。
*都怒我阿羅斯等の移動ルート
意富加羅国
(おほからのくに) →
穴門・出雲を経由 → 笥飯浦
(けひのうら、越国「角鹿」) → 意富加羅国
(彌摩那国、=任那)新羅 → 播磨国「宍粟邑(しさはむら)」 →(「兎道河(うぢがわ)」遡上)→ 近江国の北の「吾名邑」(坂田郡とされる) → 若狭国(越国の間違いか) → 但馬国「出嶋」(出石)
都怒我阿羅斯等が渡来してから居たのは越国「角鹿」のみ。
天日槍は播磨国「宍粟邑」から大阪湾へ向かい「宇治川」(淀川)を遡上し、近江国「吾名邑」(蒲生郡竜王町)へ。そして若狭国へ。ところが若狭国に天日槍の痕跡は見られません。可能性を見出だすとすれば、若狭彦大神が若狭彦神社へ鎮まる前の降臨地である白石神社が、新羅からの渡来人ではないかとも考えられ、天日槍が拠点としたのかもしれません。或いは若狭国ではなく越国「角鹿」の間違いである可能性も。
都怒我阿羅斯等が越国「角鹿」にのみ拠点が無かったのに対して、天日槍は広範囲に拠点を移した、そして都怒我阿羅斯等は越国「角鹿」に居た後帰国した、というのがこの項での結論。

◎天日槍の後裔
天日槍の後裔を名乗る氏族はいくつかあります。出石神社を奉斎した「但馬君」を始めとして、他に「三宅連」や「糸井造」。
「三宅連」は大和国城下郡(現在の磯城郡三宅町)を、「糸井造」は大和国城下郡(現在の磯城郡川西町)を各々の本貫地としました(糸井神社・比賣久波神社)。比賣久波神社の隣に築かれている島の山古墳は、第15代応神天皇妃の糸媛(糸井比売)が被葬者の可能性が高いとされます。「三宅連」は「新撰姓氏録」に、摂津国にも記載があります。
糸媛(糸井比売)の父とされる桜井田部連嶋垂根命は、河内国河内郡枚岡郷(現在の東大阪市六万寺町に比定される)と見られます。
ところが島の山古墳の南隣には三宅町「但馬」という地名が残ることから、一族が何時の頃からか但馬から移住して来たことが窺えます。
「三宅連」や「糸井造」の職掌はというと、「三宅連」が屯倉(みやけ)の管理、「糸井造」が養蚕業などと伝わります。本来は鍛冶氏族であったものが、それらの職掌も兼ねるようになったということでしょうか。鍛冶氏族であった故に拠点が広がったとみるべきなのかもしれません。
記紀には
天日槍(天之日矛)の子孫として田道間守
(タヂマモリ、多遅摩毛理)を記し、そして三宅連の祖であることを伝えています。紀では三世孫、記では四世孫であると。
田道間守(多遅摩毛理)は垂仁天皇の勅命を受け、「非時香菓(ときじくのかごのみ)」を常世国へ求めたと記されます。
ところが上記
(「おさらい」のところ)で記したように、
天日槍の実の子孫は子の但馬諸助
(タヂマモロスク、多遅摩母呂須玖)までで、以降の系譜は鍛冶製鉄部族が自家の始祖として取り込んだのではないかと考えられます。
そうすると、「三宅連」とは如何なる氏族であるのか、そしてまだここでは触れていない「但馬君」に就いて、次に触れていきます。

右手前に浮かぶ小島は田道間守の墓とされる(実際に造られたのは明治末期以降でそれ以前には存在しない)。
◎「三宅連」と「但馬君」
ここから少々複雑なお話となります。最大限に分かり易くはするつもりですが…。
但馬国一ノ宮または二ノ宮とされる粟鹿神社(記事未作成)所蔵の「田道間国造日下部足尼家譜大綱」という書には、第9代開化天皇の後裔である「大多牟坂王」を但馬国造としたという記事が見えます。そして「大多牟坂王」は但遅麻毛理(田道間守)の子であるとしています。
「大多牟坂王」とは初代淡海安国造(琵琶湖東岸)と同一人物と思われます。彦坐王または天之御影命の裔とされる人物。
*彦坐王と天之御影命の娘である息長水依比売とが結ばれ丹波道主命が生まれたとされる。ただし史実かどうかの疑念はある。淡海安国造家の氏神は天之御影命を祀る野州郡(やすのこほり)の御上神社とされる。
2箇所もの国造を兼任するということはあり得ない!
但馬国造に就いては「先代旧事本紀」国造本紀に、成務朝の御世に、竹野君同祖彦坐王の五世孫の船穂足尼(フナホノスクネ)を国造に定めたとあります。
一方で先の「田道間国造日下部足尼家譜大綱」は、大多牟坂王の子に船穂足尼を記載しています。初代であるのか2代目であるのかはともかく、これで一応の整合性は得られるかと思います。大多牟坂王の子の船穂足尼が初代但馬国造ということなのでしょうか。
また同書は大多牟坂王の妃を但遅麻毛理(田道間守)の娘の但馬久流比売とし、そのまた娘を真穂若比売とし、「三宅連祖忍立妻」と記しています。ここでようやく「三宅連」の名が見えます。これ以降はあらゆる文献を探るも、「三宅連」の但馬国に於いての記述は見当たりません。その氏族名が見られるのは摂津国や河内国といった辺り、主流はいわゆる河内王朝のもとで活躍していたようです。
そもそも
天日槍の子の但馬諸助までを子孫とするのであれば、田道間守は「三宅連」が生み出した創作上の人物なのでしょうか。
ところで同書名が「田道間国造日下部足尼…」とあるように、日下部氏が但馬国造であることを示しています。
これは日下部足尼家の初代とする日下部表米(クサカベノウワヨネ)が但馬国養父郡の大領(郡司)になっとたし、後に但遅麻国造になったと。日下部表米は第36代孝徳天皇に仕えたとされる人物。飛鳥時代のこと。
一方「但馬君」に就いては資料が乏しく詳細が見えてきません。
「先代旧事本紀」国造本紀の「吉備風治国造
(きびのほむぢのくにのみやつこ)」
(備後国品治郡)の条に、「成務朝御世に、多遅麻君
(タヂマノキミ)と同祖 若角城命
(ワカツノキノミコト)の三世孫の大船足尼
(オオフナノスクネ)を国造に定めた」とあります。
他に「播磨国風土記」の揖保郡条の「越部里」の項に以下が見えます。
━━古い名は皇子代里(みこしろのさと)である。皇子代と名付けられた所以は、勾宮天皇(第27代安閑天皇)の御世、天皇が寵愛していた但馬君小津が皇子代君(ミコシロノキミ)という姓を賜り、この村に三宅を造って仕え奉った。故に皇子代村という。後に上野大夫が卅戸を結んだ時に越部里と改められた。或いは但馬国の三宅より越して来たので、越部村と名付けられたという━━
天皇が寵愛していたというからには、元々は大和国高市郡の「勾金橋宮」近くに居住していたのでしょうか。地名説話はどちらも少々的外れのようにも感じますが、但馬から播磨の揖保郡へと移住してきたのでしょう。

[丹後国熊野郡]
産霊七社神社境内の「日下部氏住居跡」伝承地。
日下部表米はここに住んでいたと伝わる。この当時、但馬国や丹後国は丹波国からまだ分離独立しておらず、当社地は但馬国に近いことから居を構えたのかもしれない。
◎総括
結局のところ、文献資料からのみでは実態を把握しかねる状況。それでも何らかの落とし前は付けておきたいところ。多くの推測を盛り込みつつ総括を…と。
垂仁天皇の時代、但馬には盟主的存在の人物や氏族は存在しなかった。「三宅連」の前身となるような渡来系部族が国造を担った。海人族でもあり産鉄鍛冶部族であったのかもしれない。
やがて彼等は多様な専門技術を有することから、ヤマト王権(河内王朝)に於いて重宝されそちらへどんどんと移住していったのかもしれない。そこで出会ったのが日下部足尼氏。同じく渡来系氏族であった。
日下部表米が但馬へ赴任した際に、そちらの「三宅連」とも出会い、入れ知恵をしたのかもしれない。
天日槍という神を創出して祖神としてみてはどうかと。モデルは越国「角鹿」の
都怒我阿羅斯等。
そもそも
天日槍という神名はどう見ても和名である。渡来人であれば例えば
都怒我阿羅斯等や于斯岐阿利叱智干岐
(ウシキアリシチカンキ、都怒我阿羅斯等の別名)、蘇那曷叱知
(ソナカシチ、都怒我阿羅斯等と同神とみられる)のような名であるはず。出自を良く見せるためにあたかも天孫族が如く「天」を冠した神を、
都怒我阿羅斯等をモデルとした創出させ、始祖としたのではないかと考えます。
これは各地に広がった「三宅連」、或いはまったく異なる部族が同様に始祖として立てたものではないかと。
天日槍の移遷ルートに角鹿が含まれないのはこのためであり、渡来時期がまちまちなのもこのためではないかと。
丹後に天日槍の伝承がほとんど見られないのは、そのようなことをした部族がいなかったためではないかと考えます。丹後は他の日本海側に比してもっとも栄えた地であり、古くより豊受大神を奉持する氏族があり、また海部氏という始祖を明確に謳う氏族がいたからでしょう。
今回はここまで。
強引にまとめた感は否めませんが、
やはり丹後に
天日槍に関する痕跡が見られないこと、またそれが何か特別な事情によるものでもないということが分かり、それを伝えることができたと思います。
次回は「豊受大神にじわりと…」に戻ります。
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