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sarah‐mercy

イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

からの続きです

 

ペテロシリーズ#34<iii> 

 

クリスチャンの行動規範  (第一ペテロ2章11-25節) 

                                                                                                ロバート・D・ルギンビル博士からの翻訳 

 

主のために、定められたすべての人間の権威に従いなさい(13節): 

 

 主のために、定められたすべての人間の権威に従いなさい。

 主権者である王に対してであれ……

第一ペテロ2章13節) 

 

ここで何よりも重要な点として注目すべきなのは、この文の斜体部分、

すなわち「主のために」です。イエス・キリストを代表する者として、

私たちが主について証しするその証しのためにも、「定められた人間の権威」

に従うことは重要です。[1] 

つまり、私たちが権威に従うのは、イエス・キリストのためなのです。

それが主の教会に対する御心です。

 

第二に、尊重し従わなければならないのは、正当な権威、すなわち個々の信者が

その下で生活している、正式に成立している政府であるという点にも

注意しなければなりません。

それが具体的に何を意味するかについて言えば、歴史上の圧倒的大多数の場合、

信者がどこに住んでいようとも、そこで実際に権力を行使している政府が、

まさに「定められた人間の権威」であると言って差し支えないでしょう。

そして、そのような正式に成立している権威が存在するところでは、

それは……神によって立てられているのです。 

 

(1) すべての人は、[すべての]上に立つ権威に従いなさい。

 神によって[立てられた]のでない権威は存在しないからである。

 そして、存在している権威も[また]神に服している。

(2) したがって、[定められた]権威に逆らう者は、

 神が[秩序立てて]定められたものに逆らっているのであり、

 そのようにする者たちは、自らの上に裁きを招くことになる。

(3) 支配者たちは、善い行いをする者を恐れさせて

 思いとどまらせるために存在するのではなく、

 むしろ悪い行いをする者のために存在するからである。

 それでは、あなたは権威を恐れずにいたいと思うか。

 それならを行いなさい。そうすれば、彼らから称賛を受けるであろう。

(4) 彼らはあなたの益のために、あなたのために神に仕えている者だからである。

 しかし、もしを行うなら、恐れなさい。

 彼らが処罰する権力(文字どおりには「剣」)を与えられているのは、

 理由のないことではないからである。

 彼らは、を行う者に厳しい報復を加えることによって、神に仕えているのである。

(5) したがって、この厳しい処罰のためだけでなく、

 良心のためにも、権威に従う必要がある。

ローマ13章1-5節) 

 

パウロがこの手紙を書いた当時、彼が従っていた「定められた人間の権威」は、

すでに何度も彼を不当に投獄し、虐待していました。

そして間もなく、それ以上のことを彼に行い、最終的には彼を不当に処刑することになります。

このことを考えれば、この箇所の意味はこれ以上ないほど明白です。

たとえ政府が、私たちが望む正義の基準にはるかに及ばないとしても、

そのことだけを理由に、その政府は神が立てられた権威ではない、と考えることはできません。 

 

では、政府がどれほど悪くなれば、信者は神からそれに従わないことを許されるのでしょうか

スミルナの教会時代は、その全期間にわたって迫害の影の下にあり、

十の長期にわたる「艱難」の時期がありました。黙示録2章10節

しかも、これらの信者たちは、単に機能不全に陥った政府や

専制的な政府の犠牲者だったのではありません。

彼らは、キリスト者であるというだけの理由で実際に迫害されたのです。

それに対して、私たちの主は彼らに何と言われたでしょうか。

「死に至るまで忠実でありなさい。

 そうすれば、いのちの冠を与えよう」

 

彼らに命じられたのは、苦しみの中を忍耐し、降りかかってくるものに耐えることであって、

それに抵抗したり、ましてそこから逃げたりすることではありませんでした。

もちろん、これらの信者たちは信仰を捨てたわけではなく、

祈りや聖書の教えやキリスト者としての奉仕をやめたわけでもありませんでした。

まさにそれらのことが彼らをキリスト者として明らかにし、迫害を招いたのです。

 

また、ローマの法廷に引き出されたとき、キリストへの信仰を撤回して

皇帝を礼拝することもしませんでした。

そのため、多くの者が地上の命を失いました。

しかし、それによって彼らの永遠の命は確かなものとされ、

真の殉教に伴う報いも与えられたのです。

 

このことや聖書の他の例から、この服従の命令は、

(聖書の他の箇所でも繰り返されています。例えばテトス3章1節

私たちが、命じられていることを行うのをやめるよう要求するものではないと言えます。

(ダニエルが祈ることをやめず、使徒たちが福音を伝えることをやめなかったように:

ダニエル6章1節以下; 使徒行伝4章18-20節

また、禁じられていることを行うよう要求するものでもありません。

(ダニエルの三人の友人たちがそうすることを拒んだように:ダニエル3章1節以下

しかしこの命令は、明らかに「神によって立てられた」政府に対して

武器を取って立ち向かうことを、私たちに禁じています。 

 

悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるために、神によって遣わされた者として(14節): 

 

 ……あるいは、[その他の]統治者たちに従いなさい。

 彼らは、を行う者を罰し、を行う者をほめるために、

 神によって遣わされた者だからである。

第一ペテロ2章14節) 

 

政府が、そしてさらに受け入れにくいことには政府の役人たちまでもが、

すべて「神によって遣わされた」と考えることは、歴史を多少なりとも読んだことのある人や、

人生経験をある程度積んだ人にとっては、受け入れがたいことに思えるかもしれません。

しかし、この言葉の率直な意味を文字どおりに受け取るべきであることは、

先に引用したローマ人への手紙におけるパウロの同様の言葉からも明らかです。

ローマ13章1-5節; テトス3章1節参照)

その箇所の第1節パウロが述べているように、

「神によって[立てられた]のでない権威は存在しない」のであり、

その直後には「存在している権威も[また]神に服している」とあります。

つまり、権威を持つ者が何らかの不正を行ったとしても、

それについて最終的な判断や裁きを下すのは私たちではありません。

その権限は究極の裁き主である神に属しているからです。

これは、どの政府や政府の役人にとっても恐るべき事実として受け止めるべきものです――

少なくとも、そうであるはずです。

同時にこれは、定められた権威によって不当な扱いを受けたり、虐待されたり、

さらには迫害されたりするとき、信者に慰めを与えるためのものでもあります。

実際にすべてを支配しておられるのは神であり、

神が私たちの正しさを明らかにしてくださるからです――

私たち自身が愚かにも、自分の正しさを自力で証明しようとしさえしなければ、です。 

 

 したがって、[定められた]権威に逆らう者は、

 神が[秩序立てて]定められたものに逆らっているのであり、

 そのようにする者たちは、自らの上に裁きを招くことになります。

ローマ13章2節) 

 

この原則は、犯罪者に対して自衛する権利が私たちにないという意味ではありません。

(イエスは、その目的のために剣を携えるよう弟子たちに言われました:ルカ22章36節

また、不当な訴追から自分を守るために合法的な手段を用いることが許されない

という意味でもありません。(パウロ自身、確かにそうしました。例えば使徒行伝25章11節

しかしこれは、定められた権威が私たちに行うよう命じることには従い、

(例えば、税金を納めること:マタイ22章17-21節; ローマ13章6-7節

行わないよう命じることは行わない、マタイ26章52節; テトス3章1節; 第一ペテロ4章15-16節

という原則が絶対的なものであることを意味しています。 

 

  神よ、立ち上がって地を裁いてください。 

 あなたはすべての国々を受け継がれるからです。 (詩篇82篇1-8節参照) 

 

たとえ権威が完全とはほど遠いものであっても、それに従うというこの命令を受け入れるために

信者が身につけるべき、いわば「感情面での鎧」の大きな部分を成すのは、

神が実際にすべてを支配しておられるという確実で揺るぎない認識です。

そこには、神が用い、導いておられるこれらの中間的な手段も含まれており、

それらは、自覚しているかどうかにかかわらず、神に対して責任を負っています。

私たちは、神が自由意志を許しておられる以上、欠点のある人間が欠点のある制度を生み出し、

その制度が非常に不完全な仕方で機能することは避けられない、

ということを覚えておかなければなりません。

しかし神は常に私たちの最善を心にかけておられ、その予知と完全な摂理によって、

私たちのために必要なものを備えてくださっています。

さらに、私たちが従っている制度が「機能不全」に陥ったときにも、

神が私たちを守ってくださり、不当な扱いを受けたときには、

私たちの正しさを明らかにしてくださることも確信できます。 

 

  悪しき者は正しい者を待ち伏せし、彼を殺そうとねらっている。

 しかし主は、彼を悪しき者の手に任せず、裁判にかけられるときにも

 罪に定められるままにはされない。

詩篇37篇32-33節 /NIV訳) 

 

 「あなたを攻めるために造られる武器は、どれも成功することはなく、

 裁きの場であなたを訴えるすべての舌を、あなたは退ける。

 これが主のしもべたちの受け継ぐもの、わたしから受ける彼らの正しさの証明である」

 と主は言われる。

イザヤ54章17節 /NIV訳) 

 

 愛する者たちよ、自分で復讐してはいけません。

 むしろ、御怒りに任せなさい。こう書かれているからです。

 「復讐はわたしのもの、わたしが報いる」と主は言われる。

ローマ12章19節 /NKJV訳) 

 

信者はまた、完全な正義がやがて実現するということを、

しっかり心に留めておく必要があります。

私たちの主が再臨された後の千年王国において、主の王国は完全な義の王国となり、

正義は適切な時に完全な形で執行され、私たちもその統治において重要な役割を担うという

祝福にあずかることになります。イザヤ32章1-2節; 黙示録2章27節, 3章21節) 

 

 主よ、怒りをもって立ち上がり、私の敵の激しい怒りに立ち向かってください。

 わが神よ、目を覚まし、正義を定めてください。

詩篇7篇6節 /NIV訳) 

 

 「神よ、あなたの御座(すなわちメシヤの御座:へブル1章8節参照)は世々限りなく続き、

 正義の杖があなたの王国の杖となる」。

(詩篇45篇6節 NIV訳;  参照:詩篇71篇1-2節, 89篇14節, 97篇2節) 

 

 (すなわちメシヤの統治と平和の偉大さには終わりがない。

 彼はダビデの王座に着き、その王国を治め、その時から永遠に至るまで、

 正義とをもってこれを確立し、支える。

 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

イザヤ9章7節 /NIV訳) 

 

 しかし彼(すなわちメシヤは、をもって貧しい者を裁き、

 正義をもって地の困窮する者たちのために判決を下す。

 彼はその口の杖をもって地を打ち、その唇の息をもって悪しき者を殺す。

イザヤ11章4節 /NIV訳) 

 

 愛によって一つの王座が堅く立てられ、真実をもって一人の人(すなわちメシヤ

 その上に座する――ダビデの家から出た者であり、

 裁きにおいて正義を求め、を速やかに実現する者である。

(イザヤ16章5節 /NIV訳) 

 

 (すなわちメシヤは、裁きの座に着く者には正義の霊となり、

 門で戦いを押し返す者たちには力の源となる。

(イザヤ28章6節 /NIV訳) 

 

 見よ、一人の王(すなわちメシヤをもって治め、

 支配者たちは正義をもって統治する。

(イザヤ32章1節 /NIV訳) 

 

 主は高く上げられている。

 主は高き所に住まわれ、シオンを正義と義で満たされる。

(イザヤ33章5節 /NIV訳) 

 

 「見よ、わたしが支えるわたしのしもべ(すなわちメシヤ)

 わたしの喜ぶ、わたしの選んだ者。

 わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は諸国民に正義をもたらす」。

イザヤ42章1節 /NIV訳) 

 

 「わたしのは速やかに近づき、わたしの救いは途上にあり、

 わたしの腕(すなわちメシヤ)は諸国民に正義をもたらす」。

イザヤ51章5節前半 /NIV訳) 

 

私たちの主の千年王国においては、支配権を握っている権威が正当であり、

神によって立てられたものであるという事実について、疑いの余地はまったくありません。

神の御子が完全な義をもって統治し、完全な正義を執行されるからです。

そして、その完全な統治の祝福は、それ以前のあらゆる人間の政府――

とりわけ、その直前に存在する反キリストの政府(それは最悪のものとなります)――

とは鮮明な対照をなすことになります。 

 

しかし、(艱難期における反キリストの全世界的支配)

キリストが統治し、私たちもキリストと共に千年間統治する千年王国)というように、

物事がいつもこれほど明白に区別できるわけではないことも事実です。

さらに、人類の歴史には、信者が互いに競合する複数の統治体制の下に置かれる場合があります。

この国における独立革命と南北戦争は、その二つの例です。

また、ある政府が別の政府に取って代わられつつある国や、国内あるいは国外の勢力によって

そのような交代の脅威にさらされている国でも、しばしば同じことが起こるのを見ることができます。

このような状況は、人類の歴史において決して珍しいものではありませんが、

一方で「通常の状態」でもなく、そのため聖書でも直接取り扱われてはいません。

そのような場合には、どちらが正当な権威であり、どちらがそうでないかを、

個々の信者自身が判断しなければならないこともあります。

多くの場合、政権の交代は比較的速やかに起こり、新しい体制に適応するだけで済むでしょう。

しかし時には、現在権力を行使している集団と、それに取って代わろうとする集団との間で、

ある程度長期にわたる争いが続く場合もあります。 

 

そのような時、状況によって否応なく一方または他方の大義に加わるよう迫られた信者が、

具体的にどうすべきかは、良心の問題です。

そして、そのような多くの場合、(例えば、上に挙げた二つの例のような場合)

現状の体制を選ぶ者であれ、それに代わるとされる体制を選ぶ者であれ、

その人個人の事情を知らないまま、一方を全面的に非難することは間違いでしょう。

 

しかし、確実に言えることがあります。

それは、聖書が求めている合法的な服従の範囲を越えて、何らかの政治運動を積極的に

支持する場合、信者はその選択がもたらし得る結果を、曇りのない目で

十分に見極める必要があるということです。

そのような選択は、勇気ある立派なものである場合も十分にあり得ますし、

倫理的・道徳的にも間違いとは言えない場合さえあるでしょう。

しかし、それが自分自身、自分の家族、

そして自分の国に重大な結果をもたらさずに済むことは、ほとんどありません。

 

また、「選ばない」ということも一つの選択であり、

そのために臆病だとの非難を受ける危険があるかもしれません。

それでも信者は、どれほどその時には避けることのできない必要な決断に思えたとしても

そのような大義に身を投じる前に、私たちがなぜこの地上にいるのか、

そして何よりもまず、私たちが誰の大義に仕えているのかを思い起こす必要があります。 

 


[1] ここで本文が何を意味しているかについては、疑問の余地はありません。

というのも、ギリシヤ語の動詞 hypotasso(ヒュポタッソー)は、

へブル12章9節ヤコブ4章7節で神に従うことについて用いられているのと同じ語であり、

またエペソ5章24節では、主イエス・キリストの花嫁として

主に従うことについて用いられているからです。

さらに、この動詞は語源的には軍事的な背景を持つ言葉であり、

軍隊では不服従が許容される余地はほとんどありません。

この語には、これから行われる作戦に備えて隊列に加わり、命令に従うという意味合いがあります。(ローマ13章1節, 13章5節; テトス3章1節でも同じ動詞が用いられています) 

 

#34<iv> に続く下差し

 

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 だれをもそしらず、争わず、寛容であって、

すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、

思い出させなさい。

(テトス3:2)

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昨日、曇天から雲が切れて晴れ間に

空は忙しそうに動いているね

 

 

 

イチジクの実が生っていたよピンク音符

 

 

 

 

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黒猫あたまくろちゃん、雨降り前に会いに来てくれたのはてなマーク

気をつけて帰るのよ

また来てねおいで

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

ペテロシリーズ#34<ii> 

 

クリスチャンの行動規範  (第一ペテロ2章11-25節) 

                                                                                               ロバート・D・ルギンビル博士からの翻訳 

 

異邦人の中でのあなたがたの生活のあり方(12節): 

 

 異邦人(すなわち、不信者)の中で、あなたがたの生活のあり方を

 [道徳的に]良いものに保ちなさい。

 それは、彼らがあなたがたを悪を行う者としてそしっていても、

 あなたがたの良い行い(すなわち、生活と実を結ぶ働き)を目にする時、

 訪れの日には神に栄光を帰するようになるためである。

第一ペテロ2章12節) 

 

前の節で、聖別された生活を送ることは、私たち自身の救い霊的成長

そして報いという観点から見て、良いことであり、また必要なことであるという事実を

示した後、ペテロは次にこの原則をさらに広げ、私たちが行うこと――

どのように考え、語り、行動するか――は、親しい関係にある人であれ、

わずかに接触するだけの人であれ、私たちの周囲にいるすべての人にも

大きな影響を及ぼすことを思い起こさせています。

 

結局のところ、私たちは目に見えない大きな戦いのただ中にいるのであり、

この世において、決して何ものにも拘束されない自由な存在ではありません。

悪い行いは、私たち自身に悪影響を及ぼすだけでなく、私たちが接するすべての人にも

悪い影響を及ぼす可能性があります。ローマ2章24節

ですから、主を不快にさせる悪い模範となるのではなく、良い模範となるよう努めるべきです。

それは、単に私たち自身の益がかかっているからだけではありません。

(もちろん、それも確かに重要です。悪い面では懲らしめを避けるということだけでなく、

「神を喜ばせる」者たちに与えられる、今この時における、また永遠における、

あらゆる良いもののためでもあります:へブル11章5-6節

それだけでなく、

私たちの周囲にいるすべての人に益をもたらす可能性があるからでもあります。

まず信者たちに対してガラテヤ6章10節)、そしてまた、私たちを見ているかもしれない

不信者たちに対してもそうです。第一コリント9章22節

結局のところ、もし私たちが本当に、隣人や同僚が救われ、彼らと共に「訪れの日」

喜ぶことができるようになることを願っているなら、

(すなわち、彼らが私たちの模範に応答するなら、その日、罪に定めるためではなく、

報いを定めるための裁きを受けることになるのです)

私たちのクリスチャンとしての証しを損なうものは取り除き、

その代わりに、神にかなった仕方で彼らの前に私たちの光を輝かせるよう努めるべきなのです。 

 

 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。

 人々があなたがたの良い行いを見て、

 天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためである。」

マタイ5章16節) 

 

主がここで用いておられる、上で強調したこの表現は、

ペテロが今私たちが考察している節で用いているものと同じです。

すなわち、「良い行い」(ギリシヤ語:カラ・エルガkala erga / καλὰ ἔργα)です。

この表現は広く誤解されているため、ここで説明しておくことが適切でしょう。

 

「行い」とは、私たちが考えること、語ること、行うこと、そのすべてを指しています。

最後の裁きにおいて、不信者たちは「それぞれ自分の行いに応じて」評価されます。

黙示録20章12-13節

これは明らかに、彼らの人生全体に対する徹底した吟味を意味しています。

広く流布している見解や神学的な推測とは異なり、

この裁きは、彼らの罪が永遠の命を妨げていることを証明するためのものではありません。

キリストはすべての罪のために死なれたのであり、

この裁きは罪そのものについての裁きではないのです。

不信者たちは、自分たちが「行った」どのようなことも、救いを受ける根拠としては

十分ではなかったことを、余すところなく詳細に示されることになります。

言い換えれば、彼らの「行い」のうち、真に「良い」と呼べるものは一つもなかったことが、

疑いの余地なく明らかにされるのです。

なぜなら、彼らがこれまで「行った」いかなることも、聖霊の力によって

行われたものではなかったからです。 

 

イエスは答えて言われた。

「神のわざとは、神がお遣わしになった者を信じることである。

ヨハネ6章29節) 

 

私たちがまず、神から行うように召された土台となる「わざ」

すなわち救いのためにイエス・キリスト信仰を置くという「わざ」「行って」はじめて、

私たちは信者となり、その後はじめて「良い行い」をすることができるようになります。

 

不信者の行うすべてのわざは、必然的に「汚れた衣」のようなものです。イザヤ64章6節

なぜなら、そもそもそれらは、イエス・キリストの御名によって神の栄光のために、

神の御霊によって行われたものではないからです。

不信者の行うことは何一つ「神を喜ばせる」ことができません。

(例えば、第一コリント12章3節

神の目に「良い」とされる行いをすることができるのは、信者だけです。

したがって、不信者の行うことは、私たちの目にはどれほど犠牲的で立派に見えたとしても、

キリストへの信仰がなければ、決して救いをもたらすことはできません。 

 

(30) では、何と言うべきか。を追い求めなかった異邦人はを得た。

それは信仰による義である。

(31) しかし、に至る道として律法を追い求めたイスラエルの民は、

 その目標に達しなかった。

(32) なぜか。それは、彼らが信仰によってではなく、

 あたかも行いによるかのようにそれを追い求めたからである。

 彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

ローマ9章30-32節/NIV訳) 

 

(8) あなたがたは、キリストへの]信仰を通して[神の]恵みによって救われたのである。

 そして、これはあなたがた自身から出たものではない――神の賜物である。

(9) また、それはあなたがたの行ったことから出たものでもない。

(字義的には「行いからではない」)

 それは、だれも誇ることがないためである。

エペソ2章8-9節) 

 

この問題について多くの混乱が生じているのは、「行いのない信仰は死んでいる」

というヤコブの有名な言葉が誤って理解されていることによります。

ヤコブ2章22節2章26節

しかし、ヤコブが真に「良い行い」について述べていることは、言うまでもないはずです。

それは、神と神の真理に応答している信者だけが生み出すことのできる種類の「行い」であり、

文脈に挙げられているアブラハムとラハブの例がそのことを十分にはっきりと示しています。

ヤコブ2章21-25節

真の信者は皆、神に喜ばれることを考え、語り、行います。

そして、この神にかなった振る舞い、これらの神にかなった「行い」が、

彼らの信仰を証明し、彼らを「義と認める」のです。

 

ペテロがここでこの言葉を用いているのも、まさにこの意味においてです。

私たちがクリスチャンとしてふさわしく振る舞い、神にかなったことを考え、

それが神にかなった行いやわざとなって現れる時、私たちはそのような行動と

神にかなった言葉によって、私たちに敵対する不信者たちの中傷が

事実ではないことを示します。

したがって、不信者たちが私たちについて何を言おうとも、

もし私たちが本当にイエス・キリストが望んでおられるように歩んでいるなら、

そのような中傷にはまったく根拠がありません。

そのために私たちが苦しむとしても、その苦しみは私たちに非のないものであり、

キリストに恥をもたらすのではなく、むしろキリストに栄光をもたらすものとなります。

そして、私たちが真に良い行いを続けるなら、

イエス・キリストのために真実に行ったことは何一つ、永遠の報いを受けずに

終わることはないと確信することができます。

マタイ6章19-21節,10章42節;ガラテヤ6章9-10節;エペソ2章10節) 

 

訪れの日に神に栄光を帰する(12節): 

 

 異邦人(すなわち、不信者)の中で、あなたがたの生活のあり方を

 [道徳的に]良いものに保ちなさい。

 それは、彼らがあなたがたを悪を行う者としてそしっていても、

 あなたがたの良い行い(すなわち、生活と実を結ぶ働き)を目にする時、

 訪れの日には神に栄光を帰するようになるためである。

第一ペテロ2章12節) 

 

聖霊の霊感のもとで、ペテロは、私たちの生活による良い証しがもたらし得る結果を

強調することが重要だと考えていたことは明らかです。

この戦いを正しく、神にかなった仕方で戦う者たちのために主が備えておられる

永遠の報いによって、私たちが動機づけられることは、確かに良いことであり、

ふさわしいことです。[1] 

 

しかし、良い証しが私たち自身にとって有益であるということに加えて、

ペテロはまた、これ――私たち自身の正当で神にかなった益――は、

全体の一部にすぎないことを思い起こさせています。

私たちはまた、私たちを見ている人々の益のため、そして神の栄光のために、

しっかりとしたクリスチャン生活を送るよう動機づけられる必要があります。

イエス・キリストは、私たちと私たちのクリスチャンとしての歩みを見ている

すべての不信者を含め、すべての人のために死なれました。

もし私たちが、不信者たちの世界の中で、語ることと行うことを通して神の光を

本当に輝かせるなら、そして、それが最終的にただ一人でも救われることにつながるなら、

ここでペテロが述べている目的は達成されることになります。

 

すなわち、私たちを知っている人々が救われ、やがてキリストがご自身の教会を

評価される日に、私たちと共に「神に栄光を帰する」者となることです――

なぜなら、彼ら自身も信じる者となったからであり、

それはキリストに栄光をもたらすと同時に、彼らにとって死から命へと

移ることでもあるからです。

それならば、私たちは、主の栄光を求めすべての人の救いを求め、

そして自分自身の永遠の報いを求めるという、この三重の使命があるのですから、

この地上でのごく短い「寄留と旅」の間第一ペテロ2章11節

何の非難も受けることのない良いクリスチャンとしてこの世を歩むよう、

なおさら努めるべきではないでしょうか。

 

私たちには果たすべき重要な使命があります――

実に、これ以上に重要な使命はありません――

そして、私たちの証しに非難をもたらしかねないあらゆるものを避け、

その代わりに、私たちが語ること、行うことのすべてにおいて

イエス・キリストの愛とあわれみを映し出すよう心を配るという、

ここでのペテロの教えに従ってこそ、私たちはこの使命を十分に、

そして首尾よく果たすことができるのです。 

 


[1] 『来たる艱難期』第6部.I.7.「教会の裁きと報い」

<リンク先ファイルの42頁->を参照してください。 

 

#34<iii>に続く下差し

 

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 あなたが知っているとおり、彼においては、

信仰行いと共に働き、

その行いによって信仰が全うされ、ーーー

 

 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、

行いのない信仰も死んだものなのである。

(ヤコブ2:22,26)

 

 

この「行い」とは、

イエス・キリスト信仰を置くという「わざ」「行って」はじめて、

「良い行い」をすることができるという事なのですね

私たち自身の力によってではなく

聖霊の力によって、信じることができますように

お祈りしますお願い

 

 

 

昨日の空

昨夜の雨と今朝の曇天から、急に晴れ間が晴れ

 

 

 

陽が差し込む道を歩くのはやっぱり楽しい音符

暗い道に光が差し込むだけで

輝きだすね✨

 

 

 

 

メダカさん、いるのかなはてなマーク

    *:..。o○☆゚・:,。*

 

 

 

 ちっと、あそびつかれたにゃんにゃー  ゆっくり寝~ハート

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

ペテロシリーズ#34<i> 

 

クリスチャンの行動規範  (第一ペテロ2章11-25節) 

                                                                                               ロバート・D・ルギンビル博士からの翻訳 

 

(11) 愛する者たちよ。私は、この[地上における]寄留者、

  また一時的な滞在者であるあなたがたに勧める。

  あなたがたの[まさに]命に対して戦いを挑んでいる肉の欲望を避けなさい。

(12) 異邦人(すなわち、不信者)の中で、あなたがたの生活のあり方を

 [道徳的に] 良いものに保ちなさい。

  それは、彼らがあなたがたを悪を行う者としてそしっていても、あなたがたの良い行い

 (すなわち、生活と実を結ぶ働き)を目にする時、

  訪れの日には神に栄光を帰するようになるためである。

(13) 主のゆえに、人間によって立てられたあらゆる権威に従いなさい。

   主権者である王にであれ、

(14) また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるために、王を通して遣わされている

 [ほかの]統治者たちにであれ、従いなさい。

(15) なぜなら、善を行うことによって愚かな人々の無知な言葉を封じること、

  これが神の御心だからである。

(16) 自由な者として[生き]なさい。しかし、その自由を悪を覆い隠すための口実として

  用いるのではなく、神のしもべとして[生き]なさい。

(17) すべての人を敬い、[信者たちからなる]兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。

(18) しもべたちよ、十分な敬意をもって主人に従いなさい。

  善良で道理をわきまえた主人にだけでなく、不公平な主人にも従いなさい。

(19) なぜなら、神に対する[清い]良心のゆえに、

  不当に苦しめられて苦難を受けても耐え忍ぶなら、

  それは[神の御前に]喜ばれることだからである。

(20) しかし、罪を犯したために罰を受け、それを耐え忍んだからといって、

  何の誉れがあるだろうか。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、

  それは神に喜ばれることである。

(21) 実に、あなたがたが召されたのは、このためである。

 (すなわち、キリストの苦しみにあずかるためである)

 キリストもまた、あなたがたのために死なれ、

 あなたがたがその足跡に従うように模範を残されたからである。

(22) 「彼は罪を犯さず、その口には何の欺きも見いだされなかった」イザヤ53章9節後半(23) キリストは、そしられても、そしり返さず、苦しめられても、

 脅すことをせず、正しくさばかれる方にご自身をゆだねられた。

(24) キリストご自身が、木の上で、その身に私たちの罪を負われた。

 それは、私たちが罪に対して死に、義のために生きるためである。

 その傷によって、あなたがたはいやされた。

(25) あなたがたは、かつて迷い出た羊のようであったが、

 今は、あなたがたの命の羊飼いであり監督者である方のもとに立ち返ったのである。

第一ペテロ2章11-25節) 

 

序論: 

第二章の前半で、ペテロは救われた後のクリスチャン生活を説明するために、

三つのたとえを示しました。

乳を飲むことは、霊的成長のために真理を取り入れることに相当し、

岩の上に家を建てることは、イエス・キリストとの関係において霊的に前進していくことに

相当し、そして、私たちがその一員とされた王なる祭司職は、私たち全員が召されている、

主のために霊的な実を結ぶ働きを表しています。

このように、救われた後にすべての信者の前にある課題と機会の要点をまとめたうえで、

ペテロはここから、クリスチャンとしての生き方という戦いを戦うために必要となる、

数多くの実際的な教えを与えていきます。

11節から25節は、要するに、イエス・キリストに栄光を帰そうとするすべての信者が

従って生きるべき行動規範であり、ペテロはこの規範を、あらゆる模範の中で最高の模範、

すなわち私たちの愛する救い主が地上で歩まれた生涯に基づかせています。 

 

[この地上における]寄留者、また一時的な滞在者(11節): 

 

 愛する者たちよ。私は、この[地上における]寄留者、

  また一時的な滞在者であるあなたがたに勧める。

 あなたがたの[まさに]命に対して戦いを挑んでいる肉の欲望を避けなさい。

第一ペテロ2章11節) 

 

クリスチャンとしてこの世とこの人生に対する基本的な姿勢を正しく保つためには、

そのどちらも一時的なものであることを認識しておくことが絶対に不可欠です。

私たちはここにほんの短い間しかいません。

この堕落した世に、私たちの永遠の住まいはありません。

また、この朽ちる体も私たちの最終的な状態ではありません。

私たちは永遠の体と、(第二コリント5章1節「その設計者また建設者は神である」

永遠の住まいへブル11章10節を待ち望んでいます。

私たちはこの世に何一つ持って来ませんでしたし、何一つ持って出ることもありません。

第一テモテ6章7節――ただし、霊的に成長し、前進し、

イエス・キリストの教会のために実を結ぶことによって得る報いは別です。 

 

私たちは本当に、この地上では寄留者にすぎません。第一ペテロ1章1節

アブラハムと族長たちが天幕に住んだように、私たちもこの一時的な血肉の

「天幕」に住みながら、私たちの祝福された希望、テトス2章13節

すなわち私たちの主が現れてくださることを熱心に待ち望んでいます。

その時、この朽ちる器は変えられ、第一コリント15章51-54節; 第二コリント5章1-8節

私たちはいつまでも主と共にいることになり、第一テサロニケ4章17節

主をありのままに見て、私たちもまた主と同じような者となるのです。第一ヨハネ3章2節

この重要な原則を忘れてしまうと、その結果、この世とあまりにも親しくなり、

この世を楽しもうとし、この世と友になろうとするようになって、問題に陥ることがあります。詩篇90篇9-12節; 第一コリント7章29-31節参照) 

 

 姦淫を犯す不貞な者たちよ!

  この世との友情が神に対する敵意であることを知らないのか。

 この世の友になろうとする者は、自らを神の敵とするのである。

ヤコブ4章4節) 

 

(15) この世を愛する者となってはならない。

 また、この世にあるものを愛してはならない。

 もしだれかがこの世を愛する者であるなら、

 父に対する[真の]愛はその人のうちにない。

(16) なぜなら、すべてこの世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、

 そして人生についての誇り高ぶりは、父から出たものではなく、

 この世から出たものだからである。

(17) この世とその欲は過ぎ去っていく。

 しかし、神の御心を行う者は、永遠に[神と共に生き]続けるのである。

第一ヨハネ2章15-17節) 

 

あなたがたの[まさに]命に対して戦いを挑んでいる肉の欲望(11節): 

 

 愛する者たちよ。

 私は、この[地上における]寄留者、また一時的な滞在者であるあなたがたに勧める。

 あなたがたの[まさに]命に対して戦いを挑んでいる肉の欲望を避けなさい。

第一ペテロ2章11節) 

 

これらの言葉は、罪との戦いにおいて私たちすべてにとって大きな助けとなるはずです――

なぜなら、この問題が絶対的に重要であることを私たちに強く認識させてくれるからです。

結局のところ、「聖別なしには、だれも主を見ることはない」のです。へブル12章14節

これまで見てきたように、聖別とは罪と悪から分離されることであり、

救いの時にはキリストにあって立場上のものとして与えられ、復活の時には、

もはや罪を犯すことができなくなることによって最終的なものとなります。

その間にある「経験的聖別」には、誘惑を退けるために信者が一瞬一瞬、

決断を下すことが必要です。私たちが罪に抵抗する意志を持つ時、

御霊はそうするために常にそばにいて助けてくださいます。

(例えば、ガラテヤ5章16-25節; ヤコブ4章5-6節

抵抗することに失敗すると、主との交わりから外れることになり、主のもとに立ち返り、

告白を通して赦しを求める必要があります。詩篇32篇5節; 第一ヨハネ1章9節

立ち返って告白することを怠り続ければ、時間の経過とともに、

私たちの霊的な前進の勢いは著しく損なわれ、最も極端な場合には、

背教(最終的に完全にこの世へと立ち返り、主を捨てる者の場合)や、

死に至る罪(主を手放すことは拒みながら、同時に罪の生活を捨てることも拒む者の場合)

にまで至ることがあります。[1] 

 

だからこそ、「聖別なし」では、私たちの救いさえ危険にさらされる可能性があるのです。

したがって、ここでペテロが述べている「私たちの命に対して戦いを挑んでいる肉の欲望

という言葉は、最大限に真剣に受け止めなければなりません。

というのも、「単に」私たちの肉体の命について語っているのであれ、

(死に至る罪によってこの世から召され、

その後に得ることのできたはずの報いを失う信者の場合)

救いそのものを失うことについて語っているのであれ、

(最終的に、以前持っていた主への信仰を捨て、罪とこの世を選ぶ者の場合)

どちらにしても、これ以上に重大なことはないからです。

さらに、肉的な状態と霊的な状態との間を絶えず行き来している人には、

大きな霊的前進に対して厳しい限界が設けられることも考慮すべきです。

すべての人は罪を犯します(例えば、ローマ3章23節

 

しかし、成長している信者、成熟した信者は、罪を犯すことが次第に少なくなり、

その罪も次第に重大でないものになっていきます。

(もちろん、すべての罪が重大でないという意味ではありません。

しかし、ポルネイアporneia[性的な不品行]を実際に行うことが、

高慢な思いを抱くことより明らかに悪いことは確かです)

そして、まず何よりも自分の体を、次に自分の舌を、そして最後に自分の思いを、

ある程度適切に制御できるところまで達しない限り、本格的な霊的前進は、

よくても進んだり後退したりする不安定なものになってしまいます。

ですから、クリスチャンの行動について扱うこの箇所の導入において、

ペテロは非常に明白で不可欠な原則から始めています。

すなわち、基本的な防御は、あらゆる効果的な攻勢に必要な土台であるということです。 

 

これは、戦争において「警戒(security)と呼ばれる原則と比較することができます。

この原則は、こちらが主として攻勢に集中している時であっても、

敵から攻撃を受ける可能性に備えて、慎重かつ適切な準備を怠らないことを求めます。

もし補給線を断たれたり、あるいは、備えを怠っていた敵の行動によって

ほかの面で深刻な打撃を受けたりすれば、前へ押し進み、前進しようとする私たちの努力は

すべて、必然的に無に帰してしまいます。

そして、よくても、罪を退けることに十分な注意を払わなかったために、

深刻な後退と時間の損失を被ることになります。

結局のところ、私たちがこの「罪と死の体」の中にいる限り、ローマ7章24節

「罪は戸口で待ち伏せして」いるのです。創世記4章7節

 

また戦争では、こちらがどれほど計画を立てても、敵にも常に「敵なりの行動」があるのと

同じように、私たちがクリスチャンとしての歩みを進めていく際にも、

悪魔とその勢力は必ずあらゆるところで私たちに敵対し

私たちがあらかじめ十分に予想できないような方法で、また予想できないような時に、

必ず誘惑を仕掛けてきます。そうである以上、「私たちに対して戦いを挑んでいる」

「肉の欲望」に少しでも心を許したり妥協したりするなら、当然、

私たちはそのようなサタンの攻撃に対していっそう無防備になります――

それは、有能な軍の指揮官に期待されることとは正反対です。

まともな軍の指揮官であれば、決して重要な地点を意図的に完全な無防備状態にはしません――しかし、ここでペテロが与えている神からの指針を無視する時、

クリスチャンは事実上それと同じことをしているのです。 

 

重要な地点を「考慮の対象から外して」、もはやそこを守る必要がないことにすることが

できないのと同じように、私たちもこの世にいる限り、

自分の罪の性質が持つ弱点を常に考慮に入れ、「肉の欲を満たすために、肉に機会を与え」

ないようにしなければなりません。

ローマ13章14節; ローマ6章11節, 6章13節, 6章19節, 8章12節, 12章1-2節参照)

しかし同時に、これらの弱点を気にするあまり、

霊的成長に積極的に取り組むことをためらってもなりません。

それは、すべての兵力を重要な地点の防御に配置しながら、肝心の目標をいつまでも

攻撃しないことに相当します。

したがって、避けるようにというペテロの勧めは、

それ自体が最終目的なのではなく、この世にいる間の私たちの真の目標である、

霊的成長前進実を結ぶ働きのための重要な前提条件なのです。

もし私たちが、主に誉れをもたらし、私たち自身にも永遠にわたる祝福をもたらす

三つの勝利の冠を得たいと願うなら、この世の事柄――とりわけ罪深い事柄――

に深入りすることは、その目標にとって極めて逆効果です。(控えめに言っても) 

 

(3) キリスト・イエスの良い兵士として、私と共に苦しみに耐えなさい。

(4) 戦いに出ている兵士は、日常生活の事柄にかかわり合うことはない。

 自分を兵士として召した者を喜ばせるために、[そのような事柄を避ける]のである。

第二テモテ2章3-4節) 

 


[1] 『聖書の基礎 第3部B: 罪論』IV.6.「背教と死に至る罪」を参照してください。 

 

#34<ii> に続く下差し

 

 

 

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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

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百日紅 そろそろおしまいかな

 

 

 

 

 

ニラ花

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昨夜、ザ―ッと雨が降って来たかと思ったら

グラグラグラ…ッと地震がありました

起きようか、どうしようか、と布団から体を起こしてみたけど

すぐに鎮まって、誰も起きてこなかったのでそのまま布団にはいりましたが

雨の音で目が覚めてしまったので、2時間ほどいろいろ祈っているうちに

眠れたようで、覚えてない長い夢を見ました

そんな朝は、何だか癒されたような気分になり

感謝します飛び出すハート

 

 

 

お顔を見たら(シャッタ―チャンスを逃したけど)

ももちゃんに似てたよネコハート

また、会えるかな音符

今日もありがとう~ラブラブ