あれから30年。 1995年3月20日の記憶 | マサミのブログ Road to 42.195km

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地下鉄サリン事件から30年が過ぎました。あっという間の30年だった気がします。私はある意味、あの事件の「渦中」にいましたので、忘れないうちに書いておきます。

 

(↑東京都足立区のサイトから)

 

当時の私は港区六本木にオフィスがある会社に勤めていました。自宅からは市営地下鉄で桜木町に出て東横線の渋谷行きに乗り、中目黒駅で地下鉄日比谷線に乗り換えて六本木まで、というルートでした。

 

事件が起きたのは午前8時過ぎでしたので、私は東横線に乗っているか、乗ろうとしている時間帯です。はっきり覚えていないのですが、とにかく日比谷線は止まっていて、なんとか渋谷駅まで行き、渋谷から新橋行きの都営バスで六本木までたどり着きました。

渋谷駅のバスターミナル(今のヒカリエの前)はすごい人混みでごった返していたのを思い出します。

 

オフィスに着いたのは11時頃だったと思います。TVがついていて、すでに事件現場の混乱ぶりが映し出されていました。私より先に出社していた女性社員が「なんか、爆発があったらしいです」と伝えてくれました。

 

どこで何が起きているのかサッパリ分かりませんでしたが、TVを見て「都心のあちこちで大変なことになっている」「築地の聖路加病院が大混乱」「サリンという毒物が撒かれたらしい」ぐらいのことは段々と分かって来ました。

 

心がザワザワしたままでとにかく夜まで仕事をして、帰る時間になりました。しかし日比谷線はまだ動いていません。

バスは走っていたので、出社の時とは逆に六本木から新橋までバスに乗り、新橋からJRか京浜急行で帰ることにしました。

 

しかしバスに乗って「しまった」と思いました。この「渋谷ー新橋」間を走る都営01系統のバスは、霞が関を通るんです。日本初の超高層ビルと言われた霞が関ビルの真下に「霞が関」というバス停があります。

午後7時か8時頃にその付近を通過しましたが、いつもならビルの窓に明かりがたくさん灯っている時間なのに、真っ暗!そして誰も歩いていない!私は信じられない光景を見ているような気持ちになりました。あんな、霞ヶ関あたりが廃墟のようになるなんて。

 

バスが走る外堀通りにはパトカーや警察車両があちこちに停まり、屋根の赤ランプをくるくると回しています。明かりといえばほぼそれだけなので、あたり一帯が真っ赤に染められて、とても不気味な景色でした。

別に何か身の危険を感じたわけではありませんが、とにかく気持ちが悪くて、私はこのルートを選んだことを激しく後悔したものです。

 

帰宅して、久米宏さんが緊張した表情で語るニュースステーションを、食い入るように観たことを覚えています。

 

翌日は日比谷線も動いていて、いつも通り出勤しました。午後、客先に用事があって出かけたその帰り。日比谷線は空いていて、私は座っていました。すると、日比谷か霞が関のあたりで、電車の床に新聞紙がペラッと落ちていることに気がついたのです。ドアとドアの間の、ちょうど広くなっている空間でした。しかもその中央がほんの少し盛り上がっていて、下に何かがあるように見えなくもない。

誰かが持っていた新聞の一部を落としていったのだろうなとは思うのですが、なにしろ昨日の今日ですから、その車輌に乗っていた乗客は私も含めて全員、いや~な気持ちでその新聞を見つめながら電車が進むのにまかせていました。新聞から、一瞬も目が離せなかったです。

 

そして六本木の一つ手前の神谷町に着き、電車が止まりドアが開きました。するとホームにいた駅員さんが新聞紙に近づき、車内に乗り込むとサッと白い手袋をはめた手で拾い上げて、持ち出してくれました。 

車内には「ふう~っ」という、声にならない安堵のタメ息が充満しました。ずっと息を詰めていたのが、やっと呼吸出来たような気持ち。

 

あとで思うと、あの神谷町のホームにいた駅員さんは、新聞紙の下に何があるか確かめもせずにサッと拾い上げたような記憶が私にはあるのですが、勇気があると言えばあるし、ものすごくハイリスクな行動だったとも言える。

新聞紙の下には何もないって見えていたのかな? でなきゃあんな行動は出来ませんよね。とにかく、あの若い男性駅員さんのおかげで「気分的に」すごく救われたことは確かです。あの緊張感に満ちた数分間のことは忘れられません。

 

 

ーーー

 

 

その後も、都心部では何ともいえないイヤ~な空気が漂い続けていました。そして「オウム真理教」への注目と風当たりは強くなる一方でした。

 

地下鉄にサリンが撒かれた日から約1カ月後の4月23日の夜。私はオフィスでたった一人残って残業していました。当時の事務所は六本木交差点から防衛庁(今の東京ミッドタウン)の方へわずか30mぐらいの建物にありました。

 

すると、パトカーか救急車か分かりませんが、サイレンの音が聴こえ出し、それが次から次へと続いて止まらないのです。

耳を澄ませて聴くと、どうやら六本木から渋谷のほうに向かって走っています。とにかくひっきりなしで、東京じゅうのパトカーが集まっているのでは?と思うほどでした。

 

また何か嫌なことが起きたなとは感じましたが、深夜に帰宅してニュースを見て分かりました。オウム真理教の「南青山総本部」は、六本木の交差点からバス停だと二つ先(青山七丁目)という近くにあったのですが、その建物の入口、たくさんのマスコミが張り込みをしている目の前で、オウム真理教の最高幹部だった村井秀夫という人が暴漢にナイフで刺されたのです。すぐそばの広尾病院に搬送されましたが、死亡。

 

(写真はネットから。茶色いビルの右隣がオウム真理教南青山総本部)

 

私はオウム事件というと、この夜のことを真っ先に思い出します。途切れることなく続くサイレン、サイレン、サイレン。「いったい何が起きているの?」と叫びたい衝動にかられても、何も分からない。不安、焦り、逃げ出したい気持ち。

いや、本当にあの頃、1995年の3月から4月、5月ごろは、東京の真ん中から逃げ出したい気持ちになりました。とにかく重苦しい、嫌な雰囲気が数カ月は続いたと思います。

 

 

ーーー

 

 

もう一つ、忘れられない光景があります。地下鉄サリン事件の数カ月後だったでしょうか。八丁堀に私が担当するクライアントがあって、東京駅の八重洲口から京橋を経てそちらに向かいました。

当時のブリヂストン美術館(今のアーティゾン美術館)に差し掛かる手前だったと思いますが、舗道の上に、オフィスで使う事務用の机と椅子がセットで、さかさまに置かれていたんです。みるからに粗大ゴミで、その日に回収されるために置かれた感じ。

 

ところが、その机に紙が貼ってあって、手書きで何やら書いてあります。私は立ち止まって読んでみました。詳しく覚えていないのが残念ですが、どうやらその机と椅子は、サリン事件で被害を受けた人が使っていたものだったようです。

サリンで亡くなったのかどうか分からないけれど、メモには「皆様に受けたご恩は、本人も忘れないでしょう」というような意味の言葉があったのは確かです。ご家族(ご遺族?)の方が書かれたのでしょうか。

私はもう何も言えなくなってしまい、しばらくそこに佇むばかりでした。あの数分間も、つらかった。やっとサリン事件のことを忘れかけていた頃に、すごくリアルな現実が迫って来たので。

 

 

ーーー

 

 

サリン事件の5年前、1989年11月には、横浜市磯子区で「坂本弁護士一家殺人事件」があり、大きく報道されました。

犯人は分からず「オウム」という名前もまだ挙がりませんでしたが、争った跡とオウムの信者が着けるバッジが残されているのに家族3人の行方が分からず、ショッキングな事件としてワイドショーでもたびたび取り上げられました。

 

(↑朝日新聞のサイトから)

 

私が住んでいた南区は磯子区の隣だし、事件が起きた洋光台という場所は私が卒業した県立高校に近かったので、私の心にもずっと影を落とし続けていました。そしてこれもオウムの仕業と分かり、しかも家族3人が別々に、深い山奥に埋められていて・・・

遺体が発見され収容される様子がニュースで流れると、私は思わずTV画面に向かって手を合わせたものです。あまりにもつらく、残酷な結末でした。

 

 

ーーー

 

 

地下鉄サリン事件やオウム真理教に関しては、他にも断片的な記憶はあるのですが、「これだけは書いておきたかった」ことをまとめました。

 

付け加えます。地下鉄サリン事件は、営団地下鉄(いまの東京メトロ)の丸の内線、千代田線、日比谷線の3路線、5つの電車内で発生しました。

そのうちの一つは、午前7時59分に中目黒を出る、東武動物公園行きの電車でした。サリンの袋はいちばん前の車輌に置かれ、犯人の豊田亨が傘で突いて液体が床に漏れ出しました。

 

後日このことを知った私は戦慄しました。中目黒発・東武動物公園行きの日比谷線は、私が通勤で毎日乗っていた電車。しかも私はいちばん前の車輌を使うことにしていたんです。ただ、乗るのは午前9時ごろでした。

もしあの日、何か用事があっていつもより1時間ほど早く家を出ていたら…「自分がサリンを吸っていたかもしれない」と思ったものです。

 

あれから30年。38歳だった私は68歳になりましたが、事件で亡くなった方はその時の年齢のままで時計が止まっています。あらためてご冥福をお祈り致します。

そして今も後遺症で苦しんでいる方や、愛する人を失った悲しみに耐え続けている人もいらっしゃいます。私も、生きている限りあの一連の事件は忘れずにいるつもりです。