皆さま、週末はいかがお過ごしでしたか? 明日からまた1週間がんばりましょ~![]()
「今日はなんの日」のコーナーです。
参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。
(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)
今日、10月11日は・・・ 遅咲きの作曲家 「アントン・ブルックナーの命日」 です。
Joseph Anton Bruckner: 1824.9.4-1896.10.11; オーストリアの作曲家、オルガニスト
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、わしもやっと登場だわい」
と、寿司屋の大将のようなブルックナーさんも喜んでおられます (?)が、このシリーズでブルックナー初登場です
私は最初彼の交響曲を聴いたときは、「なげ~なぁ」「どれ聴いてもなんか似てるなぁ」「しつこいなぁ」「ジャン!って終わったと思ったらまた始まるなぁ」としか思えませんでしたが
、あるときムラヴィンスキーが振った交響曲第8番の第3楽章を聴いたときに、無意識のうちに涙が流れていました。 それからは大好きに。
初めて実演を聴いたのは交響曲第7番でしたが、そのときやけに周囲に男性が多いな~と思っていたら、ブルックナーファンって男性が圧倒的に多いということを後に知りました。
以前こんな本を紹介したことがあります。![]()
この本面白いですよ~
ブルックナー好きにはより彼に親しみが湧く(いや、逆もありかもw)と思われます![]()
ブルックナーといえば、私は上のようなすっかりおじいちゃんになった写真のイメージしかないですが、彼だって若いときはあったんですよね。今日は私の知らない時代のブルックナーのことをあらためて調べてみました。 いつもに増して今日はダントツに長いですが自己満なのでスルーしてください!![]()
ブルックナーは、1824年9月4日にオーストリアのオーバーエスターライヒ州アンスフェルデンで長男として生まれました。父親は小学校の校長兼教会のオルガニストでした。祖父と父の名前をとって、ヨーゼフ・アントン・ブルックナーと名付けられました。両親には11人の子供が生まれましたが、アントンを含む5人が成人しました(彼の下には3人の妹と弟がいました)。 父はオルガンの他ヴァイオリンも上手かったそうで、母は歌が上手く、教会の聖歌隊メンバーとして歌っていたそうです。
このような環境だったので、アントンは幼少期から自然にミサ曲など宗教音楽に親しんでいました。
4歳から父から音楽の手ほどきを受けました。(ちなみにこの年にシューベルトが他界、前年にはベートーヴェンが他界しています) 父から歌、ピアノ、オルガン、ヴァイオリンを学びました。
10歳頃には父の代理として時々教会のオルガンを演奏できるほどになっていました。
11歳から2年間は小学校教師で作曲家・オルガニストだった従兄ヴァイスのもとに預けられ、音楽理論の基礎を本格的に学びました。
1837年(13歳)に父が46歳で亡くなりました。その後すぐ母はアントンをリンツ近郊のザンクト・フローリアン修道院に連れて行き、彼は修道院付属小学校の給費制として預けられ、校長で少年聖歌隊長のボーグナーの家で寄宿生活を送りました。彼は少年聖歌隊として歌うのと同時に、一般教養の他音楽理論、声楽、ヴァイオリン、オルガン、ピアノ、和声などを学びました。
ザンクト・フローリアン修道院
この修道院は図書館もとても有名ですが、1774年に完成し1886年まで100年近く国内最大を誇った大オルガンがあります(フランツ・クサーヴァー・クリスマン製)。このオルガンはブルックナーが愛用したということで、今では”ブルックナー・オルガン”と呼ばれています。
ブルックナー・オルガン
1839年(15歳)に修道院付属学校を修了しますが、そのころは音楽家になることを考えていなかった彼は、父と同じ教員になるためリンツの初等教育課程教員養成学校に入校(ここでバッハのフーガの技法を学ぶ)、試験に合格し1841年(17歳)にヴィントハークという小さな村の補助教員として赴任します。この村で彼は楽団を結成してヴァイオリンを担当、農民たちの結婚式や踊りの演奏をしました(この時触れた民族音楽は彼の作品に影響している)。
.1843年(19歳)にクローンシュトゥルフの学校へ転任、近くなったザンクト・フローリアン修道院にもしばしば出かけ、聖歌隊長に再会し、再び音楽の指導を受けました。
1845年(21歳)、教師の正教員の認定試験に合格、同年9月からザンクト・フローリアン修道院付属学校の助教員となり、再び校長のボーグナーの家に寄宿しました。
1848年(24歳)に起きた「ウィーン三月革命」は、修道院にも影響が及び、ブルックナーは国民軍に入り軍事教練を受けました。
1850年(26歳)ザンクト・フローリアン修道院の臨時オルガニストに、翌1851年(27歳)には正式なオルガニストに任命されました。この年16歳のルイーゼに人生初のプロポーズをしますが失恋
(←これから何度もこのマーク出てきます
)
1852年(28歳)初めてウィーンを訪れ、ウィーン宮廷楽長のイグナーツ・アッスマイヤーと知り合いました。
1854年(30歳)に少年時代から面倒をみてくれた恩師の修道院長のミヒャエル・アルネートが逝去。
1855年(31歳)に上級学校教員の認定試験を受け、合格。同年からウィーン音楽院教授のジーモン・ゼヒターの門下に入り、和声と対位法を学びました。同年リンツ大聖堂の専属オルガニストが空席となり、11月に登用試験が行われましたが、受験者はうまく演奏できず、試験の観客として観に来ていたブルックナーが急遽弾いて見事第一位の座を勝ち取りました。 ザンクト・フローリアン修道院のオルガニストを辞任。
ブルックナーの恩師 ジーモン・ゼヒター (1788-1867)
1856年(32歳)1月に正式採用の選考会に参加し、合格、4月に正式にリンツ大聖堂(および小教区)のオルガニストに就任しました。この頃、のちに天敵となる評論家エドゥアルト・ハンスリックと知り合いました。
1861年(37歳)にゼヒターのもとで6年間師事した対位法、カノン、フーガなどすべてのレッスンが修了。
友人の紹介で、リンツ市立歌劇場の指揮者オットー・キッツラーを知り、今度は自分より10歳も若いキッツラーから楽式や管弦楽法を2年間学びました。
ブルックナーの恩師2 オットー・キッツラー (1834-1915)
ブルックナーは、キッツラーのもとで初めてソナタ形式やベートーヴェンの音楽様式を学び、リストやワーグナーの管弦楽法を研究するため、あらためて総譜を根本から勉強しました。彼は、キッツラーとの勉強の内容を「キッツラーの練習帳」に記録していきました。
また、この年の11月にウィーン国立音楽院の和声学・対位法の教授になるための能力試験を受け、恩師ゼヒターらの試験官を圧倒する見事な即興演奏を行い合格しますが、実際に音楽院の教授になるのは7年後の1868年(44歳)のことになります。
1860年(36歳)頃のブルックナー
1863年(39歳)7月に「交響曲へ短調」が完成し、キッツラーのレッスンが修了、キッツラーはリンツを離れルーマニア西部のティミショアラへと去りました。「キッツラー練習帳」は326頁に及んでいました。
キッツラーはのちに、ブルノでブルックナーの「テ・デウム」や「交響曲第4番」を演奏し、その際ブルックナーを招待するなど(第4番のときはブルックナーが病気で行けず)、交流は続きました。
ブルックナーは今度はリンツ劇場のヴァイオリン奏者イグナーツ・ドルンのレッスンを受け始めました。
1865年(41歳)1月より「交響曲第1番」に着手、翌年4月に完成。6月にミュンヘンで「トリスタンとイゾルデ」の初演を聴き、この年にワーグナー、アントン・ルビンシテイン、ハンス・フォン・ビューロー、リストなどに会い、面識を得ました。この頃からワーグナーに傾倒していきます。
1866年(42歳)ベートーヴェンの第九を聴き深く感動。この年に17歳のヨゼフィーネ・ラングにプロポーズするも年の差を理由に断られ失恋![]()
1867年(43歳)ウィーン大学の和声と対位法の講師とウィーン宮廷礼拝堂のオルガニストの職を志願するもどちらもかなわず。9月に恩師のゼヒターが他界。
1868年(44歳)5月に「交響曲第1番」(リンツ稿)が彼自身の指揮で初演されましたが、失敗。
ウィーン宮廷歌劇場総監督で友人のヨハン・ヘルベックの推薦のもと、ゼヒターの後任として10月にウィーン国立音楽院の教授、同時に王室宮廷楽団の無給オルガニスト補に就任、ウィーンへ移住しました。
教授職は68歳までの24年間にわたって務めました。
このヨハン・ヘルベック、その後もたびたび登場しますが、ブルックナーに本当に献身的に支援した方です。この人がいなければ、ブルックナーの成功はなかったかも?しれません。
ヨハン・ヘルベック (1831-77)
ブルックナーの講義は厳格でしたがユーモアと説得力があり、学生たちに評判も良かったそうです。弟子たちをかわいがり、夜にはレストランや酒場で夜遅くまで飲んだり談笑したそうです。彼らはやがてブルックネリアーナとなりました。
門下には、フェリックス・モットル(指揮者)、ヨーゼフとフランツ・シャルクの兄弟(指揮者)、フェルディナント・レーヴェ(指揮者)、ヴラディーミル・ド・パハマン(ピアニスト)、グイード・アードラー(音楽学者)、ハインリヒ・シェンカー(理論家)、エルンスト・デチェイ(評論家)、フランツ・シュミット(作曲家)など、のちにはアウグスト・ゲルレーリヒ(ピアニスト/ブルックナーの伝記作者)、ルードルフ・クルシシャノフスキー(指揮者)、エミール・パウール(指揮者)、アルトゥ―ル・ニキシュ(指揮者)、フリートリヒ・クローゼ(作曲家)、カミロ・ホルン(作曲家)、ハンス・ロット(オルガニスト)などたくさんの音楽家が育ちました。
1869年(45歳)に「交響曲ニ短調(第0番)」を作曲、ウィーンフィルの首席指揮者だったオットー・デッソフに初演を打診したところ、「一体、どれが第一主題なんでしょうね?」と質問され、おじけづいて作品を引っ込めてしまい、生存中に初演はされなかったとされています。
この年、フランスへオルガンの演奏旅行に出かけ、パリのノートルダム寺院の大オルガンの演奏会の客席にはフランク、サン=サーンス、オーベール、グノーなど著名な芸術家が来ており、彼の即興演奏は称賛されたそうです。 また、この年17歳のカロリーネにふられ失恋![]()
1870年(46歳)1月に同居して彼の世話をしていた妹のマリーア・アンナが肺結核のため33歳で他界。ひとりになったブルックナーは、カタリーナ・カッヘルマイヤーを家政婦に雇い、彼女は「カティおばさん」と呼ばれ、ブルックナーが亡くなるまで献身的に彼のために働きました。7月に14年務めたリンツ大聖堂のオルガニストの職を辞任。 この頃副業として、リング内聖アンナ通りの王立教員養成所の助教員としてピアノやオルガンなどのレッスンをしていました。
1871年(47歳)ロンドンに招かれ、8月にオルガンのリサイタルに出演、大成功を収めました。気分よく帰国した彼でしたが、10月に前述の王立教員養成所の授業中に、女子学生に「かわい子ちゃん(liber Schatz)」と親しげに話しかけたと、隣の生徒が学校当局に訴える事件が発生
、調査の結果、結局はおとがめなしになりましたが、彼はその後は男子生徒だけに教えることになりました。
1872年(48歳)6月にウィーンで自作の「ミサ曲第3番」を初演、会場にはリストがおり、評論家のハンスリックも高評価の記事を書きました(この頃まではハンスリックも彼に好意的でした・・) 9月に「交響曲第2番ハ短調」が完成、オット―・デッソフがウィーン・フィルと初演を試みますが、リハの段階で楽団員に「演奏不能」といわれ、このときは初演を見送られてしまいました
ブルックナーはこの交響曲をウィーン・フィルに献呈しようとしますが、冷遇され撤回します。その後(1884年)にさらにリストに献呈しようとしますが、リストは旅行先のブタペストにこの総譜を置き忘れた上、あとから言い訳のような固辞の手紙をブルックナーに送ってきました。ブルックナーは落胆し、結局この交響曲は誰にも献呈されていません。
1873年(49歳)8月にバイロイトへ行き、当時60歳のワーグナーを訪問、「交響曲第2番ハ短調」と第3楽章まで完成していた「交響曲第3番ニ短調」の総譜を見せました。そのころバイロイト祝祭劇場の建設などで多忙だったワーグナーは、最初は適当にあしらって追い返しますが、ブルックナーが置いていった総譜を見てその真価をさとり、慌てて彼を探しに行き、祝祭劇場の工事現場にたたずんでいたwブルックナーを見つけて呼び戻し自宅の夕食に招いてもてなしたそうです。「交響曲第3番」はワーグナーに献呈されました。 ただ、この行動は、反ワーグナー派の評論家ハンスリックから敵対視
されることになり、以後作品を発表するたびに酷評され続けられることとなります・・・![]()
10月に友人ヘルベックの尽力で、前年初演を見送られ冷遇されたウィーン・フィルの演奏で、ブルックナー指揮のもと「交響曲第2番」が初演されました。 12月に「交響曲第3番ニ短調」が完成。
1874年(50歳)ウィーン大学に音楽理論講座を開設し専任ポスト要請の請願書を3度にわたって送りますが、ハンスリックが反対し却下されます。 11月に「交響曲第4番変ホ長調」(第1稿)が完成(全曲初演は死後1901年)。
1875年(51歳)ブルックナーは、友人のモーリツ・マイフェルト宛の手紙に自分はウィーンに来るべきではなかったと後悔し、『私の人生は一切の喜びと楽しみを失いました』 『交響曲第4番を写譜してもらうお金もない』と嘆いています。 前年秋に(あの「かわい子ちゃん事件」の)聖アンナ教員養成所の職を失い年額1000グルテンの収入がなくなり、文化教育庁作曲奨励金も得られない、など苦境の中にあり、『すべては遅かった。たくさんの借金をして、借金の山の中で自分の勤勉の果実を味わい、ウィーン移住という愚行をその地で謳ったことは、私の最後の運命かもしれない』と書いています。
このような中で「交響曲第5番変ロ長調」に着手しました。
7月に前年3度にわたって却下された、ウィーン大学での音楽理論講座開設とその専任ポストに自分を任命してほしいという4度目の請願をし、やっと認められ、12月から講義を開始しました(ただ無給の名ばかり職でした・・)
友人ヘルベックの尽力で、「交響曲第3番」の初演がウィーン・フィルの演奏で決まったものの、またもやリハの段階で楽員たちから「演奏不可能」と言われ流れてしまいました。
1876年(52歳)またもやヘルベックのはからいで、ブルックナーは2月に楽友協会で「交響曲第2番」の改訂版を指揮しました。5月に「交響曲第5番」を書きあげ、8月に第1回バイロイト音楽祭に出席、「ニーベルングの指環」の初演を観劇、大いに刺激を受け、それまでの自らの作品を大幅に見直すことを決意(「第1次改訂の波」)、交響曲第1~5番が大幅に改訂されました。
この頃ブルックナーへのハンスリック(彼が実質ウィーンを牛耳っていた)ら批評家のバッシングが頂点に達しており、中立的な音楽家たちは巻き込まれるのを恐れてブルックナーに近寄らなかったといいます。
1877年(53歳)ブルックナーは「交響曲第3番」の初演をウィーン・フィルに再度要請しますが拒否されます。しかし、またまた友人(ウィーン・フィルの指揮者)のヘルベックが団員の代表者と会議を開き、12月に演奏する同意をやっと取り付けました。しかし!10月にヘルベックが急死
ブルックナーは自分で指揮せざるを得ませんでした。12月16日の初演の日・・・大失敗に終わりました
楽章が終わる毎に聴衆が席を立ち、終演後まで残っていたのは少数だったといいます。17歳のマーラーは最後まで聴いていた一人でした。彼は深く感動しブルックナーもマーラーの賛辞に喜び、この曲のピアノ編曲を彼に依頼、後に出版されました。 しかし、とにかくこの大失敗(ハンスリックも超酷評・・)にブルックナーは大いに落胆し、しばらく作曲できないほどでした![]()
ちなみに、この第3番にまつわる話~ワーグナーを訪問したとき、ウィーン・フィルとのリハ、本番~については、先に紹介した高原英理著「不機嫌な姫とブルックナー団」
にそのときの様子が詳しく書かれてあります。 多少の脚色はあるでしょうが、聞くも涙、語るも涙の話で、これを読んで私はしばらくウィーン・フィルを憎々しく思っていました![]()
高原英理著「不機嫌な姫とブルックナー団」(講談社)
1878年(54歳)「交響曲第5番」に新たにバス・テューバを加え全曲を改訂、また「交響曲第4番」も改訂(1878年稿)。王室宮廷楽団の正式オルガニストに採用、宮廷楽団の正会員となり収入を得られるようになりました(それまで無給)。
1880年(56歳)8-9月にチューリヒ、ジュネーブ、ローザンヌなどを訪れ、演奏会でオルガンを演奏。
それまで無給だったウィーン大学の講師職に300グルテンの年棒がつきました(日本円で月額10万円程度)。「交響曲第4番」を改訂(1878/1880年稿)。(この有給化を大学当局に働きかけたのは、意外なことに天敵のハンスリックだそう)
1880年頃のブルックナー
1881年(57歳)2月「交響曲第4番”ロマンティック”」がハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルの演奏で初演、初めて大成功を収めました
このリハーサルの時のエピソードがあります。リハが終わると、ブルックナーはリヒターの手に硬貨を押し込み、”これを受け取ってください””私の健康のためにビールを一杯飲んでください”と言ったそうです。リヒターはこのマリア・テレジア銀貨を自分の時計の鎖に付けてその後もずっと身につけていたそうです。
「交響曲第6番イ長調」が完成。(この第6番はブルックナーが改訂しなかった唯一の交響曲)
「交響曲第7番」に着手。
1882年(58歳)バイロイトで「パルジファル」初演を観劇。ワーグナーは、「ベートーヴェンという山に登って到着できるただ一人の人を知っている。それはブルックナーだ。」 と語ったそう。
1883年(59歳)フェリックス・モットルへの手紙に、こう記しています。
『ある日、家に戻る途中大変悲しい気持ちに襲われた。ワーグナーはもう長くは生きられないのではないか、と私は考えていた。そのとき嬰ハ短調のアダージョ(第7番第2楽章)の楽想が浮かんできたのだ』
2月11日にワーグナーが死去、この日ヴィルヘルム・ヤーン指揮&ウィーン・フィルにより「交響曲第6番」が演奏(ただし、勝手に第2、第3楽章のみの演奏にされた)されました。(全曲の初演は彼の死後3年後の1899年マーラーによりますが、このときもカット版。完全な形での全曲初演は1901年のシュトゥットガルト宮廷楽団による)
「交響曲第7番」第2楽章のクライマックスを作曲中にワーグナーの訃報を受けたブルックナーは、悲しみの中でコーダを付け加え、第184小節以下をワーグナーのための「葬送音楽」を呼びました。(私はこの部分を聴くといつもウルウルとなってしまいます・・・
) 9月に第7番を完成させ、のちにバイエルン国王ルートヴィヒ2世に献呈。
1884年(60歳)2月にワーグナー協会演奏会で批評家たちを招いてヨーゼフ・シャルクとフェルディナント・レーヴェにより「交響曲第7番」がピアノ2重奏で演奏されました(指揮者のニキシュは第7番の初演を成功させるためにまずピアノ版を聴かせたといわれています)
12月30日にライプツィヒで「交響曲第7番ホ長調」が初演(ニキシュ指揮ゲヴァントハウス管)され、大成功を収めました
(この日を”ブルックナーの世界的名声誕生の日”と呼ぶ人もいます)。ブルックナーは知人宛の手紙で、『終了後15分間拍手が続きました』と書いています。ある演奏会では、第2楽章が3回もアンコールされたそうです。 この頃からブルックナーの名声がだんだんと上がり始めます。
この年の夏頃から「交響曲第8番」に着手。
1885年(61歳)1月「弦楽五重奏曲」の全曲初演が楽友協会ホールでヘルメスベルガー四重奏団のによって演奏され、大成功を収めました(各楽章毎にブルックナーへ拍手が向けられたそうです)。
この頃から彼の交響曲が各地で演奏されるようになりました。オランダのハーグ、ドレスデン、フランクフルト、ミュンヘン、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場などで演奏されました。
3月にドイツの画家ヘルマン・フォン・カウルバッハのアトリエで肖像画を描かれました。![]()
5月に「テ・デウム」の楽譜を出版。10月にウィーン・フィルへの手紙で、交響曲第7番の演奏の申し出を断っています。『ウィーンではハンスリックと一派がいるので・・・』と結んでおり、よほどハンスリックを恐れていたんでしょうね。ウィーン・フィルもあんなに馬鹿にしていたのに今さらという感じです・・・![]()
この年17歳のマリーと恋仲(?)になり、「私の身も心も永遠に貴女のものです」と書きましたが、失恋![]()
この頃から病気がちになり、歩行やオルガン演奏に支障が出始めました。
1886年(62歳)1月に楽友協会で「テ・デウム」が初演(ハンス・リヒター指揮)され、高い評価を得ました。この曲は「交響曲第7番」とともに彼に大きな名声を与え、彼の生前に30回も演奏されたそうです。3月には(前年に断った)交響曲第7番がウィーンで初演(ハンス・リヒター指揮)され、聴衆は盛大な拍手を送りましたが、ハンスリックは「不自然で大げさ、病的で退廃的」とまたまた酷評![]()
7月にリストが他界、ブルックナーはリストの娘コジマから葬儀に招かれ、式でオルガンの即興演奏をしました。
1887年(63歳)8月に「交響曲第8番」第1稿が完成し、「交響曲第9番」に着手。9月に第8番第1稿の写譜に「気に入ってほしい」と添え書きして、”芸術上の父”と尊敬していたヘルマン・レーヴィに送りますが、彼からは「演奏困難」という返事がきました。さらに、強力な支持者で彼の音楽の普及に尽力していたヨーゼフ・シャルクら友人たちからも改作を勧められました。ブルックナーは大きなショック
を受け、自己批判的になりさらに神経衰弱気味となり、第9番の作曲を中断、第8番の改訂にとりかかり、その勢いで2-3年ほどかけて第1~4番も改訂されました(「第2次改訂の波」)。
1888年(64歳)1月リヒター指揮&ウィーン・フィルでブルックナーの作品演奏会が開かれ、「交響曲第4番」と「テ・デウム」を演奏、大成功しました。4月にはニューヨークで交響曲第4番が演奏。
1889年(65歳)「交響曲第9番」第2楽章のスケッチまで完了しましたが、その後はこの作曲を中断して第8番の改訂などに専念しました。
10月にブラームスとブルックナー双方の友人の計らいで、ふたりは初めて一緒に会食しました。ふたりの好物が一緒で話ははずんだそうです。ブルックナーがブラームスに対してかつての不満が振舞いに出ても、ブラームスは終始丁重に対応したそうです。ただし、ブラームスは、プライベートではブルックナーの交響曲を「交響的うわばみ」とか「にせものはすぐ忘れられてしまうだろう」など批評していたようです。一方ブルックナーも「ブラームスの交響曲よりヨハン・シュトラウスの方がずっといい」と語っていたそうです。
ヨハン・シュトラウスは、ブルックナーの第7番の初演を聴いて、「大変感動した。わが生涯で最も強い印象を受けたひとつだ」という電報をブルックナーに打っています。
ところでこの年、18歳のリーナにまたもや失恋![]()
1890年(66歳)3月に「交響曲第8番」第2稿の改訂が完了、4月に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に献呈されました(ブルックナーは出版費の負担まで皇帝に要望、1500グルテンを支払わせている・・)。ブルックナーは、以前「演奏困難」と言われたヘルマン・レーヴィに再度手紙を送り、レーヴィは第8番のための出版社と指揮者を探すことに尽力し、マンハイムの宮廷楽長の27歳のワインガルトナーを推薦しました。 ところがワインガルトナーは全く返事せず、ブルックナーからの再三の要請を受けたあと、1891年4月に辞退の手紙を送ってきました。
医師から「慢性咽喉頭カタル」「重度の神経症」と診断され、7月にウィーン国立音楽院に1年間の休職を申請しますが、体調は芳しくなく、翌年1月には同音楽院の教授職を辞任しました。
12月に「交響曲第3番」第3稿がリヒター指揮&ウィーン・フィルで楽友協会で初演、今度は大喝采を受けました(1877年12月の第1稿初演から苦節13年!やっと第3番が認められた!
)(この第3稿の楽譜はまたもや皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世が印刷費を負担・・) この年17歳のヴィースナーにまた失恋![]()
1891年(67歳)ウィーン大学から音楽家としては初めて名誉哲学博士号が授与、その式典で学長は「ウィーン大学学長の私は、今日かつてのヴィントハークの小学校教諭の前に頭を垂れる」と演説、ブルックナーは返礼として「交響曲第1番」改訂版(ウィーン稿)をウィーン大学に献呈、12月にリヒター&ウィーン・フィルで楽友協会で初演されました。
5月にベルリン滞在中に病に伏しホテルで静養した際に、部屋係の19歳のイーダ・ブッシュと懇意になり、彼女はブルックナーからの指環も受け取り結婚も承諾、ついに愛が成就か!?と思いきや、彼女がプロテスタントであることが分かり、ブルックナーはカトリックへの改宗を求めた結果、彼女は指環を送り返しました
同年18歳のミーナにも失恋
ウィーン楽友協会名誉会員となり年440グルテンが支給開始。
1892年(68歳)5月に健康状態が悪化、医師たちの診断書には、動脈硬化、心不全、下肢水腫、静脈瘤、肝硬変、糖尿病と書いてあります。ブルックナーは安静、食事療法、強心剤などの治療を受けました。そんな中でも夏にはバイロイトへ行き、「パルジファル」「タンホイザー」を観劇し、ワーグナーの墓参りもしています(それまでも彼はたびたび墓参りしていますが、なんと律儀なブルックナー・・・
ワインガルトナーに初演を拒否された「交響曲第8番」が12月18日に楽友協会でリヒター指揮、ウィーン・フィルで初演、大成功を収めました
客席にはマリア・テレジア、ブラームス、ヴォルフの姿がありました。 ちなみにこの年16歳のアンナに人生最後の愛の告白をしますが失恋
ウィーン宮廷礼拝堂のオルガニストを辞任。
1893年(69歳)8月に完成作としては生涯最後の作品となったカンタータ「ヘルゴラント」を作曲。
11月に遺言書を作成。それには、作曲中の第9番も含む9つの交響曲、3つの大ミサ曲、詩篇150篇、ヘルゴラント、弦楽五重奏曲、テ・デウムのオリジナル手稿譜をウィーンのオーストリア帝国図書館に遺贈と保管の願い、自身の埋葬場所の希望(金属の棺に入れてザンクト・フローリアン修道院の大オルガンの下に埋めてほしい)、相続人を弟のイグナーツと妹のロザーリアにすること、長年にわたって身の回りの世話をしてくれた「カティおばさん」こと家政婦のカタリーナ・カッヘルマイヤーには、(自分が死ぬときまで面倒を見てくれた場合は)700グルテン(日本円で280万円くらい)を贈ることなどが書いてありました。 12月に「交響曲第9番」第1楽章が完成。
1894年(70歳)の年が明けるころには健康状態がやや落ち着いたため、演奏会のためにベルリンを訪れました。2月に第9番の第2楽章が完成。 3月には復活祭のミサでオルガンも弾いています。11月12日にウィーン大学で最後の講義、講師職を辞任。 楽友協会の第1回演奏会では「ミサ曲第3番」が、第2回演奏会では「交響曲第2番」が演奏され、それぞれ大成功しました。(第2番ではブルックナーは楽章毎に聴衆に対し答礼をするほどでした) 11月30日に第9番の第3楽章が完成。
12月に入ると容態が悪化、胸水がたまり(心不全のうっ血のためともいわれる)、9日には終油の秘蹟が行われたほどでした。
1895年(71歳)このころブルックナーはヘス通り2番地の4階建て(日本でいうと5階)の最上階に住んでおり、彼の外出などの際には特別の椅子を使って二人がかりで5階から1階まで下ろしていました。主治医の勧めもあり、ブルックナーは1月にリヒテンシュタイン公爵に部屋の手配を願い出ますが、よい返事はもらえませんでした。そこで彼は今度は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に居城のひと部屋を提供してもらえないかおうかがいを立てたところ、ベルヴェデーレ宮殿の傍にある宮殿職員(管理人)用の平屋建て(入口は平屋に見えるが実際はそれより低い位置から建つ3階建ての建物の最上階)の住居を皇帝から賜与されました。ここが彼の終の棲家となりました。
彼は亡くなる日までここに住み、日曜には近くの礼拝堂に礼拝に行き、カティが付き添って敷地内の庭園の散策も楽しんだそうです。
私は以前この住居を見たことがあります。(ただ内部は公開されていないので、外観のみ)![]()
ブルックナーの終の棲家(2015年に撮影)
彼が住んでいたと書いてあるプレート
この住居前で1896年に撮影された写真
(左から医師のリチャード・ヘラー、家政婦のカティ、ブルックナー、弟のイグナーツ(入口付近)、医師のレオポルト・シュレッター(背を向けている)、シュレッターに隠れて見えないがカティの娘のルドウィカ・クチェラ)
1896年(72歳)1月には病をおして椅子に乗せられて、2度(交響曲第4番とテ・デウム)を、3月末にも1度演奏会を聴きに行っています。ただし、このころには24時間の介護が必要で、家政婦のカティは自分の娘まで呼び寄せて手伝わせています。7月に肺炎にかかり3度目の終油の秘蹟が行われますが、なんとか回復。
恐らく生前最後の写真(1896年7月17日 主治医のヘラー博士撮影による)
10月11日は気分よく目覚め、朝食後午前中はピアノに向かって交響曲第9番の第4楽章を作曲していました。昼食はスープとソーセージを食べ、医師の診察も受けています。 午後3時頃寒気を感じ、カティにお茶を頼みました。カティは横になるように勧め、カティの娘と介護人がベッドまで連れて行きました。カティがお茶を持っていくと、ブルックナーはカップに3回だけ口をつけ、ベッドに横になり2回大きく息を吸い込むとそのまま亡くなったそうです。午後3時半ころのことでした。72歳でした。
この日が日曜日で、職員住居でもあり多くの人が集まりやすかったこと、彼が独身で回収業者が出入りしたことから草稿の多くはこの時に散逸してしまったそうです。
第9番は結局未完に終わりましたが、彼は晩年に、こう言い残したといいます。
「第9番は愛する神に捧げるために書いた。もし未完のまま終わるようなことがあれば、最終楽章の代わりとして「テ・デウム」を演奏してもらいたい。それが作曲の動機にふさわしい」
彼の葬儀は10月14日にカールス協会(聖カール教会)で盛大に行われました。この時交響曲第7番第2楽章が弟子のフェルディナント・レーヴェによりホルン四重奏に編曲されて演奏されました(指揮はハンス・リヒター)。 葬儀にはブラームスも来て、教会の入り口にたたずみ葬儀の様子を遠巻きに見ていたと伝えられています。係の者が中に招きいれようとしましたが、「次は私の棺を担ぐがいい」と言い捨てて去っていったそうです。しかしまた戻ってきて、柱の陰で泣いていたのが目撃されたという話があります。ブラームスもこの半年後の翌年4月3日に亡くなっています。
遺言に従い、亡骸はザンクト・フローリアン修道院教会の大オルガンの真下の地下墓所に安置されました。下世話な話ですが、財産は日本円でいうと約1億1400万円だったそうです。
ザンクト・フローリアン修道院の地下墓所(大オルガンの真下)にあるブルックナーの棺
その真上には彼の墓碑が
この建物内には「ブルックナー・ルーム」という小部屋もあり、臨終のときの真ちゅうのベッド(写真上:前述の写真のベッドです)や彼愛用のピアノや家具(写真下)が展示してあるようです。
このピアノは恐らくザンクト・フローリアン修道院の裁判所書記官フランツ・ザイラーから遺言で譲られたベーゼンドルファー製のピアノだと思います。フランツ・ザイラーは、ブルックナーの生まれ故郷のアンスフェルデンからの付き合いで、彼は修道院でブルックナーに色々と便宜を図ってくれました。ザイラーが購入したベーゼンドルファーのピアノは彼の死後は遺言によってブルックナーに譲られました。このときブルックナーは24歳。以後数々の名曲がこのピアノによって作られ、亡くなる直前まで傍らにありました。
若きブルックナーは、ザイラーの死を悼み、ザイラーの死の翌年(1849年)に「レクイエムニ短調WAB39」を作曲、ザイラーの一周忌の9月15日にザンクト・フローリアン修道院で初演されました。
このピアノの前のブルックナー
(50年近くこのピアノを愛用していたんですね)
私のブログ史上最も長くなってしまいました![]()
彼の生涯をたどって、彼の行動を見ているだけでも彼の人物像が見えてくるように思えます。
優柔不断なゆえに改訂を繰り返したようにも思えますが、実はプライドも高く頑固一徹、最後には自分の思ったようにするっていう人のような気もします。 そして彼の人生その時々で、彼がひどいバッシングを受けても彼を支援し続けた色んな人たち。彼らのおかげでブルックナー作品が後世に残ることになったといっても過言ではないかもしれません。
それでは今日の曲です。彼が生涯最期の日まで筆をとっていた「交響曲第9番」から第3楽章です。
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調より 第3楽章 Adagio (25分16秒)
/ アバド&ルツェルン祝祭管
冒頭の弦の(9度?)跳躍を聴くたびに、シューベルトの「未完成」第2楽章のおんなじような弦の跳躍を思い出します。
そういえば、昨年11月にティーレマン&ウィーン・フィルでブルックナーの第7番を聴いたんですが、終演後になんとティーレマンのサイン会がありました。
その際、私は「演奏素晴らしかったです」というのを「Wunderbar」という言葉を交えて言って、お礼をいって去ろうと背中を向けると、傍にいた通訳の方(この方眞鍋圭子さんといってカラヤンの元秘書も務めた方です)に、「素晴らしいのはアントンだって(ティーレマンが)言ってますよ。」と声をかけられた。「え?」と振り向くと、もう一度「アントンが素晴らしいからだって言ってますよ。」とニッコリして言われた。 「あ、ああ! だ、ダンケシェーンです!」と慌てて言いましたが、ティーレマンはすでに次の人のサイン中でした。気安くアントンって呼ぶんじゃね~ってちょっと思っちゃいましたがw、ティーレマンもブルックナーをとっても尊敬してるんですね~![]()
ブルックナーの音楽は理解しづらく”難解”と言われることも多々あるようですが、そうなのかな?
そもそも音楽って「理解」するものなんでしょうか。
私は理論的なことは深く理解していませんけど、彼の音楽を五感で十分感じることができる気がします。
「そもそもブルックナーの音楽とは~」とか言う奴ね、苦手です![]()
ブルックナー、やぼったいおっさんというイメージがあるかもしれませんが、水泳やダイビングが上手く、ダンスも得意だったそうですよ~![]()
ウィーン市立公園にあるブルックナーの胸像(2015年撮影)
























