[伊勢国度会郡] 豊受大神宮 *写真はWikiより





◆ 丹後の原像
【96.豊受大神にじわりと… ~4】





何とか記事UPにこぎつけました。

参拝活動をほとんどしていないため
時間はあるのに…

それぞれの記事内容が重たくて
大変に手間取っております。

苦労した分、
自身に積み上がるものは大きい!

そう思いつつ励んでおります。


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◎課題点


前回の記事にて2つの課題点を示しました。

丹波道主命による奉斎が起源なのか?
*雄略天皇二十二年に何が起こったのか?

前者の課題は文献や神社伝承等あらゆる観点から検討を試みて、解決とまでは至らずも、一定の結果を示すことができたかと思います。

今回は後者に就いて触れていきます。



◎「雄略天皇二十二年」の記述

これまでみてきたように、豊受大神は雄略天皇二十二年に外宮へ遷座されたと記す文献がいくつか見られます。

*「止由気宮儀式帳」
*「丹後國一宮探秘」

*「豊受皇太神御鎮座本紀」

*「太神宮諸雑記」

*「倭姫命世記」


知り得る限りこの5点に豊受大神宮の鎮祭年代「雄略天皇二十二年」が記されています。「豊受皇太神御鎮座本紀」「太神宮諸雑記」「倭姫命世記」の三書は「神道五部書」。


何とも怪しい書ばかりというのが正直なところ。その是非はともかく、偽書であると切って棄てる研究者もおられます。記載内容すべてが偽りではないでしょう、希少な情報が得られる数少ない書として扱われています。


いずれの書も公表される成立年代とは異なり、実際には鎌倉時代頃とみられています。


「神道五部書」の三書に於いては、「雄略天皇二十二年七月七日」に、豊受大御神を迎えて祀ったとあります。「七月七日」というと…また後ほど。



[伊勢国度会郡] 多賀神社(豊受大神宮 別宮)
豊受大御神荒魂を祀る




◎豊受大神宮の鎮祭

「雄略天皇二十二年」に鎮祭されたというのは史実ではないでしょうから、その実際の起源は何時なのかという課題が湧きます。
これに就いては、これまでに多くの先達によるあらゆる考察がなされてきたでしょうから、敢えて此方で追究はしませんが…。

信用のおける文献から探っていきましょう。
「延喜式神名帳」(延長五年・927年)には「度会宮 大 四座 相殿神三座」と記載があります。社名からみても現在の「豊受大神宮」(外宮)のこととみて問題無いかと思われます。

そして「日本書紀」には一切の記述がありません。神名すらも記載無し。

「古事記」には「次登由宇気神 此者坐外宮之度相神者也」(次に登由宇気神、此は「外宮」に坐す度相の神ぞ)という記述が見えます。「度相」とは「度会(わたらい)」のこと。
「外宮」は「とつみや」と訓むようです。誰がどのような理由でそのように訓ませているのか、残念ながら私は知りません。
この記述を見る限り豊受大神宮は既に創建がなされていたことになります。

さて…
正史である「日本書紀」にはまったく記されておらず、「古事記」には記されている、これが何を意味するかというと、

「正史」に掲載するほどの出来事ではない。
…このように考えます。



◎「外宮」(とつみや)


日本古代史の大好き人間の方々には、「外宮」が「げくう」という訓みがけっこう通じます。ところがそうでない方々は往々にして「げぐう」と発音されます。
細かいことなので敢えて否定はしません。「和」をこの上なく好むO型さんは、ぐっと堪えてその場の空気に合わせておきます。

実はそれよりも真の訓みがあります。
それが「とつみや」なのです。

20年近く前のこと。何気ない世間話的な会話の中で、「外宮」を「とつみや」と発せられた方と遭遇しました。瞬時にこの場では関わってはいけない方だと感じ、場所を変えて内密にお話を…と。そもそも仏教系の人なので、関わってはならない人でした。恒例の余談ですが…。

「万葉集」に次の歌があります。
━━月日摂友久経流三諸之山砺津宮地━━(巻13-3231)
右二首 但或本歌曰[故王都/跡津宮地也]

読み下し文は「月も日も変はり行けども久に経る三諸の山の離宮所」。つまり「砺津宮」(跡津宮、とつみや)は「離宮所」であるとしているのです。

この「外宮」の訓み「とつみや」に拘るわけではありません。「外宮」なのです。文字そのものを問題視します。
即ち「外」なのです。「鬼は外」の「外」なのです。追放された先、左遷先のこと、朝廷にとっては門外漢のこと。そんな「外」のことまでにも関わる「日本書紀」であってはいけません。

個人的思量としては…
記の編纂時の「外宮(とつみや)」が皇太神宮の離宮的な存在であったと言えるのではないでしょうか。
そして持統天皇による国家の構築システムとして(目指したのは「律令国家」「中央集権国家」)、必要性のないもの、むしろ不必要なものとして捉えられていたものと考えます。あくまでも国家の構築システムの範囲内でということ。



◎「御厨」が起源

「皇太神宮儀式帳」の「礿神郡度會多氣の三箇本記行事」の項に以下が記されます。

━━右従纏向珠城朝庭(垂仁朝)以來 至難波長柄豊前宮御宇 天萬豊日天皇(孝徳朝)御世 有尒 鳥墓村(とりつかむら)造 神庤(かむだち、「庤」には蓄えるという意がある)(なづく) 為雜神政行仕奉 而難波朝廷 天下立評給 特 以下十郷分 度會山田原 立屯倉号 新家連 阿久多●(かみと、不明字) 領礒連牟良助(イソノムラヂムラスケ)●仕奉 以十郷分竹村立屯倉 麻續連廣背●領礒部真夜千助 同朝廷御特 初太神宮司●稱神庤司 中臣香積連 湏氣仕奉 是人特 度會山田原造御厨 改神庤 云名号 御厨即号 大神宮司━━(●は解読不明字、いずれも同じもの)

孝徳朝の時世(645年~白雉五年・654年)、天下に「評(こほり)」を立てた時に十郷を分かち度會の山田原に「屯倉」を立て、竹村にも「屯倉」を立てた。同朝の時世に度會の山田原に「御厨(みくりや)」を造り大神宮司とも名付けた…というもの。

この「御厨」が豊受大神宮(外宮)の起源ではないかと思われます。それが記紀編纂時に「離宮」的存在へと変化したものと。



◎「離宮」的存在から「等由気宮」へ

続紀の神護景雲元年(767年)八月癸巳の条に以下の記載があります。

━━今年六月十六日申時 東南之角 当甚奇麗雲七色相交立登在 此朕自見行 又侍諸人等共見 怪喜在間 伊勢国守従五位下阿倍朝臣東人等奏 六月十七日度会郡 等由気宮上当 五色瑞雲起覆在━━

今年の六月十七日に等由気宮の上空が五色の瑞雲で覆われた…というもの。これが豊受大神宮の国史初見とされています。

これ等の件があったので「神護景雲」へと改元したとあります。
この時には「離宮」的存在から「等由気宮」という単体の神社へと変貌を遂げていたことが窺えます。



◎雄略天皇の時制

豊受大神宮(外宮)の始まりや変化が見えてきました。ではなぜ「雄略天皇二十二年」に鎮祭したと伝えたのか。それを探っていきます。

先ずはその頃どんなことがあったのか。

雄略天皇は暴君として記紀に描かれます。その是非はさておき、専制君主であり、その為の手段は選ばなかった…それが史実でしょうか次々とライバルを殺め即位したというのは史実のように思います。またそれまでの有力豪族たちの合議制で成り立っていたのを、天皇を中心とした専制政治に改めたと評価されます。

古墳時代中期以降は朝鮮半島との外交が盛んになりましたが、雄略朝では日本と密な関係であった百済を高句麗が滅ぼすという大きな事件が起こっています。

そのようなご時世の中、創建されたり遷座等があった神社も多かったようです。以下、Wikiから拾ったものを挙げてみましょう。

*相模国 寒川神社 … 勅使による奉幣を授かる
*伊勢国 多度大社 … 「多度山」磐座から神霊を遷し社伝造営

*土佐国 大川上美良布神社 … 雄略朝御代に創建

*武蔵国 湯島天神 … 雄略二年創建

*陸奥国 多賀神社 … 雄略二年に神礼祭式を行った

*河内国 恩智神社 … 雄略三年または十四年創建という社伝を有する

*近江国 都久夫須麻神社 … 雄略三年創祀と伝わる

*近江国 岡高神社 … 雄略三年創祀と伝わる

*大和国 往馬坐伊古麻都比古神社 … 雄略三年創建と伝わる

*越前国 鵜甘神社 … 雄略天皇七年を創建とする

*美濃国 白山中居神社 … 雄略九年護国鎮護のため剣奉納

*筑前国 宗像大社 … 雄略九年に勅使差遣の伝承

*甲斐国 金櫻神社 … 雄略十年社殿造営と伝わる

*陸奥国 駒形神社 … 雄略二十一年創建

*山城国 羽束師坐高産日神社 … 雄略二十一年創建

*越後国 川合神社 … 雄略二十二年創建

*相模国 深見神社 … 雄略二十二年創祀

*摂津国 伊射奈岐神社 … 雄略二十三年創祀

*河内国 天照大神高座神社 … 雄略二十三年創建


すべて式内社。これで一例であり、その多さに驚かされます。いずれも具体的な奉幣等を伴ったものとしており、史実である社も多いのではないかと思います。豊受大神宮もこの一つとなります。



[山城国葛野郡] 羽束師坐高産日神社




◎「雄略天皇二十二年」とは


「雄略天皇二十二年」前後に、豊受大神宮に関連する事象、丹後国に関連する事象は、記紀に於いては一つを除きまったくみられません。


その一つが雄略天皇二十二年紀に見えます。

━━(雄略天皇二十二年)秋七月 丹波国餘社郡管川人 瑞江浦嶋子 乘舟而釣 遂得大龜 便化爲女 於是 浦嶋子感以爲婦 相逐入海 到蓬萊山 歷覩仙衆 語在別卷━━

浦嶋子の物語。「浦島太郎」のモデルとなった説話です。
丹波国(当時はまだ丹後国が分離独立していない)餘社郡(與謝郡)「菅川(つつかわ)」の瑞江浦嶋子が舟で釣りをしていると、大亀が現れた。大亀は女へと姿を変えたが、彼は魅入られてしまった。海に入り「蓬萊山」に到り、仙衆(ひじり)を巡り観た。そしてこの物語は別巻にある…というもの。なお「別巻」は現存しません。

これが後に「浦島太郎」物語となったもの。「浦嶋子」は大亀が姿を変えた「乙姫」に連れられ「竜宮城」へ。長い年月を過ごして帰るも村は様変わり。いつの間にか300年以上経過していた。「玉手箱」を空けると太郎も老人に…と。


[丹後国竹野郡] 嶋児神社 浦嶋児(浦島太郎)像


この説話は記には見られません。代わりに「丹後国風土記」逸文に表されます。紀の「別巻」にはこのような掲載があったのでしょうか。

━━与謝郡 日置里 此里有筒川村 此人夫 日下部首等先祖 名云筒川嶼子 爲人 姿容秀美 風流無類 斯所謂 水江浦嶼子者也 是旧宰伊預部馬養連 所記無相乖 故略陳所由之旨 長谷朝倉宮御宇天皇(雄略天皇)御世 嶼子独乘小船 汎出海中爲釣 経三日三夜 不得一魚 乃得五色龜 心思奇異 置于船中即寐 忽爲婦人 其容美麗 更不可比 嶼子問曰 人宅遥遠 海庭人乏 詎人忽來 女娘微咲對曰 風流之士 獨汎蒼海 不勝近談 就風雲來 嶼子復問曰 風雲何處來 女娘答曰 天上仙家之人也 請君勿疑 垂相談之愛 爰嶼子知神女 鎭懼疑心 女娘語曰 賤妾之意 共天地畢 倶日月極 但君奈何 早先許不之意 嶼子答曰 更無所言 何觸乎 女娘曰 君冝廻棹 赴于蓬山 嶼子従往 女娘教令眠目 即不意之間 至海中博大之嶋其地如敷玉 闕臺晻映 樓堂玲瓏 目所不見 耳所不聞 携手徐行 到一太宅之門 女娘曰 君且立此處 開門入内 即七竪子來 亦八竪子來 相語曰 是龜比売之夫也 茲知女 娘之名龜比売 及女娘出來 嶼子語竪子等事 女娘曰 其七竪子者 昴星也 其八竪子者 畢星也 君莫恠焉 即立前引導 進入于内 女娘父母共相迎 揖而定坐 于斯 称説人間仙都之別 談議人神偶曾之嘉 乃薦百品尊味 兄弟姉妹等 擧坏獻酥酬 隣里幼女等 紅顔戯接 仙哥寥亮 神儛逶迤 其爲歡宴 万倍人間 於茲不知日暮 但黄昏之時 群仙侶等 漸々退散 即女娘獨留 雙肩接袖 成夫婦之理 于時嶼子 遺舊俗遊仙都既経三歳 忽起懐土之心 独恋二親故 吟哀繁發  女娘問曰 比來観 君夫之貌 異於常時 白山嶼子對曰 古人言小人懐土 死狐首岳 僕以虚談 今斯信然也 女娘問曰 君欲レ帰乎 嶼子答曰 僕近離親故之俗 遠人神仙之堺 不忍恋眷 輙申軽慮 所望暫還本俗 奉拝二親 女娘拭涙歎曰 意等金石 共期萬歳何眷 郷里棄遺一時 即相携徘徊 相談慟哀 遂 接袂退去 就于岐路於是 女娘父母親族 但悲別送之 女娘取玉匣授嶼子謂曰 君終不遺賎妾 有眷尋者 堅握匣慎莫開見 即相分乗船 仍教令眠目 忽到本土筒川郷 即瞻眺村邑 人物遷易 更無所由 爰問郷人曰 水江浦嶼子之家人 今在何処郷人答曰 君何處人 問舊遠人乎 吾聞古老等曰 先世有水江浦嶼子 独遊蒼海復不還來 今経三百餘歳者 何忽問此乎 即銜棄心 雖廻郷里 不会一親 既逕旬月 乃撫玉匣而感思神女 於是嶼子 忘前日期 忽開玉匣 即未瞻之間 芳蘭之体 率于風雲 翩飛蒼天 嶼子 即乖違期要還知復難会 廻首踟蹰 咽涙徘徊 于斯 拭涙歌曰
 等許余蔽尓 久母多智和多留 美頭能睿能 宇良志麻能古賀 許等母知和多留 神女遥飛
芳音歌曰
 夜麻等蔽尓 加是布企阿義天 久母婆奈禮 所企遠理 等母与 和遠和須良須奈
嶼子更 不勝 恋望歌曰
 古良尓古非 阿佐刀遠比良企 和我遠礼婆 等許与能波麻能 奈美能等企許由
後時人追加歌曰
 美頭能睿能 宇良志麻能古我 多麻久志義 阿気受阿理世波 麻多母阿波麻志遠 等許余蔽尓 久母多智和多留 多由女 久母波都賀米等 和礼曾加奈志企━━

今後のこともあり敢えて原文を掲載しました。現代語訳は以下の記事にて。

「丹後国風土記」逸文に於いて、特に留意されることは以下の4点かと。

*浦嶼子(浦嶋子)は日下部首の先祖である

*乙姫は「亀比売」となっている
*竜宮城は「蓬山」(蓬莱山)となっている
*嶋子が「蓬山」にいた期間は300余年である

この浦嶋子の神話を再現したかの如く社が、丹後国與謝郡「菅川」(筒川庄、現在の与謝郡伊根町本庄浜)に鎮座する宇良神社(浦嶋神社)
これは大変に幸運というべきか、有難いというべきことで、このお社から多くの情報を得ることができます。神社そのもの、由緒沿革、「玉匣」(玉手箱)も現存し、宮司も大変に博識であること。

それ等は次回に回すとしましょうか。長くなってしまったことですし。


[丹後国與謝郡] 宇良神社(浦嶋神社)





今回はここまで。

途中でぶった切る伝統芸能を
またまたやってしまいました。

次回はなる早で上げることにします。



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