元少年A著『絶歌』(太田出版)の感想 | 真面目に脱線話@リンガランド英語塾

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酒鬼薔薇聖斗(さかきばら・せいと)を名乗る14歳の少年が、神戸で起こした連続殺人事件は、そのあまりに猟奇的なやり口と挑発的な殺人声明文などによって日本中の注目を集め、逮捕時には人々を震撼させるに至った。



私も当時、この事件については強く関心を持っていた。彼の出した犯行声明文は何度も読み返し、何を伝えようとしたいのかを読み解こうとした。



逮捕前、マスコミでは評論家たちは犯人について、「50代くらいの、かつて学生運動をおこなった世代ではないか」とか、「大人だろうが、意外と若い世代の犯行だと思う」などと、自分なりの見解を示していた。



私はそういった意見は少なからず違和感があった。さすがに確信までは至らなかったものの、この犯行声明文から私が受けた印象は、思春期からさほど離れていない少年が書いたものではないかというものだったからだ。



直感だけではなく、具体的な理由もあった。とくに、「自分のなかに、現実とは違うもう1つの自分が誕生し成長している。その人物は殺人という行為を追求している」といった内容について、妙に純粋で幼い印象を受けたことがある。



その内なる人物に、彼は「酒鬼薔薇聖斗」という大仰な名前を付けた。少年向けの漫画で大王や魔王などにつけられそうな名前だ。



だが、彼にとって酒鬼薔薇聖斗は実存だった。「現実の自分(=少年A)」は見るべきことのない人物(=透明な自分)だが、酒鬼薔薇聖斗という自分をコントロールする内なる自分は、殺人という(彼にとっての)聖なる儀式をおこなう人物である。



そういった描写も、理想の自分を追い求めて妄想を止められない少年を連想させた。



これはあとでわかったことだが、その犯行声明文は主には漫画のセリフから引用したものだったそうだ。ところどころに有名な殺人や死に関する本などから引用した表現もあり、ちょうど「コラージュ」のようにして作り上げた文章だった。



そのことを知らなくても、漫画に詳しくない私のような者から見ると、犯行声明文には漫画的なレトリックが鼻につく印象だった。



多くの評論家が犯人像を大人に見立てたほどの知的水準を擁していながら、同時に「酒鬼薔薇聖斗」などという大げさな名前とその過剰なレトリックは、読書体験の乏しさを感じさせた。



とはいえ、それでも私のイメージは17、18歳くらいであったので、実際に逮捕されたのが14歳だったという報道を見たときは、さすがに衝撃を受けた。



さて、元少年Aによる手記が出版されると報道されたのは、発売日直前だった。ネット書店はどこも売っているおらず、神田の書店を回ったのだがどこにも置いていない。大通りから1つ入った路地の小さな新刊書店でやっと見つけた。



初版10万部と報じられているが、もしそれが事実なら恐るべき売れ方だ。いや、もしかしたら有名書店やネット書店が売るのを控えただけかもしれない。



本書はご遺族の断りなくも出版されたそうなので、手記の出版は懺悔すべき人間がさらにご遺族を逆撫でし傷つけ侮辱する最悪の行為だ。



だから、名のある書店が売るのをためらう気持ちはわかるし、読むことに少なからずためらいの気持ちもある。



ただ、傍観者に過ぎない私ですら、あの事件は単なる一事件として終わらせることができていない。手記に何か決着の糸口をあればという気持ちもある。また、彼がなぜ手記を発表する気になったかも気になる。



特に知りたいことが2つあった。1には彼が家族、とくに母親のことをどう思っているのかということ、もう1つは現在どんな生活をおくっているかということ。



なぜ母親かと言えば、彼が殺人願望を抱くにあたり、母親の存在が少なからず影響を与えた可能性があるからだ。



ただし、それは「母親に息子が事件を起こした非がある」といった類いの話ではない。



どんな子供でも、とくに男の子であれば、母親と関係だったかはその後の人生を決める大きな要因となりうる。当時も「母親の影響」はさかんに論じられていた(後述)。




本書は2部に分かれる。第1部は彼が事件を起こして逮捕されるまで、第2部は逮捕されてあとから出所して現在にいたる。一部に文学的な処理がなされているが、全体はほぼ時間の経過どおりに流れる。



さっそく本文を読み始めると、華美なレトリックが連続して、読むのが辛かった。あの犯行声明文の「幼さ」が残っているようにも感じた。



同時に、場面を誠実に切り取って伝えようという真摯な姿勢も見えた。もともとの文才とともに、自分の所有する言葉で事実をできるだけありのままに伝えたいという姿勢によって、なんとか読ませる本には仕上がっている。



その書きようは、ちょうど強い自己抑制によって、醜いナルシズムに陥る1つ手前でなんとか踏みとどまっているかのようである。漫画的でもありながら、同時に、純文学的でもある不思議な雰囲気を醸している。



ただし、正確に伝えようというその「誠実な」態度は、必ずしも読む者に好感を与えるわけではない。



彼が殺人を犯したのは、その相手が憎かったからではなく、むしろ逆である。その倒錯した思いを真摯に描けば描くほど、読み手の不快感は高まっていく。また、それは亡くなった方たちの冒涜でしかない。



この状況は、たとえば彼がご遺族から「なぜ、何の罪のない子供を殺したのか」と問われたと仮定すればわかりやすいかもしれない。その問いに犯人が「お子さんが愛おしかったからです」と答えたら、遺族にとってそれほど理不尽なことはない。憎しみが倍増するだけだ。



彼が過去を誠実に描くことは彼の倒錯を描くことである。彼から懺悔の言葉を聞きたい者にとって、それは傲慢そのものだ。彼が誠実であればあるほど、読む者を行き場のない怒りへと追いやる。



手記を出版すれば、再び日本中から批難を浴びることになることは、もちろん彼もわかっていたはずだ。もし彼が文章で身を立てたければ、詩でも小説でも十分話題になったはずだ。だが彼は手記を選んだ。



彼は犯行声明文で自分には2度人を殺す能力があると言ったが、まさか・・・。



それでも彼が事件の手記を書こうと思った理由が1つ考えられる。それは家族、とくに母親とこの事件との関係を断つことではないだろうか。



本書の第1部では父親に対する思いが、第2部では母親と兄弟への思いが述べられる。



父親は、その理不尽な運命を背負いながら、一緒に罪を負っていく覚悟を決めた真面目な父性として。母親は事件のことが理解できず、それでも息子のすべてを愛そうと無償の愛を擁する母性として。兄弟は、幼い頃から兄(=少年A)からの理不尽ないじめを受けながらも、兄弟であることを受け入れようとするすぐれた人格を描く。



とくに母親については、この事件と母親が無関係であることを強調している。母親はいまだに「息子がなぜそれを犯したか」が理解できていない。また、息子はそのおぞましい自己を知ってほしくないと願っている。



だが、この手記を発表することで、彼のおぞましい自己は母親にも伝わることになるだろう。彼にとってのもう1つの覚悟なのだろう。彼は家族から突出した悪であり、その悪は自分自身が育んだものである。だからこそ、家族から切り離されるべき存在であると考えたのかもしれない。



彼が異常者であり、家族が正常者であれば、彼は単なる異物である。彼は純粋な異物であろうとして、あえて手記を世に問うたのではないか。



彼の育ち方については自分なりの考えはあるが、触れないことにする。彼の家族はすでに言いしれぬほどの試練をくぐり抜けており、遺族とは別の形で現在も苦しみつづけている。



本書の出版は、ご遺族とともに、彼の家族を再度苦しめる契機ともなりうる。それほどのリスクを負いながら出版したことには、家族への謝罪と同時に、世間に対して家族と自分、特に母親と事件とを切り離したいという切実な願いがあったのではないか。



今回はその気持ちを尊重したい。



本を手に入れる前、逮捕後の話は後日談程度に短くまとめる程度だろうと予想していたのだが、みごとに裏切られた。逮捕後の話である第2部は第1部の負けないほどのボリュームと迫力がある。彼にとって、逮捕後の経験はそれほどに大切なのだろう。



第2部では主に、周りの人のサポートによって被害者に対して心から申し訳ないと思うようになった経緯と、社会に出て社会性のなさから一部の人と摩擦を起こしていく様子、自分が少年Aであることを隠していることで信頼関係が築けない状況などが描かれる。



その中でもとくに印象的なエピソードがある。殺人を犯した自分の罪を認めながらも、与えられた「仕事」と軽視する同僚や先輩への心からの軽蔑を描いた箇所である。



彼は刑期中に覚えた溶接技術で正社員となる。ある日、同僚が仕事に手を抜いたために、取引会社が取引をやめると通告するほど激昂するのだが、彼は反感を持っていた先輩にそのぶんの濡れ衣を着せられてしまい、自分を拾ってくれた社長は内心で理解してくれたものの、最後は会社を辞めることになる。



彼は他人との(いや家族も含むのだが)コミュニケーションが決定的に苦手なのだが、不器用で無愛想でも、芯に温かさを持った人たちから言われたことには、自分でも不思議になるほど従順なのである。



だが、反対に嫌いな人物から言われると正論でも受け入れられず、またコミュニケーションな苦手なために摩擦を起こし、また「元少年A」であることが知られれば、結果的にその人たちに迷惑がかかるために、人間関係は短期間で破綻する。



最後は仕事でためた貯金を抱えて、漫画喫茶などを転々とする流浪の生活に舞い戻る。彼には金しか頼るものがない。



幼い頃から食べることすら興味がなく破壊願望をむき出しにしていた少年は、周りの人の支えによって、ついに「どんな形でもいいから生きたい」と考える。そのときに、自分の衝動だけで幼い命を奪った罪の深さをやっと認めることができるようになった。



彼が本書を書くことにした根本的な動機として、おそらくそういった流動的な人間関係に精神的に耐えられなったことがあるのかもしれない。生きることの大切さやすばらしさはわかったが、その状態で、その過去ゆえに社会につながらないでいることに、心が耐えられたくなったのかもしれない。



本を書くことは、再び社会とつながるための最後の手段だったのではないか。非難されるのはわかっていながらそうしたのは、批難でも何でもいいから社会とつながらないとやっていけないほど、限界に来ているからではないか。本書を出版してしまったという事実1つとっても、そこに突きつけられるのは、彼が立ち直ったと言うにはほど遠い状態にあるという残酷な事実だ。



本書はご遺族にとっても被害者の冒涜でしかなく、多くの人にとっては不愉快極まりない本でしかない。存在することすらおぞましいという気持ちだろう。しかし、本書はご遺族に告げられることもなく出版されてしまった。



もしあえて希望を探せば、この世界のどこかに生きる殺人衝動を抱えた人物に、何かの光を与え、もし1人でもその衝動を満たすことを思いとどまってくれれば、もしかしたらそれだけでも存在理由となるかもしれない。



生を全うすることは素晴らしく、それを奪うことは罪だ。だが、私たちは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに適切に答えることができない。それは理屈ではなく、感情であり、関係であり、経験だからだ。



ただ、実際に人を殺め、その切実な意味を知ったごく一部は、その答えを身を以て知っている数少ない人物たちなのかもしれない。それを言葉して伝えるのは不可能だとしても、それを大きな物語として伝えることができれば、読者の中に紛れ込んでいる次の酒鬼薔薇聖斗を誕生させずに済むかもしれない。



たとえ1億分の1の確率であっても、回り回ってこの日本でその1人が救われたとすれば、それだけで彼の手記が書いた意味がある。彼に対する拭いがたい嫌悪感を抱えながらも、出版された以上は、せめて誰かが救わる奇跡が起こればと願わずにはいられない。




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