ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

5月1日 と 貴公子・・・この2つのキーワードだけでピンと来た方は、おそらくモータースポーツファンでしょう。

 

今日は、イタリア半島の中東部にある世界最古の共和国・サンマリノに散った〝音速の貴公子〟

 

 アイルトン・セナ・ダ・シルバ

      Ayrton Senna da Silva  

 

の命日・・・日本流に言うなら三十三回忌にあたります。

 

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-アイルトン・セナ

 

F1史上最高のドライバーといわれた彼は、1960年にブラジル有数の実業家・ミルトンの長男としてサンパウロで生誕。 

 

4歳の時に買ってもらったレーシングカートに夢中になり、13歳で既にレースに出場していたという、まさに生まれながらのレーサー。

 

父親との約束で一旦レースから遠ざかったものの、その想いは断ち難く・・・20歳で結婚した妻と離婚してまでも再び渡英して

、レース界にカムバック。

 

そこから彼のキャリアは一気に輝きを増していきます。

 

1984年にF1デビューを果たすと、その3年後には念願のホンダ・エンジンの供給を受けることに。

 

本田宗一郎氏から「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われたセナは、「本田さんは日本の父です」と大感激で涙ぐんだとか。

 

 

ホンダ・エンジンと共に戦った6シーズン中、実に3度 (’88

・’90・’91)もF1ワールド・チャンピオンに輝き、天才ドライバーの名を欲しいままにしたセナ・・・母国ブラジルではサッカーのペレと並ぶ国民的英雄と称えられました。

 

しかし、スポーツ・カー 〝FSX〟 の開発にも協力する程の蜜月関係にあったホンダがF1から撤退した翌年、誰もが予想だにしなかったイモラ・サーキット悲劇〟が待っていたのです。

 

1994年に開催されたF1シーズン第3戦・サンマリノGP。

 

予選から大きな事故が続き、2日目にはF1で12年ぶりの死者を出すなど重苦しい雰囲気で5月1日の決勝を迎えた同レース。

 

ポール・ポジションからスタートしたセナの操るブルーのマシンは、7周目の高速左カーブ〝タンブレロ・コーナー〟に時速310kmで進入すると何故かそのまま直進してコース・アウトし、急減速するも時速約210Kmでコンクリート壁に激突。

 

※その〝悪夢の一瞬〟からセナの救出活動までの映像が、こちらでご覧いただけます。 ややショッキングな映像ですので、予めご了承ください。(21:00~ ↓)

 

 

多角的な分析から事故原因がセナの運転ミスではないことが定説となっている一方、事故後10年以上経過した2005年にイタリアの裁判所がウィリアムズ・チーム関係者の過失責任を問わない判決を下し、明確な原因解明はされぬまま。

 

もしホンダがF1を撤退しなかったなら、41回もの優勝回数はさらに上積みされ、セナの命も救われていたかも・・・いや、そういう仮定の話は虚しいですネ。

 

母国・ブラジルでは国葬が執り行われたというスーパー・スターのご冥福を、あらためてお祈り致します。🙏

 

今はただ、本田宗一郎氏とセナが、天国でレース談義に花を咲かせていると信じましょう。



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今日は、この連休中に是非お読みいただきたい書籍をご紹介させていただきます。

皆さんは、フーヴァー・ダムってご存知ですか?

1936年にアリゾナとネバダの州境のコロラド川に竣工したダムで、私は30年程前ラスベガスに行った時にクルマを飛ばして見物に行ったことがあるのですが・・・この名前の由来になっているのが、アメリカ第31代大統領の


 ハーバート・C・フーヴァー (1874-1964)
  Herbert Clark Hoover

 

     

ダムの名前以外にはあまり日本人には馴染みのない大統領ですが、それも無理からぬこと。

なぜなら彼が就任したのは1929年3月であり、その約半年後に起きた世界恐慌に対してうまく対処できず支持率が急落。

あのアル・カポネ逮捕に積極的だったものの、2期目の選挙ではF・ルーズベルトに大敗しているから。

しかし彼は大統領就任前後にも閣僚として国政に携わり、1962年に起きたキューバ危機の際にはケネディ大統領の状況説明会にも参加。

また選挙で敗れた相手のF・ルーズベルトをして「彼の下なら喜んで働いた」と言わしめた程、政治的手腕・人格ともに優れた人物であり、もし世界恐慌がなければ高い評価を受けたはず。

苦学の末に鉱山技師・経営者として成功し、かつ優れた歴史家でもあった彼が亡くなる直前に完成させたのが、自らの回顧録『裏切られた自由』(Freedom Betrayed )。

通常大統領の回顧録はすぐに出版されるものですが、これが刊行されたのは彼の死後なんと47年も経ってからのこと。

長らく出版されなかった理由は、内容がアメリカ批判・・・特に後任で自分を高く評価してくれていたF・ルーズベルト大統領(↓)の失政を厳しく批判し、彼を〝狂人〟とまでこき下ろしているから。

 

 

957ページに及ぶこの大書は2017年に翻訳本が出版されましたが、上・下巻で約2万円と高価。😰

 

そこで今日皆さんにお勧めするのは、同書からルーズベルトが政治家失格であるとする根拠・論点を19に絞り、3人の論客が議論を加える形で出版された

 
『日米戦争を起こしたのは誰か』
  (藤村厳喜・稲村公望・茂木弘道 著 致知出版社・刊)

       


同書の中には、

「(1941年7月の経済制裁は)日本に対する宣戦布告なき戦争だった。
誇りある国なら、とても忍耐できるものではない。」


「日米戦争は、戦争をしたい〝狂人〟の欲望から始まった。」

というフーヴァーの言葉があり、これに対してマッカーサーが

「ルーズベルトは近衛 (文麿首相) と和平を達成できたはず。
そうすれば太平洋と中国・満州の自由を確保するというアメリカの目標をすべて獲得できたはずだ。」


と返しています。 またマッカーサーは、戦後の公聴会でも

「日本には絹産業以外、固有の天然資源は殆ど何もない。
  (中 略)
もしこれら原材料の供給を断ち切られたら、1,000万から1,200万人の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。

 

従って彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった。」

と証言・・・つまりアメリカの元最高権力者と占領軍の最高司令長官が、大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛のための止むを得ない開戦だったことを認めているのです。

これは明らかに(極東軍事裁判で日本を一方的な戦争犯罪者に仕立て上げた)アメリカの公式見解と違いますから、同国にとって〝不都合な真実〟満載のフーヴァー回顧録が長らく出版差し止めだったことも頷けます。

しかしこれらの証言を我が国の(左翼)メディアは一切報じず、また日教組は自虐教育を現在に至るまで続行中。

私たちの子々孫々が母国を愛し彼らに日本人に生まれたことを誇りに思わせるためにも、自虐史観を捨てさせ正しい歴史観を教えなければなりません。

内容は決して難しくなく、また字も大きめで読みやすい本ですので、親御さんには是非ご一読いただき次世代を担う子供達に〝正史〟を語り継いでもらいたいと思います。扇子



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・・・といっても、テレビの2時間ドラマではありません。

 

今日は、〝サスペンス映画の神様〟といわれた

 

 アルフレッド・ヒッチコック 監督

            Sir Alfred Joseph Hitchcock 

 

の命日・日本流に言うなら三十七回忌にあたります。

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-Alfred Joseph Hitchcock
 

1899年、ロンドンのカトリック教徒の家に生まれたヒッチコックは、同教の厳格な寄宿学校で過ごした後夜間大学で電気工学を学んだものの、父親が亡くなったために中退してケーブル会社に就職。

 

当初は技師として働いていましたが、広告部門に異動すると美術の才能が開花。

 

百貨店の広告アシスタントを経て、映画会社に転職し字幕デザイナーとなり、そこで映画監督のチャンスを手にして 『快楽の園』 を撮影。

 

その翌年・1926年にADだったアルマ・レヴィールと結婚し、2年後に長女が誕生します。 

 

1939年までイギリスで撮影していたヒッチコックにハリウッドが注目し、翌年から活動の場をアメリカに移し、『見知らぬ乗客』・『ダイヤルMを廻せ!』・『裏窓』・『北北西に進路を取れ』・『サイコ』 等々のサスペンス名作を次々と制作しました。

 

だんだん画面に引き込まれていく巧みなストーリー、シャワーの真下から撮影するなどの斬新なカメラワーク、そして自らが作品のどこかに一瞬出演する茶目っ気等々・・・実に個性的であり、以後数々の作品がリメイクされていることが彼の力量の高さを証明しています。

 

1980年1月にエリザベス2世からナイトの称号を賜ったものの、その僅か4ヶ月後の4月29日に腎不全で80歳の生涯に幕を閉じた映画界の巨匠・・・私にとって最も印象深い彼の作品は

1963年に公開された 『鳥』 。(↓)

 

 

普段何気なく目にしている鳥たちが、ある日突然人々を襲う

・・・決して空想とは思えぬリアルな恐怖感にゾクッとさせられるのですが、実はもうひとつ理由が。

 

それは、私にとって〝最強(恐?)の女性〟である女房が、この映画を見て以降すっかりカラス恐怖症になったから。

 

一緒に歩いていて頭上で 「カァ~」 という鳴き声が聞こえるたび、ビクッとして身体を硬直させる彼女の姿を見るたび、

 

(カラスが羨ましい!)

 

と思ってしまう私・・・我が家は毎日がサスペンス!? 😱


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今日は、祝日『昭和の日』。

 

昭和天皇の誕生日であり、〝激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす〟日です。

   

 

昭和時代と昭和天皇に思いを馳せつつ、国旗を掲揚しましょう。

 

    

 

 

 

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「あなたが知っている日本人彫刻師の名前を挙げてください」 そう問われて最も多くの方が口にするのは、おそらく

 

 左 甚五郎 

 

ではないでしょうか? 

 

今日は江戸時代初期に活躍したとされる、この名人の命日といわれています。 

 

といわれている・・・と断定できないのは、彼の出自や履歴がはっきりしていないから。 

 

中には実在を否定する専門家もいるくらい。

 

彼の末裔とされる左光挙の著書によれば、1954(文禄3)年に播州明石に生まれた甚五郎は父親の死後飛騨高山に住む叔父の許に引き取られ、1606年に京都の大工棟梁・遊左法橋与平次に弟子入り。 

 

1619年に江戸に下って大工・豊後宗広の娘婿となり、宮大工棟梁として名を上げたとか。 

 

その後再び京都に戻り、師匠の名を継ぎ禁裏(きんり=皇居の意)大工棟梁を拝命、1651(慶安4)年4月27日にこの世を去ったとのこと。

 

これとは別に、左甚五郎は1504年に生まれ16歳で多武峯十三塔その他を建立し、「昔より右に出る者なし」と言われたことから左を名乗ったといわれ、66歳で没した岸上甚五郎左義信がモデルという説も。 

 

また左という姓を名乗ったのは、左利きだったからとか腕の良さを妬まれて右手を切り落とされた・・・という説もあり、その存在は伝説化しています。 

 

彼が遺したといわれる作品としては、有名なところではまず国宝に指定されている日光東照宮の眠り猫。

 

       

 

更には上野東照宮・唐門の昇り龍・下り龍など、全国には彼の手によるものとされる作品が100近くも点在。 

 

しかしその制作時期が安土桃山~江戸時代後期まで300年近くも開きがあることから、左甚五郎は一人ではない・・・というか、その名を語る彫刻師やその名声にあやかった寺社などが複数あったことは確かでしょう。 

 

逆に言えば、それだけ左甚五郎の技量は群を抜いて素晴らしかったということ。 

 

落語や講談で、更にその伝説に磨きがかかってしまった感もありますが・・・私は個人的に彼を題材にした『ねずみ』という落語が大好き。 

 

甚五郎が旅の途中、奥州で客引きの子供に誘われるまま〝鼠屋〟という宿に泊まります。 しかしそこは非常に貧しい宿で、聞けば妻に先立たれた主が後妻と番頭に〝虎屋〟という大きな旅館を乗っ取られてしまい、仕方なく鼠屋を開業したとのこと。 

 

不憫に思った甚五郎が自らの素性を明かし、屋号になぞってねずみを彫り上げます。 

 

このねずみが本物のように動き回ることが評判を呼び、鼠屋は大繁盛するのですが・・・。 

 

後はこちらの動画でお楽しみください。

 

 

 

 

 

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初めてアメリカ大陸を発見した西洋人は? と問われれば、大抵の方はコロンブスと答えるはず。

では初めて世界一周を果たしたのは? と聞かれれば、また多くの方は彼の名を口にすることでしょう。 今日は、その


 フェルディナンド・マゼラン

   Ferdinand Magellan

 

の命日にあたります。

 

      

 

とは言え、この世界的に名の知れた冒険家の前半生は、あまりよく分かっていません。

生まれは1480年頃で、ポルトガル北部ミーニョ地方の下級貴族の出といわれています。

1492年にポルトガル王妃レオノール・デ・ヴィゼウの小姓としてポルトガル宮殿に入った彼は、そこでコロンブスやバスコ・ダ・ガマの活躍を知り、外洋航海に関心を深めたそうな。

そして1505年にポルトガルがインド洋の覇権を握るべく出したアルメイダ艦隊に参加を許され、初の外洋航海に。

そこで実力を認められ副舵手に抜擢されますが、イスラム勢力との闘いで負傷し、半年近く入院する程の重傷を負います。

しかしその後船長の位も授かったマゼランでしたが、何故かポルトガル王宮と決別。

そして西回り航路に関心を寄せていたスペイン王・カルロス1世が、ライバル国・ポルトガル出身のマゼランを香料諸島を目指す艦隊の総責任者に指名。

今でいうなら侍ジャパンの監督を外国人が務めるようなものでしょうが、当時はスペイン・ポルトガル両国から反発があったようです。

 

しかし国王はそう言った外野の声に耳を貸さず、艦隊は1519年8月にセビリアを出発。

準備不足や寄港先での現地人とのトラプルやスペイン人乗組員の叛乱など様々なピンチを何とか乗り越え、彼は遂に1520年10月、西太平洋に抜けるルートを発見。
(南米大陸南端の海峡がマゼラン海峡と名付けられた所以。)

   

太平洋に出た艦隊は途中補給が出来ず、20人近い乗組員を餓死で失いながらも、1521年3月にフィリピン諸島に到達。

セブ島でマゼランはキリスト教の布教を開始。

 

それが思いのほか成果が上がったため、彼は本来の目的である香料諸島への出帆を遅らせてまで布教活動に執着したのですが、これが裏目に出てしまいました。

徐々に強圧的な態度に出始めたマゼランに地元の王が反発。

 

同年4月27日、1,500人の兵を動員して艦隊を襲撃し、マゼランを殺害・・・そう、つまり彼は世界一周を果たせぬまま、505年前の今日、この世を去っていたのです。

生き残った乗組員たちが同地を離れ、香料諸島を経てスペインに帰国したのは、翌1522年9月。

3年前に出発した時総勢270名いた乗組員は、僅か18名のみ

・・・生還率僅か7%弱という過酷な船旅でした。

ですから歴史上初めて世界一周を果たしたのは、マゼランではなくマゼラン艦隊だったのです。

 

しかし志半ばとはいえ、前人未到の西回り航路に打って出て、最終的には艦隊がそれを果たしたわけですから、マゼランのリーダーシップは大したもの。

海峡を始め星雲やペンギンにその名を冠せられた大冒険家の冥福をお祈り致します。🙏

 

 

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新社会人の方々が、希望に胸ふくらませて社会に一歩踏み出してから間もなく1ヶ月。

3日後からGWに突入し、それが終わると〝五月病〟の時期がやってきます。😅


既に社内研修を終えて現場に配属された方、または連休後に赴任する方も多いことでしょう。

最近の若者は打たれ弱いと言われますが、簡単にメゲることなく頑張ってください。

そんな新人の方々に、社会人の先輩として僭越ながら私自身の経験談をひとつお話したいと思います。


それは今から40年以上前、私がまだ損保のヒラ社員だった頃のこと。

 

『団地保険』という新商品が発売となり、当時やる気満々だった私は

(よっしゃあ、売ったるデェ~!)

とばかりに下町の大きな団地に行き、片っ端から飛び込み営業をかけたことが・・・。

 

団地の最上階まで駆け上がり、そこから戸別訪問で徐々に下の階へと下りていくつもりで、一番端っこのお宅からチャイムを鳴らし始めたんです。

しかし、どうしたワケか10件以上連続ドアが開きません。

それどころか返事もありません。😫


(真っ昼間だから結構留守のお宅が多いのかも・・・。)


と自分で自分を納得させ、メゲずにチャイムを鳴らし続けます。

 

何軒もやっていくうちに、不思議と部屋の中に人がいるかどうかが〝気配〟で分かるように。

 

在宅の場合は目いっぱい笑顔を作ってドアの前に立つんですが、なかなかドアが開きません。

結局初日は300件くらいピンポンして、ドアが開いたのが10件くらい。

 

私の説明を聞いてパンフ受け取ってくれた方が4~5件だけ。


(あぁ~、オレって営業のセンスないのかな~?)


と酷くガッカリしたものです。


その中でも特にショックだったのは、100件を過ぎたところでチャイムを押したお宅。

 

       

覗き穴の向こうで人影が動いていたので、

「突然で申し訳ございません。 私は保険会社の者なんですが、今月から団地保険という安くて補償が良い商品が新発売になりましたので、そのご説明に伺いました。
よろしければ、是非お話を伺っていただけないでしょうか?」

そう言って待つこと暫し・・・しかしドアは開きません。
でも室内から人が歩く音はしているんです。

(おかしいなァ~・・・。)

と思った刹那、顔の横に視線を感じたんです。

 

そちらに顔を向けると、玄関横のガラス窓が細く開いていて、そこからジ~ッと私を見ているおばさんと目が合いました。

「あ、あの・・・。」

と言いかけた瞬間に窓がビシャッと閉まり、更にドアをに〝ガチャッ〟とチェーンロックまでされてしまったんです。

なんだか人定めをされた上で警戒された気がして、腹が立つやら情けないやら。


それでもめげずに数日通ったんですが、結局成約はゼロ。😣

 

・・・でも今考えてみれば、そりゃ~ドア開けてくれるわけないですワ。

 

だって180cm近いイカリ肩の男がいきなり尋ねてきて、作り笑いでドアの前に立ってれば、私でもドア開けないですもンネ。


しかし私は、この飛び込み営業やって良かったと思っています。
 

確かに1件も契約はいただけませんでしたが、それより遥かに勝る〝体験〟が出来ましたから。

きっと今時の若い方は、「そんなの、やる前から分かってるじゃん。」と仰るかもしれません。

が、それはあくまで机上の計算と言うか想像の世界。
実際にトライした人とそうでない人には、確実に差が出ます。

体験した人には、たとえ売り上げが上がらなくても次につながる学びができるのです。

それは、実際にやった私が断言します。

どうか新社会人の皆さん、頭を使うのも大事ですが是非ひとつでも多くの失敗体験を重ねてください。

失敗は成功の母・・・行動を起こさない人は、絶対に失敗しませんから。

 

 

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私が子供の頃、汽車に乗る時は刑務所の面会室のような真ん中に小さな穴が開いたガラスで仕切られた切符販売窓口で、駅員さんに「子供一枚ください」と言って切符を買ったものですが、今ではすっかり

 自動券売機

に変わってしまいました。

 

その自動券売機が日本で初めて導入されたのは、いつ頃だったと思いますか?

 

これが意外と古くて、今からちょうど100年前の今日・1926(大正15)年4月25日・・・ドイツ製のコインバー式 (※スロットマシンのように硬貨を入れてレバーを引くタイプ) の入場券販売機が東京駅に4台、上野駅に2台導入されたのが最初といわれています。


では、そもそも自動販売機は何時頃からあったのか?


設計図などで確認されている世界的に最も古い自販機は、紀元前215年頃にエジプトのアレキサンドリアの寺院に起かれた聖水の自販機とされています。

 

これは投入された硬貨の重みで受け皿が傾き聖水が出るという構造だそうですが、昔の人の知恵って凄いですネ。

 

日本では指物師・俵谷高七が1988(明治21)年に考案し、

2年後に東京・上野で開催された第3回内国勧業博覧会に出品され、農商務大臣・陸奥宗光から褒賞を得たタバコ自販機・『煙草販売便器』とされています。

 

何となく臭いそうな名前の機械ですが、残念ながら現在その実物は残っておらず、現存する最古の自販機は、やはり彼が1904(明治37)年に製作した 『自働郵便切手葉書売下機』。


切手・ハガキの販売とポストを兼ねたという優れモノですが、木製でタンスのようなフォルムに時代を感じますネ。(

 

  ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草 ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

          俵谷 高七            自働郵便切手葉書売下機

 

販機はその後様々な業種に続々登場し、日本国内では2025年末で388万台余り設置されているとか。


最も自販機の設置数が多いのはアメリカで約650万台だそうですが、人口比率でみれば国民1人当たりの台数は日本がダントツで世界一。

 

至る所で自販機を目にするのも納得ですネ。


さて話題を鉄道の自動券売機に戻しますが・・・改良に改良を重ねて、今ではプッシュボタンからタッチパネルが主流に。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

昔は自動券売機で切符を買えたり、エレベーター・ガールのいない自動エレベーターに乗れた時に大人になった気分を味わいました・・・が、今では逆にこういった最新式の自販機に戸惑うことで、自分の歳を感じるようになった私。😣

 

人件費削減ということで今後ますます世の中の機械化・自動化が進むのでしょうが、無言で切符を買い、無言で改札を通る・・・という無機質な日常生活でいいんでしょうかねェ?


ろくに挨拶もしなくなった社会背景には、この自販機の発達が関与している気もするのですが・・・だからって自販機に

 

「アリガトウゴザイマシタ。」


なんて人工音声で言われてもねェ。😰

 

それでは最後に、自販機に関するクイズをひとつ。


【コインの投入口にタテ型とヨコ型があるのは、ナゼ?】

 

・・・実はこれ、明確な理由・区分けはないのだそうです。

 

メーカーによって投入しやすさを考慮して適宜決めているとのことですが、一般的には飲料・タバコはヨコ型、乗車券などの券売機はタテ型が多いとか。

 

今度自販機を利用される際は、投入口に注目してみて下さい。

って、最近は現金を入れる人はあまりいないか?😅

 

 

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下剋上は当たり前、たとえ親子であっても殺し合いになるのが珍しくなかった戦国時代・・・その激動期に最も運命を翻弄された女性といえば、

 

 お市の方

 

ではなかったでしょうか。

 

今日は、織田信長の妹にして2人の武将に嫁いだ、この悲運の女性の命日にあたります。

 

1547(天文16)年頃に生まれ、絶世の美女と謳われた彼女は21歳で近江の浅井長政と結婚。

 

これにより織田家と浅井家は同盟関係を結ぶことに。

 

しかし1570(元亀元)年、両家の間での誓約を破り信長が越前の朝倉氏を攻撃。 

 

これに怒った浅井氏が朝倉氏と共謀し、織田軍を挟み撃ち。

 

この兄の大ピンチを知ったお市の方は、小豆を入れて両端をヒモで縛った袋を織田陣営に陣中見舞いとして送り届けることで挟み撃ちを知らせます。

それを見た信長は自軍が袋の鼠状態であることを瞬時に悟り、即時撤退・・・辛うじて命を長らえた、とされています。(金ヶ崎の戦い)

 

長政とは仲睦まじかったといわれていますが、その作戦を兄に知らせることは夫に対する裏切り行為・・・兄と夫の間に挟まれた彼女の心中は、いかばかりだったのでしょう?

 

当然の如く長政の裏切りに激怒した信長は、朝倉義景を姉川の合戦で撃破したのち長政の居城・小谷城を攻略。

 

共に死のうとするお市の方を制した長政は、信長に対して彼女と3人の娘の助命を嘆願。

 

信長がこれを受け入れると、長政本人は切腹して果てました。
(※但し長男・万福丸は殺され、次男は強制出家。)

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

その後9年間は、お市の方と3人の娘は信長の庇護の元で暮らしましたが、その信長が本能寺の変に倒れると彼女は兄の重臣であった柴田勝家と再婚。


しかし今度は信長の後継者として台頭してきた豊臣秀吉と夫・勝家が衝突。

 

1583(天正11)年の賤ヶ岳の合戦で秀吉は柴田軍を破り、勝家は切腹。

 

秀吉からもたらされた助命の話を断り、お市の方は夫・勝家の後を追って4月24日に自害して果てたのです。

 

秀吉自身も彼女に惹かれていたといわれていますが、その一方で(前述の)万福丸処刑を行ったのも秀吉といわれています。

 

彼女にしてみれば、命に代えても秀吉に屈することはできなかったのかもしれません。

 

お市の方を手に入れることが出来なかった秀吉は長女・茶々を側室にし、彼女は秀頼を産みます。

 

しかしその後、茶々も大阪夏の陣で息子共々自害することに。

 

一方、三女・小督は徳川秀忠の正室として3代将軍家光を出産。

 

時代・・・いや、武将たちに運命を翻弄された挙句に自らの命を捨てながらも、残した娘たちが日本の歴史に少なからず影響を与えた〝悲運の美女〟の冥福を、あらためてお祈り致します。🙏

 

 

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