今日は、ぜひ皆さん・・・特に若者に知っていただきたい人物をご紹介致します。 それは
山口 良忠 判事
名前は知らずとも、逸話を聞けば「あぁ、あの!」と思い出す昭和世代の方は多いと思うのですが・・・今日は、この方の命日にあたります。
山口判事(左)とそのご家族
山口判事は1913(大正2)年、佐賀県の生まれ。
京都帝大を卒業後、高等文官司法科試験に合格すると刑事事件を担当する裁判官となり、1942(昭和17)年から経済事犯担当として東京地方裁判所に勤務していました。
折からの大東亜戦争下、政府は食糧管理法を制定。
強制的に食料を供出させ一定量を国民に配給したものの、食糧不足は目に見えて深刻化。
敗戦後の配給米は、ひとり1日2合1勺・・・すなわち380cc、牛乳1ℓパック1/3分。
一見多そうですが、それ以外の食糧が殆どない状況ですから全く足りません。
また時々米以外の穀類で代用されることもあり、おまけに遅配は日常茶飯事だったとか。
山口判事が住んでいた世田谷区では、1946(昭和21)年5月の時点で遅配が11日以上・・・即ちそのままでは11日間何も食べられないという、過酷な状況でした。
当然のことながら国民は〝ヤミ物資〟に手を出す事となりますが、山口判事はそのヤミ行為に加担した者を処罰する立場にありました。
「ヤミ物資を取り締まる立場の者が、ヤミ米を食べるわけにはいかない。」
という信念を曲げず、育ち盛りの子供2人に僅かな配給米を食べさせ、妻と共に殆ど汁だけの粥をすすって耐えた山口判事。
あまりの窮状を見かねた義父や親戚が差し入れようとした食料をも受け取ろうとはせず、遂に裁判所内で倒れてしまいます。
郷里・佐賀に帰り静養したものの体調は回復せず、1947(昭和22)年10月11日に極度の栄養失調と肺浸潤のため、子供達が無邪気に階下で遊ぶ自宅の二階で33歳の若さで絶命。
実質的には、餓死でありました。
法の矛盾に気づきながらも、職務に忠実であり続けた山口判事。
その立場ゆえ自らの命を捨てる一方で、逮捕された被告たちには同情し情状酌量を加えた判決が多かったといいます。
ここで、山口氏の没後60年を記念して出版された、
『殉法判事 山口良忠 遺文』
(宮村多樫・著 密書房・刊)
から、矩子夫人の回想を以下にご紹介します。(※一部抜粋)
◆ ◆ ◆ ◆
・・・一昨年の10月、主人は東京区裁判所の第十四刑事係を拝命いたしました。 これは経済事件係で、事件の審理から判決までを一人で担当する役目でございます。
その夜、主人は私に申しました。
「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。
私は良い仕事をしたい。 判事として正しい裁判をしたいのだ。
経済犯を裁くのに、ヤミはできない。
ヤミにかかわっている曇りが、少しでも自分にあったならば、自信が持てないだろう。
これから私の食事は必ず配給量だけで賄ってくれ。
倒れるかもしれない。 死ぬかもしれない。
しかし、良心をごまかして生きていくよりは良い。」
その時、主人は既に死を覚悟していたものと思います。
私は驚いて主人の顔を見つめました。 すると主人は、
「人間は孤独だ。
お前がこれについて何と考えようと自由である。
私はお前や子供たちまで、絶対配給生活を強いはしない。
それはお前たちの好きなようにしなさい。」
と、何か淋しげにもらしました。
配給量だけなら死ぬことは目に見えております。
それを承知で云い出した夫。
人間、誰が自分の命を惜しまぬ者がありましょうか。
しかし、主人は命以上に、正しい裁判官であることを選んだのでございます。
「人間である以上、生きてはいたい。
美味しいものを食べたいと思う。
しかし、正しいことはしなくてはならない。」
と、常日頃申していたおりました主人は、ひと様に何と云われようとも、自分の信念に徹し切っていた人なのでございます。
◆ ◆ ◆ ◆
・・・このような生き方には、異論もあるかもしれません。
しかし昨今官民問わずに起きる不祥事の数々を見るにつけ、官僚・政治家はもちろん私たち国民も今一度、山口判事のような〝日本人の、いや人間としての良心〟を思い起こすべきではないでしょうか。
法に殉じた山口判事の信念に敬意を表しつつ、あらためてご冥福をお祈りしたいと存じます。🙏


