広島で講演を行い話題になっている著書、及び、ドキュメンタリー、
『語られざる米国史』の中で、
〝フランクリン・ルーズヴェルト大統領の後継が、
トルーマンではなくて、ヘンリー・A・ウォーレスが大統領になっていたら、
40年にわたる冷戦から世界を解き放っていたかもしれない―"
・・と言及した。
「宗教はすべて根本的には同じものであり,
人間は兄弟のようなものであり,
人々が協力し合えるように変えなければならない」と述べ、
異端視された副大統領ヘンリー・A・ウォーレスが、
思想的指導者として仰いだのが、
ニコライ・リョーリフでした。

ニコライ・リョーリフ(ニコライ・レーリヒ)1874年 - 1947年
Nicholas Roerich
ガガーリンは「地球は青かった」の名言のあとに
「レイリッヒのブルーのようだった」と言った。。
>ニコライ・リョーリフはドイツ系ロシア人の画家。
サンクトペテルブルクで裕福な公証人の家庭に生まれ、
世界各地で流浪の生涯を送った後、
インドのパンジャブで最期を迎えたコスモポリタンである。
渡米後は英語風にニコラス(Nicholas)と名乗った。
イェレナ夫人ともども神智学の導師として活動し、
共同でアグニ・ヨーガ協会を設立した。
美術界と法曹界で訓練を積んでおり、文学や哲学、考古学に関心を寄せた
知識人でもあった。
一般的には、ストラヴィンスキーの《春の祭典》の
着想・構想・舞台デザインに関わった美術家として名高い。
1929年、1935年パリ大学によって2度ノーベル平和賞候補に推薦された。(wikiより)
1910年、ストラヴィンスキーは、ペテルブルクで『火の鳥』の仕上げを行っていた際に見た幻影(”輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”)から新しいバレエを着想し、美術家ニコライ・レーリヒに協力を求めた。
・・それが、コレ↓ですね。

《春の祭典》は、ロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが
セルゲイ・ディアギレフが率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために
作曲したバレエ音楽。
ディアギレフは、すでに『牧神の午後』の振付していた天才ダンサー、
ヴァーツラフ・ニジンスキーをメインの振付師にする決意を固めた。
しかし、振付師としての能力には不安を抱いていたストラヴィンスキーは、
実はニジンスキーが音楽に関して全く知識を持ち合わせていないことに愕然とし、
リズム、小節、音符の長さといった、ごく初歩的な音楽の基礎を教えることから始め、
毎回音楽と振付を同調させるのに苦労した。
ニジンスキーは、振付及び指導の経験がほとんど無く、自分の意図を伝えることが不得手なニジンスキーはしょっちゅう癇癪を起こし、稽古は120回にも及んだ。
主役である生贄の乙女に予定されていたニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツが代役となった。ランベルクによれば、ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の見本は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかったという。
このような苦難の結果できあがった舞台は、レーリヒによる地味な衣装のダンサーの一群が、ニジンスキーの振付によって舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、
首をかしげたまま回ったり飛び上がるという、従来のバレエとは全く違うものであった。
曲が始まると、嘲笑の声が上がり始めた。野次がひどくなるにつれ、賛成派と反対派の観客達がお互いを罵り合い、殴り合りあい、野次や足踏みなどで音楽がほとんど聞こえなくなり、ついにはニジンスキー自らが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならないほどであった。ディアギレフは照明の点滅を指示し、劇場オーナーのアストゥリュクが観客に対して「とにかく最後まで聴いて下さい」と叫んだほどだった。サン=サーンスは冒頭を聞いた段階で「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」といって席を立ったと伝えられる。ストラヴィンスキーは自伝の中で「不愉快極まる示威は次第に高くなり、やがて恐るべき喧騒に発展した」と回顧している。
当時の新聞には《Le "massacre" du Printemps(春の『虐殺』)》という
見出しまでが躍った。