からの続きです
ペテロシリーズ#34<iii>
クリスチャンの行動規範 (第一ペテロ2章11-25節)
ロバート・D・ルギンビル博士からの翻訳
主のために、定められたすべての人間の権威に従いなさい(13節):
主のために、定められたすべての人間の権威に従いなさい。
主権者である王に対してであれ……
ここで何よりも重要な点として注目すべきなのは、この文の斜体部分、
すなわち「主のために」です。イエス・キリストを代表する者として、
私たちが主について証しするその証しのためにも、「定められた人間の権威」
に従うことは重要です。[1]
つまり、私たちが権威に従うのは、イエス・キリストのためなのです。
それが主の教会に対する御心です。
第二に、尊重し従わなければならないのは、正当な権威、すなわち個々の信者が
その下で生活している、正式に成立している政府であるという点にも
注意しなければなりません。
それが具体的に何を意味するかについて言えば、歴史上の圧倒的大多数の場合、
信者がどこに住んでいようとも、そこで実際に権力を行使している政府が、
まさに「定められた人間の権威」であると言って差し支えないでしょう。
そして、そのような正式に成立している権威が存在するところでは、
それは……神によって立てられているのです。
(1) すべての人は、[すべての]上に立つ権威に従いなさい。
神によって[立てられた]のでない権威は存在しないからである。
そして、存在している権威も[また]神に服している。
(2) したがって、[定められた]権威に逆らう者は、
神が[秩序立てて]定められたものに逆らっているのであり、
そのようにする者たちは、自らの上に裁きを招くことになる。
(3) 支配者たちは、善い行いをする者を恐れさせて
思いとどまらせるために存在するのではなく、
むしろ悪い行いをする者のために存在するからである。
それでは、あなたは権威を恐れずにいたいと思うか。
それなら善を行いなさい。そうすれば、彼らから称賛を受けるであろう。
(4) 彼らはあなたの益のために、あなたのために神に仕えている者だからである。
しかし、もし悪を行うなら、恐れなさい。
彼らが処罰する権力(文字どおりには「剣」)を与えられているのは、
理由のないことではないからである。
彼らは、悪を行う者に厳しい報復を加えることによって、神に仕えているのである。
(5) したがって、この厳しい処罰のためだけでなく、
良心のためにも、権威に従う必要がある。
パウロがこの手紙を書いた当時、彼が従っていた「定められた人間の権威」は、
すでに何度も彼を不当に投獄し、虐待していました。
そして間もなく、それ以上のことを彼に行い、最終的には彼を不当に処刑することになります。
このことを考えれば、この箇所の意味はこれ以上ないほど明白です。
たとえ政府が、私たちが望む正義の基準にはるかに及ばないとしても、
そのことだけを理由に、その政府は神が立てられた権威ではない、と考えることはできません。
では、政府がどれほど悪くなれば、信者は神からそれに従わないことを許されるのでしょうか。
スミルナの教会時代は、その全期間にわたって迫害の影の下にあり、
十の長期にわたる「艱難」の時期がありました。(黙示録2章10節)
しかも、これらの信者たちは、単に機能不全に陥った政府や
専制的な政府の犠牲者だったのではありません。
彼らは、キリスト者であるというだけの理由で実際に迫害されたのです。
それに対して、私たちの主は彼らに何と言われたでしょうか。
「死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、いのちの冠を与えよう」。
彼らに命じられたのは、苦しみの中を忍耐し、降りかかってくるものに耐えることであって、
それに抵抗したり、ましてそこから逃げたりすることではありませんでした。
もちろん、これらの信者たちは信仰を捨てたわけではなく、
祈りや聖書の教えやキリスト者としての奉仕をやめたわけでもありませんでした。
まさにそれらのことが彼らをキリスト者として明らかにし、迫害を招いたのです。
また、ローマの法廷に引き出されたとき、キリストへの信仰を撤回して
皇帝を礼拝することもしませんでした。
そのため、多くの者が地上の命を失いました。
しかし、それによって彼らの永遠の命は確かなものとされ、
真の殉教に伴う報いも与えられたのです。
このことや聖書の他の例から、この服従の命令は、
(聖書の他の箇所でも繰り返されています。例えばテトス3章1節)
私たちが、命じられていることを行うのをやめるよう要求するものではないと言えます。
(ダニエルが祈ることをやめず、使徒たちが福音を伝えることをやめなかったように:
また、禁じられていることを行うよう要求するものでもありません。
(ダニエルの三人の友人たちがそうすることを拒んだように:ダニエル3章1節以下)
しかしこの命令は、明らかに「神によって立てられた」政府に対して
武器を取って立ち向かうことを、私たちに禁じています。
悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるために、神によって遣わされた者として(14節):
……あるいは、[その他の]統治者たちに従いなさい。
彼らは、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるために、
神によって遣わされた者だからである。
政府が、そしてさらに受け入れにくいことには政府の役人たちまでもが、
すべて「神によって遣わされた」と考えることは、歴史を多少なりとも読んだことのある人や、
人生経験をある程度積んだ人にとっては、受け入れがたいことに思えるかもしれません。
しかし、この言葉の率直な意味を文字どおりに受け取るべきであることは、
先に引用したローマ人への手紙におけるパウロの同様の言葉からも明らかです。
(ローマ13章1-5節; テトス3章1節参照)
その箇所の第1節でパウロが述べているように、
「神によって[立てられた]のでない権威は存在しない」のであり、
その直後には「存在している権威も[また]神に服している」とあります。
つまり、権威を持つ者が何らかの不正を行ったとしても、
それについて最終的な判断や裁きを下すのは私たちではありません。
その権限は究極の裁き主である神に属しているからです。
これは、どの政府や政府の役人にとっても恐るべき事実として受け止めるべきものです――
少なくとも、そうであるはずです。
同時にこれは、定められた権威によって不当な扱いを受けたり、虐待されたり、
さらには迫害されたりするとき、信者に慰めを与えるためのものでもあります。
実際にすべてを支配しておられるのは神であり、
神が私たちの正しさを明らかにしてくださるからです――
私たち自身が愚かにも、自分の正しさを自力で証明しようとしさえしなければ、です。
したがって、[定められた]権威に逆らう者は、
神が[秩序立てて]定められたものに逆らっているのであり、
そのようにする者たちは、自らの上に裁きを招くことになります。
(ローマ13章2節)
この原則は、犯罪者に対して自衛する権利が私たちにないという意味ではありません。
(イエスは、その目的のために剣を携えるよう弟子たちに言われました:ルカ22章36節)
また、不当な訴追から自分を守るために合法的な手段を用いることが許されない
という意味でもありません。(パウロ自身、確かにそうしました。例えば使徒行伝25章11節)
しかしこれは、定められた権威が私たちに行うよう命じることには従い、
(例えば、税金を納めること:マタイ22章17-21節; ローマ13章6-7節)
行わないよう命じることは行わない、(マタイ26章52節; テトス3章1節; 第一ペテロ4章15-16節)
という原則が絶対的なものであることを意味しています。
神よ、立ち上がって地を裁いてください。
あなたはすべての国々を受け継がれるからです。 (詩篇82篇1-8節参照)
たとえ権威が完全とはほど遠いものであっても、それに従うというこの命令を受け入れるために
信者が身につけるべき、いわば「感情面での鎧」の大きな部分を成すのは、
神が実際にすべてを支配しておられるという確実で揺るぎない認識です。
そこには、神が用い、導いておられるこれらの中間的な手段も含まれており、
それらは、自覚しているかどうかにかかわらず、神に対して責任を負っています。
私たちは、神が自由意志を許しておられる以上、欠点のある人間が欠点のある制度を生み出し、
その制度が非常に不完全な仕方で機能することは避けられない、
ということを覚えておかなければなりません。
しかし神は常に私たちの最善を心にかけておられ、その予知と完全な摂理によって、
私たちのために必要なものを備えてくださっています。
さらに、私たちが従っている制度が「機能不全」に陥ったときにも、
神が私たちを守ってくださり、不当な扱いを受けたときには、
私たちの正しさを明らかにしてくださることも確信できます。
悪しき者は正しい者を待ち伏せし、彼を殺そうとねらっている。
しかし主は、彼を悪しき者の手に任せず、裁判にかけられるときにも
罪に定められるままにはされない。
(詩篇37篇32-33節 /NIV訳)
「あなたを攻めるために造られる武器は、どれも成功することはなく、
裁きの場であなたを訴えるすべての舌を、あなたは退ける。
これが主のしもべたちの受け継ぐもの、わたしから受ける彼らの正しさの証明である」
と主は言われる。
(イザヤ54章17節 /NIV訳)
愛する者たちよ、自分で復讐してはいけません。
むしろ、御怒りに任せなさい。こう書かれているからです。
「復讐はわたしのもの、わたしが報いる」と主は言われる。
(ローマ12章19節 /NKJV訳)
信者はまた、完全な正義がやがて実現するということを、
しっかり心に留めておく必要があります。
私たちの主が再臨された後の千年王国において、主の王国は完全な義の王国となり、
正義は適切な時に完全な形で執行され、私たちもその統治において重要な役割を担うという
祝福にあずかることになります。(イザヤ32章1-2節; 黙示録2章27節, 3章21節)
主よ、怒りをもって立ち上がり、私の敵の激しい怒りに立ち向かってください。
わが神よ、目を覚まし、正義を定めてください。
(詩篇7篇6節 /NIV訳)
「神よ、あなたの御座(すなわちメシヤの御座:へブル1章8節参照)は世々限りなく続き、
正義の杖があなたの王国の杖となる」。
(詩篇45篇6節 NIV訳; 参照:詩篇71篇1-2節, 89篇14節, 97篇2節)
彼(すなわちメシヤ)の統治と平和の偉大さには終わりがない。
彼はダビデの王座に着き、その王国を治め、その時から永遠に至るまで、
正義と義をもってこれを確立し、支える。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
(イザヤ9章7節 /NIV訳)
しかし彼(すなわちメシヤ)は、義をもって貧しい者を裁き、
正義をもって地の困窮する者たちのために判決を下す。
彼はその口の杖をもって地を打ち、その唇の息をもって悪しき者を殺す。
(イザヤ11章4節 /NIV訳)
愛によって一つの王座が堅く立てられ、真実をもって一人の人(すなわちメシヤ)が
その上に座する――ダビデの家から出た者であり、
裁きにおいて正義を求め、義を速やかに実現する者である。
(イザヤ16章5節 /NIV訳)
彼(すなわちメシヤ)は、裁きの座に着く者には正義の霊となり、
門で戦いを押し返す者たちには力の源となる。
(イザヤ28章6節 /NIV訳)
見よ、一人の王(すなわちメシヤ)が義をもって治め、
支配者たちは正義をもって統治する。
(イザヤ32章1節 /NIV訳)
主は高く上げられている。
主は高き所に住まわれ、シオンを正義と義で満たされる。
(イザヤ33章5節 /NIV訳)
「見よ、わたしが支えるわたしのしもべ(すなわちメシヤ)、
わたしの喜ぶ、わたしの選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は諸国民に正義をもたらす」。
(イザヤ42章1節 /NIV訳)
「わたしの義は速やかに近づき、わたしの救いは途上にあり、
わたしの腕(すなわちメシヤ)は諸国民に正義をもたらす」。
(イザヤ51章5節前半 /NIV訳)
私たちの主の千年王国においては、支配権を握っている権威が正当であり、
神によって立てられたものであるという事実について、疑いの余地はまったくありません。
神の御子が完全な義をもって統治し、完全な正義を執行されるからです。
そして、その完全な統治の祝福は、それ以前のあらゆる人間の政府――
とりわけ、その直前に存在する反キリストの政府(それは最悪のものとなります)――
とは鮮明な対照をなすことになります。
しかし、悪(艱難期における反キリストの全世界的支配)と
善(キリストが統治し、私たちもキリストと共に千年間統治する千年王国)というように、
物事がいつもこれほど明白に区別できるわけではないことも事実です。
さらに、人類の歴史には、信者が互いに競合する複数の統治体制の下に置かれる場合があります。
この国における独立革命と南北戦争は、その二つの例です。
また、ある政府が別の政府に取って代わられつつある国や、国内あるいは国外の勢力によって
そのような交代の脅威にさらされている国でも、しばしば同じことが起こるのを見ることができます。
このような状況は、人類の歴史において決して珍しいものではありませんが、
一方で「通常の状態」でもなく、そのため聖書でも直接取り扱われてはいません。
そのような場合には、どちらが正当な権威であり、どちらがそうでないかを、
個々の信者自身が判断しなければならないこともあります。
多くの場合、政権の交代は比較的速やかに起こり、新しい体制に適応するだけで済むでしょう。
しかし時には、現在権力を行使している集団と、それに取って代わろうとする集団との間で、
ある程度長期にわたる争いが続く場合もあります。
そのような時、状況によって否応なく一方または他方の大義に加わるよう迫られた信者が、
具体的にどうすべきかは、良心の問題です。
そして、そのような多くの場合、(例えば、上に挙げた二つの例のような場合)
現状の体制を選ぶ者であれ、それに代わるとされる体制を選ぶ者であれ、
その人個人の事情を知らないまま、一方を全面的に非難することは間違いでしょう。
しかし、確実に言えることがあります。
それは、聖書が求めている合法的な服従の範囲を越えて、何らかの政治運動を積極的に
支持する場合、信者はその選択がもたらし得る結果を、曇りのない目で
十分に見極める必要があるということです。
そのような選択は、勇気ある立派なものである場合も十分にあり得ますし、
倫理的・道徳的にも間違いとは言えない場合さえあるでしょう。
しかし、それが自分自身、自分の家族、
そして自分の国に重大な結果をもたらさずに済むことは、ほとんどありません。
また、「選ばない」ということも一つの選択であり、
そのために臆病だとの非難を受ける危険があるかもしれません。
それでも信者は、どれほどその時には避けることのできない必要な決断に思えたとしても、
そのような大義に身を投じる前に、私たちがなぜこの地上にいるのか、
そして何よりもまず、私たちが誰の大義に仕えているのかを思い起こす必要があります。
[1] ここで本文が何を意味しているかについては、疑問の余地はありません。
というのも、ギリシヤ語の動詞 hypotasso(ヒュポタッソー)は、
へブル12章9節、ヤコブ4章7節で神に従うことについて用いられているのと同じ語であり、
またエペソ5章24節では、主イエス・キリストの花嫁として
主に従うことについて用いられているからです。
さらに、この動詞は語源的には軍事的な背景を持つ言葉であり、
軍隊では不服従が許容される余地はほとんどありません。
この語には、これから行われる作戦に備えて隊列に加わり、命令に従うという意味合いがあります。(ローマ13章1節, 13章5節; テトス3章1節でも同じ動詞が用いられています)
#34<iv> に続く![]()
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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想のある方は、
shizuku365@proton.meまでご連絡ください。
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だれをもそしらず、争わず、寛容であって、
すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、
思い出させなさい。
(テトス3:2)
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昨日、曇天から雲が切れて晴れ間に
空は忙しそうに動いているね
イチジクの実が生っていたよ![]()
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くろちゃん、雨降り前に会いに来てくれたの![]()
気をつけて帰るのよ
また来てね![]()
今日もありがとう~![]()
















