世の中には意味のないモノばかりで溢れている。人間はどうしても意味のないモノばかりを追い求めてしまう。そのことを端的に書いたのが前著『形を読む』であり本書である。養老孟司教授の本は昔に行くほど難しい。内容はかなり濃いモノとなっている。
最初は解剖の話題。耳元にメスを入れる。皮膚を剝がして裏返し、さらにもう一度ひっぺ替えして折り返し、スポッと抜ければ頭蓋骨が見えるという。これはアタマの手術でも同じなのだとか。そのアタマの中から何が出てくるかと言えば脳と呼ばれる物質のみであり、その他にない。いくら探しても心など出て来ない。今現在は頭が良い方がいいとされているが、その頭を放置していれば計算機を放置しているのと同じ。頑張って使って考えなければ頭は良くならない。しかし、この状態では説明しきれないのだ。
フーコーの話題。ここまで来ると西洋形而上学で哲学。簡単に言えば心身一元論と心身二元論について考えてみようということ。
この脳と心の思想に対してゲーテが『ファウスト』で指摘したのは自然哲学だった。世間は何で出来ているかは物質に過ぎない。
思想とはいえ自然を本当に知りたいならファーブル昆虫記でも読んでいれば良い。そうすれば少なくとも昆虫のことを知るキッカケにもなろう。養老孟司教授が子供の時、盛夏の時に昆虫をたくさん採って来たら家に北陸、福井県から来た父方の祖母がやって来ていて「こんな夏真っ盛りの時に昆虫をそんなに採ったら極楽浄土に行けないよ」と言われてしまったらしい。浄土真宗なら極楽浄土への切符を持ち込むのだろうが、そのチケットと引き換えに虫を採って来た。身体所作も用いなければ本当は分からない。
我が家なんて父方が臨済宗で母方が曹洞宗と同じ禅宗だから良かったよ。極楽浄土もクソもない。おかげで子供の時は負い目を感じることなく昆虫を採りまくっていた。私が昆虫が好きというより母方の祖父が農民だから体がウチの祖父よりメッチャ動く。だいたい60歳を過ぎても木登りなんて余裕だから小学生の私がモタモタしている間にカブトムシやクワガタをスルスルっと採っていた。こういうのを85歳の養老孟司流で時代が違うと言うんじゃないのかい?というのは、やはり身体性なのだ。脳が違ってきたのは少なくとも団塊世代から。団塊世代が字面だけ見て真に受けるのは今現在と変わらない。やはり10歳になる前ぐらいからは昆虫採集をして、そして11歳で一旦、最後の昆虫採集となった。物事というのは宗教も生物も似ているか否かが基本となるのだろう。
昔の人にとって女性に対する差別用語に「髪長ければ知恵短し」というのがある。では男が髪を生やさなければ有能なのかというと、そうではない。だいたいハゲたら僧侶を除けば悲しくなる。意味はないと思われるが、ではネズミなどに毛が生えるのを見てみれば良いではないか。となると進化の過程だと言わざるを得ない。自分にとって意味がなくても、きちんと自然的に成り立つ。
では毛が生えるネズミは何だ?ったらジャコウネズミがいる。トガリネズミ科に分類され日本では長崎県や鹿児島県のほか南西諸島や沖縄県にいる。ネズミと名付けられているが、これらの種はラットのようなモノではなく、むしろモグラに近い。大学院でも意地悪があるのは例えば、こういった違いを説明せよ、ということだが、そんなことはやってみないと分からない。それまでの辛抱だということだ。コウモリなら倒立しているから世界が大分、違っている。頭が混乱しないために光ではない感覚を持つのだ。
そもそも大学とは昔ほど政治活動を禁止していた。現代人の「若い人が政治を考えない」というのは成り立たない。そんなものは人による。だって年寄りだって「ロクでもない奴は一部」と言うではないか。ということは、ほとんどが正しいとでも言いたいのかってこと。世の中は正しいとか間違っているとかではない。むしろ私の目には「マトモな人が一部」にしか見えないけど、まあ取り敢えず大学は中道を保っているというより政治色を出したくないというので禁止されていた。中立というのが曖昧だけどね。
余談だけどウチの姉の母校。我が家は政治や経済の分野から逃れられない。高3の2学期に偏差値「73」を叩き出していたなあ。
魚の目とはもともと欧米人によくあった足のトラブルで、やはり堅い靴によるもの。私もローファーなどと呼ばれる堅い靴を履いてから悩まされている。今現在も、かつてよりは良くなったものの、かなり痛い。実は最初、小さく出来て、それをスピール膏などで取っていくうちに、より悪化しフットケアに泣きつくというモノ。だいたいフットケアはお金がかかり過ぎるので市販のモノで削りながら徐々に慣らしていく。私なんかハイヒールすら履いていないのに何でだろう?と思ったら母方の伯母が同じだというのだ。実は遺伝も否めないのだとか。日本人は草履や下駄を履いていた頃、足のトラブルは少なかったが、それが明治期に入って西洋化していく中で靴を履くようになると、それに合わせて足も固くなる。基本的に欧米人は靴を脱がないから臭いんだろうな。
言語の話題。欧米言語はローマ字の通り、聴覚の言語。発音を元に作られている。では中国語は何だ?ったら視覚の言語ではないか。漢字は絵から作られ、それを元にピンインで発音する。日本語は音読み訓読みがあるのでフリガナを振る。つまり日本語はマンガの言語であるから活字が苦手な人は自然と出てくる。取り敢えず頭より五感を使って磨いた方が言語の習得には早いのだろうと思われる。台湾は漢字の言語なのにテレビのニュースで喋っている傍で字幕が出る。そういう文化として伝わって現在に至る。
当然ながら昆虫はもともと明治から昭和の後期、平成にかけて、かなり減っていて、また絶滅危惧種も後を絶たない。それは捕食だけに限ったことだけでなく例えばハトは羽毛布団に変化したり、これまで自然的サイクルで済んでいたのが人間の登場によって大きく変わってしまった。これからも同じような方向にしか行かないのは目に見えているだろう。文明の破壊も人間の専売特許。
なるほど「モノが分かる」と現代人が言うのは脳を使ってこそ分かるのであって、おもに身体的に分かっている訳ではない。ただし身体も脳なのである。限界で考えても、どうしても分からないものがある。これを「馬鹿の壁」と呼ぶことにした。このことが昭和61年に起きた養老孟司教授の出来事なのだ。ついに謎が解けるようになる。こうして「バカの壁」への流れが始まったのだ。
解剖学の研究員でもあった布施英利によれば養老孟司教授がトイレでも本を読んでいる銅像を二宮金次郎の代わりに小学校に建てれば良いという。そりゃあ傑作だろう。本当に頭が良くなりたいなら、それが良いのかもね。ただしかし、すべてにおいて何でも本を読めば頭が良くなるかと言ったら、そうでもない。身体も使わなければ頭が良くはならない。賢いとは基準が違うんだろう。
【ニューソース】





















































