英語ができる・できないの境界 | 真面目に脱線話@リンガランド英語塾

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英語や芸能など、思いついたことを適当に書いていくという、そういうブログです。

多くの日本人にとって、英語ほど特殊な教科はない。



このことを説明するためには、こんな想定すればわかりやすいかもしれない。それは、「あなたは○○ができますか?」の○○に、英語などの教科を当てはめてみることだ。



たとえば、国語。いま一般企業に勤めている人が、「あなたは国語ができますか?」と聞かれても、答えようがないだろう。今のその人にとって、国語はできる・できないといった対象ではないからだ。



次に歴史や科学を当てはめてみる。「あなたは歴史ができますか?」「あなたは科学ができますか?」・・・どうだろう? やはりちょっと変である。



苦手な人が多いとされる数学や物理にしても、「あなたは数学・物理ができますか?」だと、他の教科ほどではないものの、少し違和感が残る。「物理はできなかった」「物理は苦手だった」といった返事ならありうるが、「物理はできない」と言う人はあまりいないだろう。



唯一、自然なのが「あなたは英語ができますか?」だ。これについて「できない」と言う人、もっと突っ込んで「読み書きならなんとか。でも会話はダメ」なんて答える人もいる。



いずれにせよ、このように「あなたは英語ができますか?」という質問にはほかの教科にある違和感がない。



通常は教科というものは「やった・やらない」「得意だった・苦手だった」と過去のことになるのに、英語だけは現在進行形の問題としていつまでもついて回る。



「外国語はすべてそういうものだ!」と思った方もいるだろう。



たしかに「あなたはフランス語はできますか?」は違和感がない。英語もフランス語と同じように語学だから、「できますか?」という現在形が合う。



では、その回答はどうだろう。多くの場合、「フランス語はやってないんですよ」と言うか、大学で第二外国語でやったという人なら、「履修したけど、結局、モノにならなかった」などと言うのではないだろうか。少なくとも、英語のように切実に「できない」、とくに「しゃべれない」とは答えない。



通常「できない」を表に出せることと言えば、ほかには水泳(泳げない)、自転車(乗れない)などがある。あるコツがあって、そのコツをつかめたかどうかがわかるようなものが中心だ。



たとえば、将棋やルービックキューブなどは「やったことはない」「下手だ」はあっても、「できない」とは言わないはずだ。英語は本来は将棋と同じようなものであるはずだが、日本人にとってはなぜか水泳のような存在なのである。




では、なぜ英語はいつまでも「できない」と形容されるのだろうか。



「最近は英語を話す機会は増えているんだから、そんなの当たり前だ」と思った方は、最近あった以下の事例を見ていただきたい。



私の知り合いに、70歳代の現役デザイナーがいる。その方は久しぶりに団体ツアーでヨーロッパに行ったのだが、旅先で英語が話せなくて、くやしい思いをしたそうだ。



そこで、私にこう言った。「初級の良い英会話の本を紹介してくれ」



私はてっきりまた海外旅行に行くときのためだと思い、「次はどこに行くんですか?」と聞いたのだが、「いや、最近、持病が腰痛がひどいので、もう海外旅行は行かないよ」とのこと。一瞬、理解に苦しんだ。



その方は東京の都心在住で自宅を仕事場になさっているので、外国人に道を聞かれたりすることがあるのかと思ったのだが、ほとんど外に出ないで仕事をしているので、外で英語を話す機会もないとか。



「ではなぜ?」と聞こうとして、思いとどまった。どうやらそういう問題ではないことに気づいた。



この場合、英会話を学ぶのは、もちろん必要があるからではない。英語を話すということは実用的なことではあるが、話さなければならない状況はそもそも今後おそらくない。



では、なぜその方は英会話をやりたいのか。



「自分は英語ができない」と思うと、それがずっとコンプレックスとしてつきまとうもので、いくら年を重ねたとしても、また強く意識させられると、「英語ができるようになりたい」という気持ちが喚起されるのだ。



そう考えると、私たちにとって、英語は必要性とは無関係に、「できる・できない」を永遠に問われつづける特別な教科だというのも納得できるはずだ。




では、なぜ私たちが英語コンプレックスに悩むのか。これをを掘り下げるとややこしいことを論じなければならないので(本ブログでは断片的に何度か論じたことがある。たとえば→過去ログ)、ここでは捨象する。




さて、ここで1つ、やっかいな問題が浮上する。



学生が教科として「英語が得意」と言うとき、多くの場合、読解が得意だとか、作文が得意だといった読み書きについてだ。だが、たとえ模擬試験で偏差値70を超えていたとしても、英語を話す訓練を受けていなければ、ほとんどの場合、英語は話せない。



そんな学生だった人に「英語はできましたか?」と聞いたら、「できました」と答えるかもしれないが、「英語はできますか?」と聞くと、自分は英語が話せないという認識があるので、ほぼ間違いなく「できません」と答える。



過去のこととしては「できました」、でも現在のこととしては「できません」となる。つまり、英語は教科でもあって、かつ現在進行形の課題であり、かなりねじれた状態にある。



こういうことを論じていると、「日本の英語教育が間違っているからだ!」という話になって、永遠に「教育改革」が続いていく。これほど教育改革が好きな国もないだろうというくらい、ネコの目のように教育方針を変えている。



だが、この「日本の英語教育が間違っているから」という認識は、正しいとは言いがたい。そもそも教育改革でその問題がなんとなるなら、年々日本人の英語は進歩していなければならないが、そんな実感はない。



英語が苦手な人が、もし日本人のいない英語圏に住むことになれば、苦手なりに話せるようになるはずである。やや苦手なら、やや苦手なりに話せるようになるはずである。得意ならほかの人より内容の込み入ったことを話せるようになるはずである。つまり、「話せる」のレベルが変わるだけである。



だが、実際はそうはならない。常に「できる・できない」に二者択一だ。「話せる」か「話せない」かのどちらかに振れ、あいだがない。





こんなことが起こるのは、実は日本人にとって外国人と英語で話すということが、まるで水泳が苦手な人がプールに飛び込むのにも似た恐怖感を伴うからである。



いざ、話す段になると、英語を話すこと自体が恐怖となって、しどろもどろになる。それを繰り返すから、英語を話す経験が積み重ならないで、上達しないわけである。



これを突破するにはどうしたらいいのか。原理は簡単だ。それは「英語が話せる人」をどう定義するかしだいなのである。私は以下のように定義したい。



「英語を話せる人」とは、自分は英語が話せると思っている人のことである。



だから、英語が話せるようになるためには、自分が英語が話せると思うことにつきてしまう。発音がどうのこうの、文法がどうのこうのといったことは付録のようなもので、大事なのは「自分は英語が話せる」と思うことだ。



ではそれにはどうしたらいいのか。・・・長くなったので、続きはまたの機会に。



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