『絶歌』と「犯行声明文」 | 真面目に脱線話@リンガランド英語塾

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英語や芸能など、思いついたことを適当に書いていくという、そういうブログです。

元少年Aが書いた『絶歌』(大田出版刊)を読んで(→過去ログ)当時のことを思い出し、1997年の事件の直後に彼の書いた犯行声明文を久しぶりに読み返してみた。すると、当時すこしもやもやしていたことのいくつかが、『絶歌』によって明らかにされていることに気づいた。



今回はそれについて思ったことを少し述べてみたい。



実はこの稿は『絶歌』を読んですぐに書いていたのだが、出版自体への批判がすさまじく、また書いていることも結局は推測に推測を上乗せしただけのものなので、騒ぎがだいぶ収まった今に時期をずらすことにした。



その前に、神戸新聞に送られた酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文を掲載する。当時の新聞から書き写したもので、私が改行を入れたところがある(私はこの犯行声明文が当時の時代の雰囲気を映し出した、読むべき価値のあるものだと考えている)。


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犯行声明文
神戸新聞社へ


この前ボクが出ている時たまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた


人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。


ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。


しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。


もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう。


やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。


ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。


それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはならない だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない。


そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。


すると彼は、「みじめでなく価値のある復讐をしたいのであれば、君の趣味でのあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」


その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。


しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分らない。持って生まれた自然の性とした言いようがないのである。


殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。


最後に一言 この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。


よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事は我慢がならないのである。


今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤摩化しているようにしか思えないのである。


ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね


ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。


だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。


今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。


ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。――ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている――


[二枚目]
P・S 頭部の口に銜えさせた手紙の文字が、雨か何かで滲んで読みにくかったようなのでそれと同じ内容の手紙も一緒に送る事にしました。


[同封されていたメッセージ] さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない 人の死が見たくて見たくてしょうがない 汚い野菜共には死の制裁を 積年の怨念には流血の裁きを

SHOOLL KILLER 学校殺死の酒鬼薔薇
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この犯行声明文で最初に注目すべきなのは、3つの人格が登場することだ。もちろん実在人物ではなく、それぞれ少年Aの中の人格である。彼の人格が3つに分裂していたと考えていいだろう。



1つめはこの犯行声明文を書いている「ボク」=「透明な自分」。彼は現実に存在しているが、「生まれたままの自分」(=本来あるべき自分)とは違った、社会から無視されている透明な存在だと規定されている。



この場合の「透明」とは、他人からは見えていない=存在を認知されていない=人から無視され続けている、といったネガティブなセルフイメージをあらわしている。



2つめは「ボク」と同時に誕生した「酒鬼薔薇聖斗」だ。ニュースで名前を読み間違えられたことに憤っていることからわかるように、彼にとって酒鬼薔薇聖斗こそ本当の自分である。酒鬼薔薇は現実世界には存在しないが、殺人を快楽・趣味と楽しんでいると述べている。



なお、透明なボクと酒鬼薔薇聖斗は別人格として描かれているが、ときどき混同されているので、不可分な部分もあると考えていいだろう。酒鬼薔薇聖斗が自分を動かして殺人を犯させているといった図式があるのかもしれない。



3つめは殺人をゲームとして楽しめとアドバイスした「友人」である。これは不可分な関係にある「ボク」「酒鬼薔薇聖斗」と違い、別人格のようである。



のちに、彼には「バモイドオキ神」という名の個人神がいたことがわかるが、おそらくそれのことだろうと推測した。ただ確信が持てなかった。



このヒントとなるかもしれない記述が、『絶歌』に登場する。それは物語の序盤、自分を溺愛し無償の愛を提供してくれた祖母の死と、その後のエピソードである。



彼が祖母との関係を最初に明らかにしたのは、おそらくこのことが連続殺人の原点となる出来事だったからだろう。意図したものかどうかはわからないが、一読してその重要性は際だっているように思えた。



彼はいつも無条件で受け入れてくれた祖母の死を知り生の根本を揺さぶられるほどのショックを受ける。そして、悲しむと同時に、驚いたことに、自分を残して死んでいった祖母に憤る。



私はこの部分を読みながら閃いたのは、犯行声明文を読んで以来ずっと引っかかっていた3つめ人格が、この祖母かもしれないということだ。



もしかしたら「愛する家族が亡くなったことに怒りを覚える」という状況に共感できない人がいるかもしれないので、念のために補足しておきたい。



通常、子供は生まれてから母親に育てられる。赤ちゃんは無力なので母親の世話がないと生きていけない。そのときの赤ちゃんの意識は、「母親が世話をしてくれている」でなく、自分と母親が自我の一部に取りこまれている。この頃は、自分と母親はいわば一体の存在である。



たとえば、赤ちゃんが空腹などの不快感から泣くと、母親は赤ちゃんが何かを要求していると考え、それを満たそうとする。だが、それは母親に世話をしてもらおうと泣いているのではなく、いわば、泣いて母親が世話をしてくれるまでが自分の意志だと考えていることになる(もっと正確に言うと、そう考えているというより、そういうものであると前提している)。



そういう意味で、赤ちゃんは一方的に与えられるだけの「完全なるナルシスト」である。



成長していくと、自分の欲求が必ずしも叶えられないことにうすうす気づきはじめる。それと同時に、母親と自分が別の存在であることに徐々に気づきはじめる。そして、「不快感から泣く」から「要求のために泣く」へとシフトしていく。



また、母親もしつけのために赤ちゃんの欲求の一部をあえて無視することもある。この無視という行為によって、「欲求が満たされないことがある」という厳しい現実を受け入れざるを得なくなっていく(「完全なるナルシスト」がだんだんとナルシズムを脱却していく過程でもある)。



その段階からしばらくして、赤ちゃんが言葉を使えるようになり、自分で移動できるようになると、母親からの独立心が芽生える。また、母親の無視や要求に応じたくないという気持ちも芽生えて、強く反抗するようになる。これが第一反抗期である。第一反抗期は自分と母親を完全に別にものと認知するための儀式のようなものだ。



当時の報道によれば、彼の母親はかなり幼い頃から厳しくしつけていたそうである。もしそうであれば、もしかしたらまだ母親との精神的な一体が必要な時期から独立を強いられていたことになる。



もしそうであるなら、亡くなった祖母は、単なる家族の一人ではなく、まだ自我が成立していない彼の「避難所」の役目をしていたかもしれない。彼は母親の厳しさと祖母の優しさとのバランスの中でなんとか自我を保っていたことになる。



そんな不安定な自我確立への過渡期に、祖母が亡くなってしまう。彼にとって祖母の死が特別な意味があるのは、それが「自我の避難所の喪失」を意味するからである。だからこそ、彼にとって祖母の死は、通常の親族の死とは別次元の重さがあった。



祖母の死に接したとき、彼はひ弱な自我で厳しい現実に向き合わなくてはならなかった。だからこそ、深く悲しむと当時に、その「身勝手な死」に怒ったわけである。これはナルシストが「自分に恩恵を与える人物」が去っていったときに感じる感情であると言ってよい。



もちろん、愛する者の死を受け入れられず、自分の中に「生きている者」としてしばらくかかえ込むことはごく普通のことだ。



ただし、彼の場合、祖母はまだひ弱な自我の避難所であり、純真で脆弱で邪悪な自我は、祖母という盾によって守られる必要があった。本来なら母親がその盾になるのだが、彼はずいぶん早くから母からの精神的な独立を強いられていたようなのである。だからこそ、亡くなった祖母を自分の内側に抱えて、ことあるごとに相談していたのではないだろうか。



それが「天国にいる祖母」といったような外部に存在する形であれば問題はないのだが、彼の場合、自我に統合されていた可能性がある。それは、そうしなければ自我が保てないほど、環境が過酷だった(あるいは自我が脆弱だった)からだろう。



もちろんその存在は彼が作り上げたものであるから、「アドバイザー」と言っても、結局は自身の心の声にすぎない。だが、彼はそのアドバイスをまるで第三者が発したようなものとして真剣に受けとめ、まるで他人からの命令のように従う。



この形が問題となるのは、その心の声が彼の欲望そのものでありうるからだ。欲望というものは通常は内面で吟味される。そのまま実践すると恥をかくとか、犯罪になるとか、生活に支障があるなどといったことがあれば、いったん抑制される。だが、それが第三者の声に変わってしまうと、「欲望に忠実な人格」というものが出来上がってしまう可能性がある。



彼の場合、その内なるアドバイザーは、「趣味から復讐に変えるために、殺人をゲームにせよ」と提案している。つまり、彼にとって殺人は欲望を満たす「趣味」であったが、彼が本当にやりたかったのは「復讐のための殺人」だったということである(彼自身はそのことに気づいていない)。



では、なぜ「ゲーム」にしなければならなかったのか。



犯行声明文によれば、彼にとって殺人は快楽である。ゲームにはルールとゴール(エンディング)の2つが必須である。この場合のルールは、殺人を快楽の手段として使うではなく「復讐」として使うことにある。ゴールとは、「吊されること」=逮捕されて死刑になることである。



彼はこの犯行声明文によって逮捕=死をエンディングに設定して、殺人をまるでピンボールのように「復讐点」を叩き出すゲームにしていくわけである。



では、この場合の復讐とは何か。犯行声明文によれば、自分を透明な存在にした義務教育と、それを生み出した社会だ。



「義務教育に復讐する」が具体的に想像しづらいが、おそらく「絶対に学校に行かねばならない」というごく普通の日常が、彼にとって拷問に近い苦しいことだったのだろう。義務教育がなければ、学校に行くこともなく一日中部屋に籠もって好きなことをやれたかもしれないし、あるいは、早くから働いてわずらわしい学校生活や人間関係に決別できたかもしれない。



だから、彼は「学校に行かねばらなかった日々」に対して復讐をはかろうとしたのだろう。そして、その復讐こそが被害者の首を校門に置くことだったのだろう。注意しなければならないのは、これは被害者への復讐ではないことだ。「自分が愛していた友達の首を学校に置く」という行為が、義務教育への復讐の一部だったのである。



ただ、彼の突出した異常さはその部分ではない。もちろん14歳という低年齢で、快楽殺人を犯すというのは相当に希なことだろうが、どんな時代にも快楽殺人を犯す人物は少ないながらも一定数現れるものだし、これほど猟奇的な場合も、世界的に見ればたいへん珍しいとまでは言えないだろう。



彼の突出した異常さは、それにプラスして、14歳という幼さで犯行声明文を出し警察に挑戦状を叩きつけたことにある。しかも、この犯行声明文で、彼は逮捕の確率をわざと高めているフシもある。彼はこの犯行声明文で、ゲームのスタートボタンを押し、やがてエンディング=逮捕が来ることを期待しているのである。



だが、それは表向きの理由だろう。本当の理由はおそらくそうではない。彼はこの犯行声明文で社会と繋がりたかったのだと思う。彼にとって一連の殺人は衝動的快楽のために過ぎなかったのはたしかだが、それだけなら書かれているように、できるだけ見つからないように、殺人し続けたはずである。



この犯行声明文の真の目的は、「酒鬼薔薇聖斗」という(彼にとって)輝かしい存在を、社会の記憶に永遠に刻みこむことだったのではなかったのだろうか。



若くして(彼にとっての)大事業をアピールし、殺人者としての名前=酒鬼薔薇聖斗=本命を、さらに大きく見せたいという自己顕示欲が、それを書かせたのだろう。だからこそ彼は名前が読み違えられたときに烈火の如く怒るし、そのぶん「ボク」のみすぼらしさを自虐的なほどに強調する。



だが、犯行声明文の中には彼の意図しない心の弱さも描かれている。



「ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。 ―ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている」という過剰な描写は、オバケが怖いゆえにオバケのマネをして他人を驚かせる子供の弱さを連想させる。



やはり彼は完全なるモンスターではなく、どこかで幼さを持った子供なのである。ここにもしかしたひとしずくの更正の可能性が垣間見える。その針の穴を通すような可能性が実ったのは、施設関係者の献身的な努力のおかげだろう。



ところで、彼の生い立ちでもう1つ気になっていることがある。それは、彼には「反抗期」がなかったのではないかということだ。本来なら第一反抗期で親に反抗して自己を母親からの自我を独立させなければならなかったのだが、その機会を逸してしまったのではないだろうか。



もしそうであれば、本来は親に向かうべき反抗の意志が、直接、社会に向いてしまった可能性がある。自我の独立は親への反抗で養うべきなのだが、その矛先が親に向かなくなってしまい、第三者に向いてしまったという構図だ。



『絶歌』では、両親は彼に無償の愛を与える理想的な父母として描かれている。またそこに嘘はないのかもしれない。ただ、彼の加虐的な性癖を見ていると、親がよかれと思っていたことで、幼い頃に精神的にトラウマになるほどのダメージを受けつづけたのではないかと推測せざるをえない。



人は愛されたから愛するようになるのであり、子供として育てられてから子供を育てるようになるのである。彼の兄弟はとくに問題なく成人している様子であるし、兄弟に中で彼にだけ反社会的なほど異常な加虐癖が生じるといったことは普通では考えにくい。



私が『絶歌』で知りたかったことは、「加虐」を親以外の誰かから受けたかどうかであったがあるのだが、残念なことにそういったことは書かれていなかった。




もちろん、反抗期がなかっただけで社会に復讐したくなるという単純な図式はありえない。ただ傾向として、自己が認識できないと「生きている実感」が得にくいといった可能性は高まる。そういった場合、感受性が養いにくく他人の共感能力が弱まりがちになる。



たとえば、誰かが殴られているところを見ると、相手の痛みを想像してかわいそうな気持ちになることがあるが、自己が未分化だと相手をいくら殴っても平気でいられるようなメンタリティになる場合がある。実際、彼は仲の良い友達を、とくに理由もないままに怪我を負わせるほどに殴っている。



『絶歌』によれば、彼が友達に腹を立てるのは、どうやら相手の中に自分への「媚び」を見いだしたときである。彼は幼い頃から親に合わせて自分を殺して生きていたので、その惨めな自分を誰かに見いだしたときに、無制限に激昂してしまったのではないだろうか。



また、出所してからの彼は本を読みあさる。中でも三島由紀夫と村上春樹に読みふけり、とくに三島の『金閣寺』には自分と同化するような共感を表している。



三島は親にひたすら恭順しており、反抗期がなかったと言われる。三島の文体には、恋愛感情を「火を飛び越える」といった過剰な行動で表すといったような、どこか人工的に作り込また印象がある。彼が三島に強く惹かれたというのは、同じく「自我の独立」を果たせなかった者への共感があったからではないだろうか。



彼は犯行声明文という形で病的なほどにあふれ出る自己顕示欲を表現し、それによって暴れ狂う精神状態をなんとかコントロールしていたのではないだろうか。そこに突出した異常さの根本がある。



そこで問題となるのは『絶歌』を書いた彼の精神状態である。



この本を書き世に問うたことは、14歳だった彼が犯行声明文を書き警察に宣戦布告したこととほぼ同じ意味を持つ。彼は『絶歌』で被害者に対して心からの懺悔を描くが、それと同時に当時の狂気をその異常な加虐癖とともに、14歳のときと変わらぬ華美なレトリックで書いている。



彼がこの本で書きたかったのは、まさに当時の狂気だろう。それは彼の突出を描くことであり、もう1度、世間に対して突出した自分を刻み込むための精神的作業である。



もし本当に被害者に対しての悔恨があれば、殺害方法を詳しく書くことなどできるはずがない。それは、彼が犯行声明文に書いて見せた「被害者を二度殺す」まさにそのことを実行したしたことにほかならない。



14歳当時に犯行声明文として予告したことを、「更生後」に実行して見せたのだから、その精神性は14歳のときと変わってなどいない。彼は「殺人者を脱する」という点では更正したのだろうが、「殺人者としての自己顕示欲をプライドとして持つ」という面では変わっていないと考えるしかない。



彼を更正させるための関係者の努力はたいへんなものであり、また実際、彼は何事もなく過ごしてきた。また、『絶歌』は14歳の連続殺人犯が書いたという意味ではたしかに貴重で得難い本である。



だが、それはたとえば3000部くらい売れる程度なら許容されても、何十万部も売れてはいけないものである。彼はこれが何十万部も売れるのをわかった上で書いている。いくら本の中で懺悔しようと、被害者への配慮を差し置いて、「輝いていた頃の自分」を再び社会の記憶に刻み込みたいという自己顕示欲が勝ったという事実は動かせない。



『絶歌』はそういう意味で、犯行声明文と同質である。そのことは彼にもわかっていたはずだが、それでも書かずにいられなかった。幼少期の環境というものがそれほど長く人を狂わせるということには戦慄を禁じ得ない。



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