これまた20年以上前の講演を収録したモノだ。恐らく年月が経てば忘れてしまうだろうから再発行するのだろう。生き方を問う。
まず、この本が出版される直前に「ジャニーズ問題についてどう思いますか?」と尋ねられたようだ。そんなもん知るか!って話で終わってしまう。私的にも到底、養老孟司教授が、そんな下らん話題に首を突っ込むはずもあるまいとは思っていたんだけど。
講演していると話に耳を傾ける。その情報は脳に入り目で文字を書く。つまりメモを取っている。耳から入る情報と目から入る情報がイコールになっている。これが人間の脳。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などという五感のすべてを同じに出来るのは人間だけなのだ。動物は、この五感が、もともと一致していない。ただし人間にとっても、この五感のすべてが一致しないことがある。
それが統合失調症の患者に診られる。統合失調症とは視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などの五感が一致していない。なぜ幻覚が見えたり幻聴が聞こえるのかは分かっていないが、ともかく同じにはならない。たいてい脳はメモリーの役割を果たしていて、その中に記憶したモノを海馬という中にファイルという形で留めておく。つまりコンピューターと同じで覚えることが多いと取り出すのに遅くなる。それで私は思わずアインシュタインの、のろま大将ぶりが理解できたのかもしれない。やはり天才は異質なのだ。
その講演中に大男が目を吊り上げてゴキブリを踏み潰している。こらこら、やめないか!とも言えない。そこでピンと来たのは人間にとって自然があってはいけない、ということ。少なくとも都市の中で自然のモノが出てくるのは予測できないことで脅威なのだろう。では頭で考えて予測できたら、すべてが上手く行くのか。それがカマキリの例で飛んできたミツバチを捕獲するなり捕食してしまう。カマキリの脳は顕微鏡で見ないと分からないぐらい小さい。蠅のゴマサイズよりも小さい。ただし考えてキャッチしているとは思えない。捕る態勢も必ず頭がカマキリを向いている。そして腹の一部、蜜の袋だけを食べて、あとは捨ててしまう。
ご存知、鎌倉は六国見山と源氏山の間にある北鎌倉の禅宗いわゆる臨済宗を中心に歩いて行くと、さらに街の方へ出て鎌倉駅の周辺から宗派が変わり、そして日蓮宗へと寺院を見ることが出来る。真ん中の鶴岡八幡宮を中心に北鎌倉の山内から二階堂あたりが禅宗、円覚寺、東慶寺、浄智寺、瑞泉寺、建長寺、明月院、円応寺、浄妙寺、報国寺のような山寺であり、そして鎌倉駅の反対側にあたる小町から大町付近は妙本寺や安国論寺など都市の寺院が存在する。恐らくだけど円覚寺や明月院のように枯山水庭園があるなど自然に特化して、むしろ日蓮宗の寺社の境内には何もない。歴史は古いほど自然であり、そして歴史は新しいほど人工的。
右向け左向け、と指示通りに人が動く。コンピューターがプログラミング通りに動くのと同じ。太平洋戦争で行われたことは、かなりモダンで新しい。そういう世界にいれば命が軽んじられるのは当然。壊れたテレビを叩けば直るかもしれない。しかし人、特に子供は叩けば直るモノではない。物じゃないんだ!とプリプリ怒る世代が自分を棚に上げておいて他者を責めるという悪循環。
平安時代から鎌倉時代に変わる時は、そういう意識はしていない。むしろ平安時代こそ平家物語が残った。言葉は残るもの。源範頼と源義経が平家の公達の首を持って後白河法皇のところへ行き京都中に晒すという。後白河法皇は断る。この平安時代の末期、平重盛は40歳にして大病に襲われ福原から京都まで行って中国から来た医者に診てもらえという。平重盛は、これを断る。自分の余命を知っていたと言わざるを得ないものの現代と同じ。42歳で亡くなるが医者に診てもらえばすべて治るものだと思っている。
また言葉においても同様で現代人は、おしゃべり。本人はそう思っていないかもしれないけど、だいたい還暦を迎える前後でも平然とブログで自慢大会を繰り広げている。言葉は一旦、出たら変化しない。これは性も同じで「男」と「女」という単語が出来た瞬間から性が断ち切られた。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなどといった括りのことだけを述べているのではない。これに当てはまらないターナー症候群、クラインフェルター症候群、アンドロゲン不応症なども一括りに出来ない。
ターナー症候群は小さい女性で太ってくる。クラインフェルター症候群は筋肉質で顔の見た目が女性。アンドロゲン不応症は睾丸性女性化症とも言われていて、つまり最初から睾丸がないか、もしくは中にしまわれているのが特徴。陰部を触ると穴はあるけど産道がない、というパターンはよく聞く。また中にしまわれている人は邪魔なので取ってしまうことも少なくない。こう見て行くと性の基本は女性となる。男性は無理してなっているから犯罪者も多い。腕力ではない。腕力があっても振るわなければ暴力事件に発展しないのは当然。男を意識すると極端になる。男性ホルモンが強い人に犯罪者予備軍が多いとされている。だから極論を言ってしまえば女性だけの楽園的な島は出来てしまう。男は少なくてもきちんと繫栄できる。自然的な方が実は環境に適している。
なぜ、こういうことが分かるかと言うと養老孟司教授は解剖学者であり、よく脳科学と言われるけど、むしろ脳の中は未だよく分かっていなくて、とりわけ体の中身なら否が応でも分かってしまう。一人一人のすべてが異なっている。例えば胃とか腸とか名前を付ければ断ち切られる。ただし口から肛門まで一本の管で繋がっているのは間違いない。本当は性も身体も連続しているのだ。
そう考えると目はどうか。よく目で見るとか言うけど、あれ本当は脳で見ている。レントゲン検査すると分かるけど脳から目玉が飛び出ている。つまり物を目というカメラに収めて脳に画像を送る。そうやって我々は見たものを認識している。メカニズム的には至って簡単なようで難しい。脳がどうなっているのか。脳も実はグリア細胞が神経を動かしているだけでメカニズムは単純だ。
頭で考える。皆で考えましょう、というから混乱する。考えるのは自分の脳に決まっている。世間では「個性の発揮」などと言われている。勘違いしている人も少なくないが、そんなことを言い出したのは、つい最近のことではなく、また一時期に流行っていた「世界に一つだけの花」がキッカケでもなく、もっと前、団塊世代から教わっていた。養老孟司教授が言う若い人なのだから今現在は年寄りに足を突っ込んでいる。その団塊世代が間もなく後期高齢者を迎えようとしている。そんな人達が学生の時から言われていたのが「個性の発揮」ということだった。今更に限ったことではない。個人主義は自ら発揮するモノでないのはオウム信者のバカ学生が示している。どう考えても麻原彰晃なんてインチキ臭いのに信じてしまうのがシラケ世代と言われた人達の特徴だ。
オンリーワンとは、そういう浅い単純なモノではない。本当のオンリーワンはもっと高級なモノだけど自分で身体を見ることは不可能であり、だからこそ自分なんてない。粗忽長屋という浅草の出来事で死んだ体を見ると本当に自分だったという落語のようなモノであろう。落語は馬も出てくる。厩が火事になる出来事で「人間にケガはないか?」という話。これが孔子なら偉いとされているけど、このように日本では笑い話で終わるモノが中国では現実になる。つまり中国は孔子の時代から都市だった。二千年も経てから、やっと日本が追い付いた。ただし悪い方にも行きかねない。黄河は中国人が作った。山や森から木を切り倒してしまうと土砂が流れ込む。インドも赤土が流れ込むため川が汚い。ではなぜ日本では起こらなかったかというと、むしろ起こらなかったのではなく、その日本での自然回復が早かったのだろう。太平洋戦争後でも「国破れて山河在り」のような風土だったためなのだ。
中国語でコンピューターは電脳という。脳はコンピューターと同じということが証明されている。つまり日本でも、これから行くところまで行けば間違いなく破滅に向かう。そういう歴史を証明しているのだろう。一旦、国が繫栄すれば歴史は停滞する。だからインドも中国も経済発展が遅れてしまったと言いたいところだが、これはむしろ西洋近代化に遅れたという意味なのであろう。
よく日本人は勤勉だと言われるが、そうではない。アメリカ人も中国人も勤勉だから日本以上に経済発展した。アメリカは時間通りに帰ると言うが、それは中小企業とか仕事がない時に帰る。間違ったアメリカを見ていることになっていて、そのアメリカの中でもウォール街の金融機関や上流階級を見ていない。なぜか日本人がアメリカを見るとスラム街ばっかり見ていて、そして見下して卑下して、やっぱり日本スゴイという幼稚な考えに行きついてしまう。そんなことよりは真っ直ぐ現実を見つめるべきだろう。
長嶋茂雄がボールを打つ。その時に筋肉はどうなっているかと言うと命令から動作までが素早い。どこかの段階を飛ばしているのはもちろんながら、どうも長嶋茂雄が物理を知っているとは思えない。勉強なんて昔の人ほどロクすっぽしていないのが現状で、どうやって打てるのか長嶋茂雄は知らないだろう。人は自分が出来ることを説明できない。説明すれば分かると思っているけど、やはり限界があるのは、ご存知の通り。私が長嶋茂雄はなぜ人気があるのか、よく分からないが、もっと今風に言えば王貞治やイチローや大谷翔平の方が人気はあっていい。しかし「あーすればこーなる式」だけになった現代社会の中では特質だと言えるだろうし、そういう「馬鹿と天才は紙一重」もいないと日本では面白くないのかもね。三冠王を取っていない選手の方が人気なのだ。
そういう「自分よりバカがいてホッとした」という他者に対する上から目線の見方は、このように昔からあった。日本人は意地悪だという民度の問題もあるが、そこは脳科学の領域になる。養老孟司教授はどうしても解剖学。イタリアに行くとドクロを飾り付けた教会がある。いわゆる「メメントモリ」と言って「死を忘れるな」ということ。今に生きる人ほど違うと思っているかもしれないけど割と同じ。宗教は仏教とキリスト教でも二千年以上、前から同じことを言っている。変化することを教えるのが宗教なのであって絶対に揺るがないためにはどうすればいいのか、というのは宗教ではない。たまに自分を曲げない人がいるけど、そうやって殻に閉じこもっている限り良いことは巡って来ないだろうね。もちろん悪いことも巡って来るに決まっているが、物事は完璧になる訳がない。風邪をひかないと抗体が付かないのと同様に多少の良し悪しは誰にでもある。自己中心的に騒がないで欲しい。
最後に、この本は「ヒトはなぜ、ゴキブリを嫌うのか?」の再録で福岡市内にある紀伊国屋書店でも見た気がするけど、その公式サイトを開くと以前にあった店舗がなくて、どうやら移動しているようだ。現在は福岡本店とゆめタウン博多店がある。同じモノを読んで面白いのか。面白いよ。少なくともブログで個性を発揮している中高年よりは断然マシだろう。養老孟司教授の話はつまらないと思ったことがない。なぜか考えてみた。すると、どんなに知識があっても当然の上で例えが多い。恐らく、どんな相手に対しても上手く対応できるんだろうね。それにまずもって若い人の悪口を言わない。歴史で以って淡々と説明する。その説明を聞いたから私は一瞬にして分かった訳ではない。たまに「養老孟司教授の話は難しくて分からない」という人がいるけど、それは分からないのではなく、そこまで分かる気がない。たぶん、そうだと思う。なぜ歴史に例えられたのかは鎌倉が大きなヒントとなっており、そして私が鎌倉近郊にまで住み始めて、たまに北鎌倉から歩いて周りながら磯田道史先生や本郷和人教授の著書を読み漁って事実かどうかを自分の目で確かめ、そして自分で理解しようとしたから分かるようになった。分かるとはまさに自分の脳だ。
こういうことを常に述べているから養老孟司教授は脳科学と間違えられるけど実際には解剖学者で死体を扱ってきた。いないと困るんだけど、こういう医者は特殊とされている。むしろ死ぬのは当たり前で、だからこそ「どうぞ死体を実験台によろしく」なんて家族や親族はいないだろうし、また私なんか医療従事者に近い人間なので知っているけどノコギリで腕や足を落とすなんて所業は見方によって鬼畜そのものだったりする。死は一人称、二人称、三人称とあって、まず一人称の自分は死を予測しても実感することは出来ない。死んでしまった時に「俺、今、死んだな」なんて、あり得ない。三人称は赤の他人でシラケ世代の時から三無主義と言われている人を中心に現実にあっても実感が湧かない。ちなみに三無主義とは「無関心」「無気力」「無感動」のことなんだけど、この世代を中心に自己中心的になった。となると残ったのは二人称の死。私にとって東京の従妹の死は、まさに養老孟司教授が経験したのと同じ。福岡の同級生の従姉と抱き合って泣き崩れた時は今でも忘れない。しかし、ああいう出来事の一つ一つが「家族と親戚」を結びつかせているのかもね。もう一度、集合!みたいに。まさに分かるとは知識ではなく体験していくもの。
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