宿奈川田神社 (白坂神社)
(すくなかわたじんじゃ)
河内国大県郡
大阪府柏原市高井田661
(P無し、すぐ横の近鉄高井田駅ロータリーには常時待ち合わせ等の車が駐停車しています)
■延喜式神名帳
宿奈川田神社の比定社
■旧社格
村社
■祭神
宿奈彦根命
高皇産霊命
「大和川」北側の川縁にひっそりと佇む小さな社。通称「白坂大明神」(白坂神社)。
◎当社は「式内社 宿奈川田神社」に比定され、かつて「白坂大明神」と称されていたのを明治五年に現社名に改めています。これは当社を式内社の後継社とみてのこと。複雑な歴史を歩んできたことが窺えます。
◎当社由緒書きによると、創建は崇神天皇六十三年五月であるとのこと。その根拠や由緒となるものについては示されていません。当時の状況から鑑みて、おそらくは誇張し遡らせたのであろうかと思われます。
◎御祭神は宿奈彦根命・高皇産霊命・科戸辺命の三座。宿奈彦根命はその神名及び諸々の経緯等から少彦名命とみて問題なかろうかと思います。紀には高皇産霊命の子とあります。記では神産霊命の子としていますが、これは遠祖不明な不明な神をこの神に結び付けた、或いは意図的にこの神に結び付けたと考えられるもの。従って高皇産霊命の系統と考えています。少彦名命の神格は記紀を始め各地の神社伝承等に様々に示されているも、その最たるものは製鉄鍛冶神であろうかと。科戸辺命は「踏鞴(たたら)製鉄」に必要不可欠な「風」を起こす神として祀られたものとみています。
◎同書によると、第45代聖武天皇六年(734年)三月に「川田の社」に御幸のとき当社に詣でたとのこと。
聖武天皇四年(732年)に「難波宮」が造られました。聖武天皇は「平城宮」から「難波宮」へ頻りに往来していたようです。そのちょうど中間地点となるのが「高井田」界隈。聖武天皇は「青谷遺跡」(竹原井頓宮跡)で二泊したと伝わります。
また第49代光仁天皇も宝亀二年(771年)二月に当社を参拝、以降は天皇が病気の時は勅を下して幣帛を授けたと同書は記しています。
◎同書は以下も記しています。
━━「川田の原」、「川田の森」の名有り、又その山林を指し「竹原」という。故に「竹原の里」、「竹原の山」「竹原の井」の名あり天湯川田の神社と共にこの地に鎮まります。二座の号に「川田」の二字を含む。「川田の原」の地名に因と号に俊成の歌に
賤濃女我川田乃原仁津武芹母
他我太女仁止天袖奴羅須良年
(しづのめが川田の原につぶせりも
たがためにとて袖濡らすらむ)━━
◎「川田」を巡り北西500mほどに鎮座する天湯川田神社との関係が重視されます。そちらの御祭神は社名通りに天湯川田奈命(天湯河板挙命・天湯河桁命)。「新撰姓氏録」には鳥取氏(鳥取造・都連・美努連氏)の祖であり、角凝魂命(ツノコリタマノミコト)の三世孫と記載。
折口信夫氏のように「湯川浴みをする(禊をする)水の女」とする見解はあるもののこれは的を得ておらず、谷川健一氏が言うように「金属器の製錬に適した水を求める神」、端的に言うならば製鉄鍛冶神とみてよいかと思います。
また「先代旧事本紀」には、饒速日命降臨の随伴神、「三十二人の防衛(ふさぎもり)」に少彦根命が見え、「鳥取連の祖」とあります。高皇産霊命を天照大神(男神とする)の父に位置付ける宝賀寿男氏は、その高皇産霊命の父が角凝命とし、その孫の天津彦根命と天湯川田命と同神であるという試案を出しています。これは天若日子や天太玉命、天背男命等を同神とするもの。またその子には少彦名命や天御影命(天目一箇神と同神とする)等がいるとしています。その真偽はさておき、天湯川田命や少彦名命が製鉄鍛冶に関わる神であるということは、これはもう疑いの余地がないものであろうかと。
さらに「大宮大明神末社帳」(応仁元年・1467年)という書には「当社は白坂大明神と称し、祭神は宿奈彦名命で天湯川田奈命の祖神である」としていると。以上から当社が鳥取氏の氏神として崇拝されていたと推察しています。
◎当社より北方は南北35kmに渡るという「生駒山地」。とりわけその南部に位置する地帯、天照大神高座神社や霊峰「高安山」を仰ぐ恩智神社は、製鉄鍛冶を連想させる社が密集します。鐸比古鐸比賣神社や金山彦神社、金山媛神社、龍田大社 本宮跡、御座峰(龍田大神降臨地)に当社と天湯川田神社等々。特に金山彦神社は当社と同じく鳥取氏が奉斎した社と考えられます。
◎当社地のすぐ側に高井田横穴墳墓群が築かれています。実数は200基以上あるとも。頂にはひときわ大きな高井田山古墳があり、事実上は百済王族であり雄略天皇の時代に渡来した昆支王(コンキオウ)の墳墓とされます。飛鳥戸氏の祖。高井田横穴墳墓群は一族のものとみてよいかと思われます。飛鳥戸氏の職掌は多岐に渡るとされ実態は把握しかねますが、専門技術を伝えるために渡来したというのは記紀が伝えるところ。多岐に渡る職掌のうちには製鉄鍛冶従事者が含まれていたのではないかと考えられます。この地で製鉄鍛冶が盛んに行われるようになった時期と渡来時期とが合致します。一族が鳥取氏の元で従事していたのではないかと考える次第。
◎当社地は字「白坂」と称されます。一方で北方1kmほどに二宮神社が鎮座します。「式内社 宿奈川田神社」の論社として掲出。そちらは字「白坂」であるとのこと。按ずるに現社地がとかく「地辷り」や「洪水」と自然災害で知られる「大和川」の川縁であることから、長い歴史の間に洪水で流されたりなど、遷座があったかと思われ、二宮神社が旧社地ではなかったかと。
◎天湯川田神社
◎当社地は字「白坂」と称されます。一方で北方1kmほどに二宮神社が鎮座します。「式内社 宿奈川田神社」の論社として掲出。そちらは字「白坂」であるとのこと。按ずるに現社地がとかく「地辷り」や「洪水」と自然災害で知られる「大和川」の川縁であることから、長い歴史の間に洪水で流されたりなど、遷座があったかと思われ、二宮神社が旧社地ではなかったかと。
◎一方で「河内名所図会」には、「高井田村東南に在り 土人白坂明神と称す 此地の生土神(産土神)とす」とあります。「白坂」というのは当社背後の「竹原山」の土が白いことからとされます。この「竹原山」というのは、すぐ背後の「高井田横穴群」の丘陵地のことでしょうか。
◎天湯川田神社
◎二宮神社
*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。
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