養老孟司教授の壁シリーズ最終章 | 北条得宗家の鎌倉めぐり

北条得宗家の鎌倉めぐり

鎌倉散策や鎌倉散歩の様子の他に養老孟司教授の著書を中心として紹介

 

ヒトの壁とは、バカの壁からの最終回答であろう。そもそもバカの壁は、世間というガッチリしたモノがあって、そこに我々が、根無し草のように浮遊している、というモノであった。相手との話が通じないのも脳が関係していて、思い込みはなかなか抜けない。それは「私は私」という意識から来るモノ。これを、西洋が中心で、東洋の無意識が正解、と誤解している人が、たまにいるらしいけど、そうではなくて、人間にもともと持っているモノだ。仏教は5000年も6000年も古臭い宗教で、無意識を教えている、というだけで、明治期近代以降の日本人にその発想は皆無だ。

 

 

事実として、日本の身体性の方が特殊であり、東洋は、東洋でおかしなところはたくさんあって、都市化が未熟であったためか、戦争に行く際には考えずに突っ込んだ。これを「1億総玉砕」という最悪の形で発揮することとなった。意識中心にしても、無意識中心にしても、良いところと悪いところが、それぞれある。それがバカの壁の主張であった。ゆくゆくは、世間の状況が自分にも影響する。無関心世代には、分かるまい。

 

 

動物はそういう意識がなく、進化論的に過去の方が、歴史的に古い方が、それぞれ無意識であり、近現代に行くほど、意識中心になっていったという主張である。これが人間の厄介なところであり、脳は危険性も孕んでいる。オウム真理教も、ひとつの例として出された。カルト的な宗教というのも、心身一元論から来ている。現代人は、心身二元論かもしれない。だから思わず口が動いてしまうのである。これを、正解とか不正解とか、にこだわっていると話が見えてこない。こうなってしまった以上は、最後に残る無意識といえば、死だけである。死の壁に至るのだ。

 

 

養老孟司教授は閻魔様に会って、齢84歳にして、お前は人間の役に立ったか?と問われたら、役に立ちました。と、素直に答える自信がないようだ。そこまで謙虚なら良いのだが、現代人に見習うところもあろう。実際、死体解剖したのでは誰もありがたくはなかったはずだからなのだよ。だって、死体解剖して、ありがとうございました。なんて言う人はいない。それどころか、田舎から、聞いていないと抗議に来て殴られたし。

 

 

母親に昆虫研究のために九州大学に行くと告げたら、猛反対された。そんな遠い所に行くものではない。戦前生まれが時代と言えば、分かるけどね。しかも九州大学に行ったこの世代であればウチの伯父の先輩に当たる。昔から九州大学医学部をはじめ理系タイプが多かった。

 

 

例えば今現在だけにあるのがイジメではなく、日本人お得意の村八分からイジメは横行しているのであり、不登校であっても、キノコだけに特化した高校生ぐらいの専門家こそが、世の中を変えるのだと、本人に会ってみて思ったようだ。世間中心だと天才タイプにはかなり弱い面も。

 

 

人はAI化している。養老孟司教授の経験では、東大の助手として働く前に国家公務員の宣誓をさせられた。これも形式的なモノで読むのみ。

 

 

だから猫で森なんだというのは、何となく分かる気がする。いちいち、顔色を窺って、お世辞を言わなければならないのは相当にキツイと思う。

 

 

一言で中国というと大きすぎる。だから北京政府というのは、非常に的を得た表現だと思う。香港も台湾も、違う顔を見せる。ぞれぞれ、イギリスや日本の影響を受けているにもかかわらず、一言で中国と述べるのは、おかしい。果てには、内モンゴル自治区やウイグル自治区やチベット自治区まであって、それぞれ、モンゴル人にウイグル人にチベット人などと、人種だけでなく宗教や文化までが別物。元は違う国だったな。

 

 

中国の軍拡競争と日本の明治期における富国強兵は、まったく同じルートを辿っている。吉か凶か、今現在の日本はすでに統一されてしまっており、知識のない中高年が、若い奴がどうのこうの言っても、お前も同じだと、なぜ分からないんだろうか。だから明治期の西洋近代的自我なのだ。もし本当の日本人だったら、徳川家康のように他人を信じず、噓つきで市中引き回しの上打ち首獄門。新選組の近藤勇のように京都の三条大橋の河原あたりで晒し首にされているはず。これが本当の日本の都市である。つまり公開処刑である。でも現在は欧米化している。

 

 

あれだけ太平洋戦争でボコボコにされた元凶であるにもかかわらず、なぜ養老孟司教授が、教育勅語にメロメロになっているか、実際に読んでみたら分かる。父母に孝行しろ。兄弟姉妹は仲良くしろ。夫婦は仲睦まじく。友人は信じあえ。博愛を施し、学問を修め、そして道徳を完成させろ。以前に数学者の藤原正彦が述べていたことだ。私も台湾で嫁のはとこから見せてもらったことがある。結婚前だったけど今現在は、こうして明治神宮でも目にすることが出来る。学問を修めるというのは、私にとって耳が痛いし頭の痛い一文だが、現代人にないものを感じるね。

 

 

理解と解釈の違い。理解は、他者が相手に対して空気を読むこと。解釈は、方法論。現代人は、解釈なわけ。若い人はこうだと決めつけるあたり、迷惑なわけ。迷惑とは、例えば家の前に放置自転車を置いて行きやがった。仕方ないから、放置自転車があると警察に通報。照会して、どこのドイツかイタリアか知らんけど、後で来るらしいから、置いといてくれ。後で菓子折り持って来やがった。これ当然なんだけど、だいたい親になっている1960年代~1970年代のアホ共が、良い人とか自称しているけど、当たり前だから。ところで大学受験スーパーゼミのシリーズって2021年時点でも売られているね。こういう方法論が解釈。英文解釈などの意味で文法は高校の副教材で使われていたんだけどね。

 

【養老孟司教授の学生】

 

1960年代生まれ

(オウム世代)

 

1970年代生まれ

(無関心世代)

 

養老孟司教授の娘さんも、また、この世代に入る。以前の著書での、テレビの話を知っているかと思う。電源を入れて、テレビの話に夢中になっている。これはまずいと思った。掃除を手伝え。どうせ汚れるんだから、同じでしょ。と来たから、じゃあ、どうせ死ぬんだから、今死ね、と言ってやった。これってたぶん、お笑いのつもりはない。笑い話のような本当の話。真面目に言っていたはず。大学の講義でも寝ている奴がいる。

 

 

音楽を聴いている奴は、右脳が青くなっている。人の話をほとんど聞いていない。これはテレビの影響だと思った。だから突然おかしくなった。

 

 

というフリを敢えてした上で「俺はテレビだからな!」と言ったら、黙った。アイツやべえよ。そこまでならないと通じない。テレビでケンカしているのなら、自分には関係ない。夫婦喧嘩で皿が飛んでいても、現実の茶の間には飛んでこない。だから、養老孟司教授の娘さんも、お菓子や、あんパンを食べながら、テレビのおしゃべりに夢中になっていたのか、不明だが、新型コロナウィルス(COVID-19)の影響でなくとも、充分に肥えている(失礼!)。相模原市における19人殺しの犯人は、恐らく普通の感覚を持っている訳ではないと思う。だけど少し違うと思うのは何。

 

 

それは、前頭葉のブレーキと偏桃体のアクセルという、バランスにある。つまり、極端かどうか。あんなもの、実際には、学校での弱い者イジメでもある。増長して威張り散らすあたりは、現代人と大差ない。勝ったと思って喜んでいる。言ったもの勝ち、やったもの勝ち、は現代の中高年や老人の間でさえ、あるもの。だから、俺は年上でお前は年下だ、と訳の分からないことを言う。年齢なんて出生年月日を見ればすぐ分かる。

 

 

分かるとは、変わること。これ何度も耳にして痛い人もいるかもしれないし、私も耳が痛いけど、数学Bのベクトルのような斜め45度が、最も良いとされている。嫁は変わらない。私も変わる必要がある。だけど相手も、変わる必要がある。だから斜め45度なのだ。一方通行は、これまた行き過ぎ。現代人が苦手な、他人に合わせることというのは、一方的では成り立たない。でも、そうする人は少ない。実は、中高年の幼児化というのは神戸女学院大学・名誉教授の内田樹が2010年頃からすでに指摘していて、サルのごとく自分を大きく見せるのが、精いっぱい。あとは朝三暮四の世界のごとく、目先の利益しか考えていないのである。そろそろだから丁寧に教えるけど、無関心の意味って、本当は、政治参加しないことで、西暦でいえば、本当は1950年前後生まれ以降の人を指す。だけど養老孟司教授の言うことも、一理あるよ。現代は、本当に平和だからね。そのことを感覚的に身に染みている人は、あまりいないんじゃないかな。だから文句タラタラなら、私は参政権を行使するのみであり、これこそが私的に唯一の回答である。下手すれば、年上の俺様が正しくて、年下のお前が間違っている、と言われかねない。でも、私は、それは間違っていると思う。世の中は、正しいと間違っているだけで出来ている訳ではない。嫁と一緒に鎌倉に行ければ、それで良いね。

 

 

 

 

【ニューソース】

新潮社・新潮新書 公式サイト

新潮社・新潮新書 公式サイト