からの続きです
ペテロシリーズ#34<ii>
クリスチャンの行動規範 (第一ペテロ2章11-25節)
ロバート・D・ルギンビル博士からの翻訳
異邦人の中でのあなたがたの生活のあり方(12節):
異邦人(すなわち、不信者)の中で、あなたがたの生活のあり方を
[道徳的に]良いものに保ちなさい。
それは、彼らがあなたがたを悪を行う者としてそしっていても、
あなたがたの良い行い(すなわち、生活と実を結ぶ働き)を目にする時、
訪れの日には神に栄光を帰するようになるためである。
前の節で、聖別された生活を送ることは、私たち自身の救い、霊的成長、
そして報いという観点から見て、良いことであり、また必要なことであるという事実を
示した後、ペテロは次にこの原則をさらに広げ、私たちが行うこと――
どのように考え、語り、行動するか――は、親しい関係にある人であれ、
わずかに接触するだけの人であれ、私たちの周囲にいるすべての人にも
大きな影響を及ぼすことを思い起こさせています。
結局のところ、私たちは目に見えない大きな戦いのただ中にいるのであり、
この世において、決して何ものにも拘束されない自由な存在ではありません。
悪い行いは、私たち自身に悪影響を及ぼすだけでなく、私たちが接するすべての人にも
悪い影響を及ぼす可能性があります。(ローマ2章24節)
ですから、主を不快にさせる悪い模範となるのではなく、良い模範となるよう努めるべきです。
それは、単に私たち自身の益がかかっているからだけではありません。
(もちろん、それも確かに重要です。悪い面では懲らしめを避けるということだけでなく、
「神を喜ばせる」者たちに与えられる、今この時における、また永遠における、
あらゆる良いもののためでもあります:へブル11章5-6節)
それだけでなく、
私たちの周囲にいるすべての人に益をもたらす可能性があるからでもあります。
まず信者たちに対して(ガラテヤ6章10節)、そしてまた、私たちを見ているかもしれない
不信者たちに対してもそうです。(第一コリント9章22節)
結局のところ、もし私たちが本当に、隣人や同僚が救われ、彼らと共に「訪れの日」に
喜ぶことができるようになることを願っているなら、
(すなわち、彼らが私たちの模範に応答するなら、その日、罪に定めるためではなく、
報いを定めるための裁きを受けることになるのです)
私たちのクリスチャンとしての証しを損なうものは取り除き、
その代わりに、神にかなった仕方で彼らの前に私たちの光を輝かせるよう努めるべきなのです。
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。
人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためである。」
(マタイ5章16節)
主がここで用いておられる、上で強調したこの表現は、
ペテロが今私たちが考察している節で用いているものと同じです。
すなわち、「良い行い」(ギリシヤ語:カラ・エルガkala erga / καλὰ ἔργα)です。
この表現は広く誤解されているため、ここで説明しておくことが適切でしょう。
「行い」とは、私たちが考えること、語ること、行うこと、そのすべてを指しています。
最後の裁きにおいて、不信者たちは「それぞれ自分の行いに応じて」評価されます。
これは明らかに、彼らの人生全体に対する徹底した吟味を意味しています。
広く流布している見解や神学的な推測とは異なり、
この裁きは、彼らの罪が永遠の命を妨げていることを証明するためのものではありません。
キリストはすべての罪のために死なれたのであり、
この裁きは罪そのものについての裁きではないのです。
不信者たちは、自分たちが「行った」どのようなことも、救いを受ける根拠としては
十分ではなかったことを、余すところなく詳細に示されることになります。
言い換えれば、彼らの「行い」のうち、真に「良い」と呼べるものは一つもなかったことが、
疑いの余地なく明らかにされるのです。
なぜなら、彼らがこれまで「行った」いかなることも、聖霊の力によって
行われたものではなかったからです。
イエスは答えて言われた。
「神のわざとは、神がお遣わしになった者を信じることである。」
(ヨハネ6章29節)
私たちがまず、神から行うように召された土台となる「わざ」、
すなわち救いのためにイエス・キリストに信仰を置くという「わざ」を「行って」はじめて、
私たちは信者となり、その後はじめて「良い行い」をすることができるようになります。
不信者の行うすべてのわざは、必然的に「汚れた衣」のようなものです。(イザヤ64章6節)
なぜなら、そもそもそれらは、イエス・キリストの御名によって神の栄光のために、
神の御霊によって行われたものではないからです。
不信者の行うことは何一つ「神を喜ばせる」ことができません。
(例えば、第一コリント12章3節)
神の目に「良い」とされる行いをすることができるのは、信者だけです。
したがって、不信者の行うことは、私たちの目にはどれほど犠牲的で立派に見えたとしても、
キリストへの信仰がなければ、決して救いをもたらすことはできません。
(30) では、何と言うべきか。義を追い求めなかった異邦人は義を得た。
それは信仰による義である。
(31) しかし、義に至る道として律法を追い求めたイスラエルの民は、
その目標に達しなかった。
(32) なぜか。それは、彼らが信仰によってではなく、
あたかも行いによるかのようにそれを追い求めたからである。
彼らは、つまずきの石につまずいたのである。
(ローマ9章30-32節/NIV訳)
(8) あなたがたは、[キリストへの]信仰を通して[神の]恵みによって救われたのである。
そして、これはあなたがた自身から出たものではない――神の賜物である。
(9) また、それはあなたがたの行ったことから出たものでもない。
(字義的には「行いからではない」)
それは、だれも誇ることがないためである。
この問題について多くの混乱が生じているのは、「行いのない信仰は死んでいる」
というヤコブの有名な言葉が誤って理解されていることによります。
しかし、ヤコブが真に「良い行い」について述べていることは、言うまでもないはずです。
それは、神と神の真理に応答している信者だけが生み出すことのできる種類の「行い」であり、
文脈に挙げられているアブラハムとラハブの例がそのことを十分にはっきりと示しています。
真の信者は皆、神に喜ばれることを考え、語り、行います。
そして、この神にかなった振る舞い、これらの神にかなった「行い」が、
彼らの信仰を証明し、彼らを「義と認める」のです。
ペテロがここでこの言葉を用いているのも、まさにこの意味においてです。
私たちがクリスチャンとしてふさわしく振る舞い、神にかなったことを考え、
それが神にかなった行いやわざとなって現れる時、私たちはそのような行動と
神にかなった言葉によって、私たちに敵対する不信者たちの中傷が
事実ではないことを示します。
したがって、不信者たちが私たちについて何を言おうとも、
もし私たちが本当にイエス・キリストが望んでおられるように歩んでいるなら、
そのような中傷にはまったく根拠がありません。
そのために私たちが苦しむとしても、その苦しみは私たちに非のないものであり、
キリストに恥をもたらすのではなく、むしろキリストに栄光をもたらすものとなります。
そして、私たちが真に良い行いを続けるなら、
イエス・キリストのために真実に行ったことは何一つ、永遠の報いを受けずに
終わることはないと確信することができます。
(マタイ6章19-21節,10章42節;ガラテヤ6章9-10節;エペソ2章10節)
訪れの日に神に栄光を帰する(12節):
異邦人(すなわち、不信者)の中で、あなたがたの生活のあり方を
[道徳的に]良いものに保ちなさい。
それは、彼らがあなたがたを悪を行う者としてそしっていても、
あなたがたの良い行い(すなわち、生活と実を結ぶ働き)を目にする時、
訪れの日には神に栄光を帰するようになるためである。
聖霊の霊感のもとで、ペテロは、私たちの生活による良い証しがもたらし得る結果を
強調することが重要だと考えていたことは明らかです。
この戦いを正しく、神にかなった仕方で戦う者たちのために主が備えておられる
永遠の報いによって、私たちが動機づけられることは、確かに良いことであり、
ふさわしいことです。[1]
しかし、良い証しが私たち自身にとって有益であるということに加えて、
ペテロはまた、これ――私たち自身の正当で神にかなった益――は、
全体の一部にすぎないことを思い起こさせています。
私たちはまた、私たちを見ている人々の益のため、そして神の栄光のために、
しっかりとしたクリスチャン生活を送るよう動機づけられる必要があります。
イエス・キリストは、私たちと私たちのクリスチャンとしての歩みを見ている
すべての不信者を含め、すべての人のために死なれました。
もし私たちが、不信者たちの世界の中で、語ることと行うことを通して神の光を
本当に輝かせるなら、そして、それが最終的にただ一人でも救われることにつながるなら、
ここでペテロが述べている目的は達成されることになります。
すなわち、私たちを知っている人々が救われ、やがてキリストがご自身の教会を
評価される日に、私たちと共に「神に栄光を帰する」者となることです――
なぜなら、彼ら自身も信じる者となったからであり、
それはキリストに栄光をもたらすと同時に、彼らにとって死から命へと
移ることでもあるからです。
それならば、私たちは、主の栄光を求め、すべての人の救いを求め、
そして自分自身の永遠の報いを求めるという、この三重の使命があるのですから、
この地上でのごく短い「寄留と旅」の間(第一ペテロ2章11節)、
何の非難も受けることのない良いクリスチャンとしてこの世を歩むよう、
なおさら努めるべきではないでしょうか。
私たちには果たすべき重要な使命があります――
実に、これ以上に重要な使命はありません――
そして、私たちの証しに非難をもたらしかねないあらゆるものを避け、
その代わりに、私たちが語ること、行うことのすべてにおいて
イエス・キリストの愛とあわれみを映し出すよう心を配るという、
ここでのペテロの教えに従ってこそ、私たちはこの使命を十分に、
そして首尾よく果たすことができるのです。
[1] 『来たる艱難期』第6部.I.7.「教会の裁きと報い」
<リンク先ファイルの42頁->を参照してください。
#34<iii>に続く![]()
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あなたが知っているとおり、彼においては、
信仰が行いと共に働き、
その行いによって信仰が全うされ、ーーー
霊魂のないからだが死んだものであると同様に、
行いのない信仰も死んだものなのである。
(ヤコブ2:22,26)
この「行い」とは、
イエス・キリストに信仰を置くという「わざ」を「行って」はじめて、
「良い行い」をすることができるという事なのですね
私たち自身の力によってではなく
聖霊の力によって、信じることができますように
お祈りします![]()
昨日の空
昨夜の雨と今朝の曇天から、急に晴れ間が![]()
陽が差し込む道を歩くのはやっぱり楽しい![]()
暗い道に光が差し込むだけで
輝きだすね✨
メダカさん、いるのかな![]()
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ちっと、あそびつかれたにゃん
ゆっくり寝~![]()
今日もありがとう~![]()





