◆ 丹後の原像
【97.豊受大神にじわりと… ~5】
「豊受大神にじわりと…」のシリーズも
今回でいよいよ大詰めに近付きます。
2回に分けようかと思っていたのを
1回でやり切るので少々長い記事となっておりますので、ご覚悟を…
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「雄略天皇二十二年」に丹後から伊勢の外宮へと遷座されたという豊受大神。ところが記紀等には遷座に関する記載は一切見られません。ただ唯一、丹後を舞台とした記述が「浦島太郎」のモデルとなった瑞江浦嶋児(ミヅノヱウラシマコ)の神話。
どうやら豊受大神の外宮遷座には、「浦島太郎」が関わっている可能性が見えてきました。大変に厄介な課題ですが、躊躇なく突進しようと覚悟を決めました。
「浦島太郎」物語に就いてはその原型となった説話が「丹後国風土記」逸文に表されると、
前回の記事に記しておき、その原文をも掲げておきました。

◎浦嶋児の出自と住まい
冒頭に「浦嶋児」のプロフが記されているのです。これは私の中では一級資料。
似たような文献「丹後國風土記」殘缺がありますが、これは「公的資料」ではありません。おそらく編者による多分な創作神話がほとんどであり、参考にはなれども信用するにはまったく足りません。
とは言え此方もあくまでも「逸文」であり、引用したという甚だ心許ないもの。ところが引用された書が「釈日本紀」。
この書は卜部兼方(ウラベノカネカタ)という者が、父の兼文が建治元年(1264年)に関白一条実経(後に左大臣)に行っていた、講義の註釈書を纏めたもの。
ま…絶対的な信用のおける書とは言い得ないものの、そこそこはそれなりのもののはず…という見方ができるでしょうか。
此処では「卜部氏(ウラベノウヂ)」の名を御留意頂けないでしょうか。
さて…愛川欽也なら「お待っとさん!」などと気の利いた言葉の一つでも放てるのでしょうが、残念ながらいきなり一気に行きます。その冒頭の文面というのが…
━━与謝郡 日置里 此里有筒川村 此人夫 日下部首等先祖 名云筒川嶼子 爲人 姿容秀美 風流無類 斯所謂 水江浦嶼子者也 是旧宰伊預部馬養連 所記無相乖━━
平成十五年
(2003年)頃のことであったと思います。初めて訪れた
宇良神社(浦嶋神社)にて驚愕の事実を叩きつけられ、呆然となった自身がいました。一から浦嶋児を勉強せねば、一から丹後を知らねば、自身の明日はない!…と。
*浦嶋児の住まい
冒頭に「与謝郡 日置里 此里有筒川村」とあります。これは雄略天皇二十二年紀の秋七月の条、「丹波国餘社郡(與謝郡)管川(つつがわ)人 瑞江浦嶋子(ミヅノヱウラシマコ)…」と合致するもの。
その「筒川」(管川)というのは宇良神社(浦嶋神社)の鎮座する地。現在の与謝郡伊根町本庄浜。主祭神は浦嶋児。近くには大太郎嶋神社という小さな社も鎮座、そちらの伝承では「浦島太郎」を浦嶋児の父としています。
竹野郡の「浅茂川」河口(京丹後市網野町)には「浦嶋児生誕地」という伝承地があり、すぐ近くには嶋児が釣りをしていた「釣留(つんだめ)」という伝承地があり、傍らには嶋児神社の小祠があります。
また「しわ榎」という浦島太郎屋敷跡と伝承される地が、網野銚子山古墳の前方部裾にあります。このような場所に屋敷を構えることができたのは、古墳被葬者の裔であるということでしょうか。

[丹後国竹野郡]
「しわ榎」と
網野銚子山古墳
また西浦福島神社には、伝承として「子供に恵まれなかった日下部曽却善次夫妻が祈願したところ、福島に来るようにとの神託を授かり、翌朝赤子が置かれていた」と伝わります。
さらに他にも網野町には嶋児ゆかりの社として網野町下岡に六神社が鎮座。この社に就いて「丹哥府志」は以下を伝えています。
━━五社を合せ祭る(俗に浦島太郎 曾布谷次郎 伊満太三郎 島子 亀姫の五人なりと云ふ)と。また「丹波国与謝郡筒川の庄日置里に浦島太郎といふものあり 月読尊の苗裔なり 故を以てこれを長者とし国事をしるさしむ 其弟を曾布谷次郎といふ 次を今田の三郎といふ 浦島曾布谷今田は地名なり 太郎次郎三郎は伯叔の次なり 太郎は履仲天皇反正天皇に二代に仕ふ 次郎は允恭天皇に仕ふ 三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり 安康天皇即位四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す 其功すくなからず(国史に日下部使臣其子吾田彦億計弘計の二皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此人ならん)━━
つまり長男は太郎、次男は次郎、三男は三郎であると。そして太郎は島子となり、亀姫は島子が助け竜宮城へ案内した亀のこと。御祭神の島垂根命は曾布谷次郎、綿積乙女命は亀姫のことであると。つまり六柱中の五柱が同神であるということに。
網野町にはもう一社、網野神社もゆかりの社。異なる三社が合わさりできたとされますが、うち一社は浦嶋児を祀っていたと伝わります。
地元の伝承では当地で生まれた浦嶋子が、海にさらわれ宇良神社(浦嶋神社)が鎮座する伊根町「筒川村」へ漂着。この間に生死をさ迷い「蓬莱山(竜宮城)」へ行く夢を見たのではないかとも。
これまで丹後のあらゆる場所を巡りましたが、知り得る限り浦嶋児の伝承地はこの2ヶ所のみ。
どうやら竹野郡の「浅茂川」河口で出生した浦嶋児。海釣りをしていたところを波にさらわれ、與謝郡の「筒川」に漂着した…それが後に「浦島太郎」物語へと相成った…のではないかと。
◎浦嶋児の出自(1)
浦嶋児の出自は異なる3通りがあるようです。先ずは一つ目から。
「丹後国風土記」逸文には「日下部首(クサカベオビト)の祖」とあります。
「日下部首」に就いては「新撰姓氏録」に、「和泉国 皇別 日下部宿祢同祖
彦坐命之後也」とあります。「日下部宿祢」に就いては、「摂津国 皇別 日下部宿祢 出自開化天皇皇子
彦坐命之後也」と「山城国 皇別 日下部宿祢 開化天皇皇子
彦坐命之後也」の2ヶ所に記載されています。後裔たちの活躍が窺い知れるもの。
「日下部首」を含む「日下部氏」に就いて、Wikiでは、その起源にはいくつかの系統があるとして以下を掲出しています。
*饒速日命の孫である彦湯支命(比古由支命)の後裔。物部氏の一族。
*火闌降命(ホスソリノミコト、薩摩隼人の祖)の後裔で犬養部と同祖の氏。
*開化天皇皇子 日子坐王の後裔。因幡国で朝臣姓「草香部」を名乗った。
*開化天皇孫 山代之大筒木真若王(彦坐王の子)に始まる但遅麻国造族の日下部君。
*開化天皇孫 狭穂彦王(彦坐王の子)に始まる、甲斐国造族の日下部直・河内の日下部連。
*仁徳天皇皇子 大草香皇子の後。
*孝徳天皇孫 表米親王(日下部表米)に始まる日下部宿禰の後裔。
*大彦命の子 紐結命に始まる日下連。
*若多祁命の子・田狭乃直に始まる伊豆国造族の日下部直。
*天日若伎命六世孫 保都祢命の末裔の日下部首。
彦坐王(彦坐命・日子坐王)の後裔とする系統が3つあります。
3つ目が近いと言えるかもしれません。その分岐氏族という可能性もあるのかと。
7つ目の孝徳天皇孫(または子とも)表米親王の後裔とするのは、「続群書類聚」所載の系図によるものですが、これは信用できないとするのが通説。実際は彦坐王を祖とする但馬国造の後裔とみられています。表米親王は一部、丹後国熊野郡にもみられ(産霊七社神社)、また社伝によると加佐郡白糸浜で新羅軍と戦ったと伝えられています。隣国の但馬国造族であることから、祖を同じくする同族の可能性もあるかと思います。
8つ目の「天日若伎命六世孫 保都祢命の末裔の日下部首…」に就いては、和泉国大鳥郡草部郷に鎮座する日部神社(くさべじんじゃ)が該当。社伝に於いては彦坐命の後裔とし、一族には浦島太郎もいるとしています。
「新撰姓氏録」と突き合わせると摂津国と和泉国の違いはあるものの、これは後に移住があったのかもしれません。
これとは別に雄略天皇皇后であり仁徳天皇皇女でもある草香幡梭姫が生活する資用に充てられた料地の管理等に携わった部民が、この皇后の名に因む(いわゆる名代部)とする説がある。そして、この部民は各地に配置されて屯田兵のような軍事集団の性格を持つものでもあったとされる…ということも伝えています。
想像を逞しくするなら、
彦坐王の後裔氏族という皇別氏族であったが、後に草香幡梭姫の部民として組織化に組み込まれた…という可能性も棄て切れません。
浦嶋児を日下部首の祖とするのであれば、和泉国大鳥郡草部郷を拠点とした日下部首と同族とみるのが最適でしょうか。
◎浦嶋児の出自(2)
宇良神社(浦嶋神社)には20年ほど前より足繁く参拝を重ねていますが、およそ10年ほど前に宮司から驚愕の話を伺ったのです。
先に話をしておきますが…
宮司の宮嶋淑久氏は大変に厳格な方で、「浦島太郎」物語を始めこのお社のことを、相当に研究なされている方だと思い、大変に尊敬しております。研究に基づいた理論武装とともに、少々近寄り難いほどのオーラを放っておられますが…。そのような方が放たれたお話です。
「浦嶋児は宇治土公の祖である」と。
宇治土公
(ウヂトコ、ウヂドコウ、ウヂノツチギミ)と言えば、猿田彦大神を始祖とする
(異説有り)直系子孫とされます。瓊瓊杵命の天孫降臨に際して先導した神。伊勢内宮の側の度会郡に鎮座する
猿田彦神社の社家の宇治土公氏と、鈴鹿郡の
椿大神社の社家の山本氏とで、どちらが直系子孫であるのかと大変に激しい主張を繰り広げておられるのですが…。
猿田彦大神にまで遡ると、到底この記事内では収まらないので、猿田彦大神が宇治土公氏の祖であるという前提で進めていきます。
宮嶋淑久氏は宇治土公が、丹後国輿謝郡「筒川」より伊勢へ渡ったとしています。彼等が「筒川」にあった時に奉斎していたのが、野村寺領に鎮座する猿田彦神社であると。
宇良神社(浦嶋神社)の西方3kmほど、標高400m近くの高所に鎮座する小さな社。現在は氏子が4軒にまで減っています。
宮嶋淑久氏は、豊受大神の伊勢遷座の際に一緒に移ったのかどうかまでは言及していないものの、セオリー通りに考えて一緒に移ったのであろうと思われます。或いは豊受大神遷座に一役買ったのか…。
この伝承はおそらくほとんど世に語られていないと思いますが、ベールに包まれた宇治土公氏の原始の謎を知る上で貴重な資料源になるかと考えています。
[丹後国輿謝郡]
猿田彦神社(与謝郡伊根町野村寺領)
◎浦嶋児の出自(3)
竹野郡の六神社(京丹後市網野町下岡)の社伝に戻ります。「(浦島太郎が)月読尊の苗裔也」と聞き捨てならぬ記述が見えます。
実は宇良神社(浦嶋神社)が大いに月読尊と関連があるのです。先ず相殿神として月読尊が鎮まっていることが一つ。
次に月読尊と関わりの深い「北辰信仰」の影響を受けた社であること。御本殿は珍しい北向であるのがそれを示しています。
「北辰信仰」は北極星や北斗七星を神格化して天御中神とし、妙見菩薩をその権現とみなした信仰。ところが豊受大神とも習合した例もあり、「天御中神=豊受大神」とされることもありました。
「北辰信仰」が「夜の中心となる存在」である天御中神を信仰の対象とするのに対し、「月読尊」は「夜の支配者たる存在」。両者が習合するのは必然の成り行きであったかと考えます。
また「真名井原縁起」(籠神社の始源に就いて書かれた書、室町時代頃編纂と推定)には、豊受大神が「月神」であると記しています(→ 第10回目の記事 「真名井原縁起」~1)。神仏習合の影響が甚だしく、仏教などという邪宗教からの観点で書かれた書であることから、まったく信用に値しないものなのですが…この時代に籠神社や豊受大神がこのような見方をされていたということを知る上では貴重なもの。「豊受大神=月神」とされている時期があったのでした。
既に当ブログ内のあらゆる箇所で記していますが、宇良神社(浦嶋神社)の原初の御祭神は豊受大神であったという言質を宮司の宮嶋淑久氏から得ています。
もう一つ、私が注目している見解があります。それが「卜部氏(ウラベウジ)」が関わる社ではないかということ。
氏族名から明らかなように「卜定(ぼくじょう)」、即ち「卜占(ぼくせん)」による吉凶判断を生業としていた氏族。主として対馬・壱岐・伊豆等に分布した3系統が見られますが、うち壱岐を根拠地とした「卜部氏」(対馬を根拠地とした「卜部氏」と混同がみられるが同祖の別氏族と考える)。
今となっては大変に貴重な「亀卜(きぼく、かめのうら)」を行っていました。海ガメの甲羅に熱した波波迦木(ははかのき)を押し当て、ヒビが入った様態を見て占うというもの。国家祭祀でもあり、代わりの利かない唯一無二の氏族であったと思われます。現在は絶滅危惧となっているので…ですが。
彼等はやみくもに海ガメを捕獲し占っていたわけではなく、年に数頭のみを捕獲し、その尊い命と引き替えに国家の行方を占っていたものと思うのですが…。
「亀を助けた浦島太郎」と繋がるのです。彼等がいぢめられていた亀を助けるのは当然のこと。国家の行方を教示して頂ける貴重な物体、海ガメを神として崇めていたのではないかとも思うのです。「丹後国風土記」逸文には、亀がいぢめられていたとまでは記されないものの、「亀比売」とあるのです。神の化身なのです。
かねがね当ブログ内では月読尊を奉斎していた氏族は三系統(主流はニ系統)存在したと記していますが、うち一系統は「壱岐の卜部氏」なのです。
さて…非常に長々とした記事となりましたが。
前半部で「丹後国風土記」逸文の引用されたのが「釈日本紀」であると。この書は卜部兼方(ウラベノカネカタ)という者が、父の兼文が建治元年(1264年)に関白一条実経(後に左大臣)に行っていた、講義の註釈書を纏めたもの…と記しておきました。「卜部氏」の末裔なのです。
お伽噺の「浦島太郎」物語では太郎が「竜宮城」へ連れて行かれたとなっていますが、元々は常世の「蓬莱山」だったのです。これは中国の「神仙思想」によるもの。「卜部氏」が行ったという「亀卜」は、「太占(ふとまに)」等の日本独自の朴定とは異なり、中国伝来のもの。
月読尊を巡って、
宇良神社(浦嶋神社)の浦嶋児・「浦島太郎」物語・「卜部氏」と、これで全てが繋がったように思います。
問題はその繋がった時期。上古からの可能性もあれば、豊受大神遷座後の遥か後の時代の可能性すらあります。特定し得る資料を欠いているのが現状です。想像に任せるのなら「亀卜」の技法と「神仙思想」とは同時に「卜部氏」によってもたらされたのかもしれません。間接的にかかわるものとも思いますし。
◎「浦嶋児」の「浦」
答えはバレバレ?(笑)
こんなタイトルにすると答えを先に言ったようなものなのかも…。
「浦」とは「卜部氏」の「うら」ではないのかと。よくよく考えてみると、「水江浦嶋児」「瑞江浦嶋児」ともに「水江・瑞江」で既に「水」(海)の側であると言ってしまっているのです。わざわざ「浦」という語を付け足す必要がないのです。「卜(うら)」であったものが後に「浦」に転じたのかもしれません。
◎少々強引なまとめ
あくまでも「天地悠久 スペシャル探偵譚」によると…
浦嶋児の出自は「卜部氏」であったが、「太占」が主流となり衰退気味であったことから、祖を
彦坐王の後裔という「皇別氏族」に求めて、一族の繁栄を願った
(新撰姓氏録)。即ち祖神を月読尊から
彦坐王へとすり替えた。ところが
彦坐王は朝敵としてみなされている
(個人的思量による)ことから、浦嶋児を祖神とした日下部氏へとした文献も残る
(「日本書紀」、「丹後国風土記」逸文 等)。

[壱岐国] 月読神社 *画像はWikiより
「式内名神大社 月読神社」に比定されるも本来は箱崎八幡神社が該当するとみられる
今回はここまで。
丹後国内に於ける「浦嶋児」伝承等を中心に記事を組み立てました。
次回はなぜ伊勢へ遷座されねばならなかったのかに就いての記事となります。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。
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