本のタイトルは、たとえ歴史上の人物であっても、やはり生身の人間。危険人物であったり、病気で判断を誤ったり、ということも少なくありません。一口に危ないといっても、検索の候補には『あぶない刑事』が出てきたりするのですが、まあそれは別として、いろいろな秘密がある。いわゆる”まえがき”に「気軽に楽しんで欲しい」とあるので、勉強という感覚はなかった。これは人間観察ですな…人間観察が主体であろう。
武田信玄は、甲斐の国に生まれ、長野県(信濃国)の名馬で戦乱を駆け抜けたことは、かなり有名。その強さのあまり、徳川家康はビビッてウンコを漏らし(食事中の方失礼!)たため、家臣が「それは一体…!?」と尋ねると、徳川家康は「これは腰に付けた非常食の味噌だ!」と答えたのだとか。最後には胃がんで倒れる武田信玄だが、英雄であると同時に、当時は今よりも気候が寒冷で、米があまり取れなかったためか、略奪が横行していた。その一件の間に、家臣は、主人がヘタレだと思えば、コロコロと自分の主人を変えていったのである。気分屋ばかりだ。
下剋上の世の中であるが、この時代でさえ、何も「言ったもの勝ち」「やったもの勝ち」ではない、と思えば、むしろ現代人の精神レベルがいかに幼稚か分かるだろう。実際、武田信玄は太っておらず、この痩せた人物像こそが、武田信玄・本人であり、太った人物は、実を言うと、畠山氏の誰かではないかという説が有力。女子供を売り飛ばす一方で、性格的に気さくで、きめ細かな繊細さは、意外でしょうね。体型なのかな。
そんな戦乱の時代にもう一人、上杉謙信という人物が現れた。上杉家は、もともと扇谷上杉氏と山内上杉氏に、それぞれ分かれていた。鎌倉の方の扇谷上杉氏が越前国(現在の新潟県)に土着し、長尾景虎という子供が上杉氏の養子になったのは知るところ。現在も鎌倉にある臨済宗・大本山の円覚寺は、上杉氏の足跡が残っているが、長尾景虎が上杉謙信になると毘沙門天の「毘」の文字を象った旗を持って行進した。いわゆる神頼みなものか。そんな上杉謙信でもやはり恐るべき強さを誇り、ほとんど負けた経験がなく、一目置かれていた。前評判通り。
当時はやはり米があまり取れず、新潟県もまた今現在より寒冷地帯であったためか、上野国(今現在の群馬県)に攻め込んで、略奪を繰り返した。北陸に北関東となると、それ以上、領地を取る術がなくなるではないか。実際、上杉謙信は、織田信長を倒して自分が将軍になるという野望はなかった。強度のアルコール依存症(アル中)で、戦の間も飲み明かすほどのアル中ぶり。結局は、武田信玄が亡くなった5年後に糖尿病の影響もあって厠(トイレ)で倒れて、そのまま死亡。御陀仏。いわゆる酒の飲み過ぎによるもので、戦の合間にも飲んでいた馬上杯が残っているほど。ただ一方で、武田信玄の家臣も一目置くほど信用性の高い人物である通り「川中島の戦い」で、歴史を残した。死後だよ。
織田信長といえば、サイコパス。みんな大好き認知科学の中野信子先生によると、織田信長は、サイコパスであるという。理由は、比叡山・延暦寺を焼き討ちにしたから。神も仏も信じる時代に、一気に焼き払った。実際、現在の北朝鮮のごとく恐怖政治で、織田信長が通る道に間違って岩を置いてしまっただけでも、その場で切腹。たたっ斬られたのだ。城に帰った際に迎えが来ない女中をソッコーで成敗するなど、冷酷で残酷な一面が垣間見える。家臣の明智光秀が意見するのは気に入らないので激高して足蹴り。ブラック企業ならぬ…ブラック政権であった。
天下布武が有名で、戦って勝ってこそ将軍になれると信じていた。そのため、安土城(復元CG)は石垣が組まれており、日本史上初の石垣を基礎とした城になった。現在の滋賀県にある琵琶湖のほとりに城を構えたが、麓の山小屋からわざわざ城に毎日、通ったという。当時、地下1階と地上6階に及ぶ超高層建築であるが、作りは中国風で、屋根の上に鯱が、城の飾りには龍が施され、天に昇る思いが込められたために、専門家の間でも「織田信長が本当に天下を取っていたら、今現在、天皇は存在しなかった」と言われているぐらい。織田信成はどうかな?
よって本能寺の変でも「討っちゃったテヘペロ説」が最有力候補に挙がっており、家臣が反論しただけでも、殺人を厭わないその性格性が、反対に身を滅ぼす結果となってしまった。巷ではフィギュアスケートの織田信成と比較されるが、現実問題としてまったく異なっている。ぶっちゃけていうと、現代医療(心療内科・精神科)と、認知科学の中野信子先生の影響から、のちの織田信長の本当の姿が見えたといえよう。身長も170㎝ほどと、当時としては高身長であり、やはりそういったことからも、家臣たちは恐怖を感じていたに違いない。まさにモンスターな人物。
豊臣秀吉は農民の家から生まれ、木下藤吉郎という名前だった。織田信長の草履取りをマメにやって昇進したのは有名だが、その様子の通り、したたかだった。ゴマすりも厭わず、周りに「アイツ…ゴマばっかすってバカじゃねーの?」と思われても、その八方美人ぶりは一向に直さなかった。特に「”柴”田勝家」と「丹”羽”長秀」から、羽柴秀吉と名乗ったのは、有名な話。身長140㎝と、非常に小さく(小人症?)、体を少しでも大きく見せるために、ダボダボのゆったりした衣装を纏っていた。ちなみに、体を大きく見せる方法は、朝鮮半島北部にいるような人みたいにプックリと太る方法もあるんですけどね。でも、健康にあまり良くないでしょう。これはNHK『偉人たちの健康診断』ですよ? つまり、豊臣秀吉の死因は、脚気から来るウェルニッケ脳症なのだそうです。意識しても…たとえ無意識でも、やっぱり最終的に脳か肺かに行くんだよな。
政権を取った豊臣秀吉は豹変した。周りに褒められ、ゴマすりされる側になるので、気分が良かった。これにより幸せホルモンと呼ばれるセロトニンの分泌量が減り、他人に当たることが多くなったという。現代日本でも、中にはいるだろう。50代とか60代にもなって、有名人でもないのにFacebookやInstagramで自慢大会を繰り広げている奴。あれも一種のセロトニン受容体の低下によるもの。アメリカ精神医学会では、実はFacebookやInstagramこそ、最も依存度が激しいと言われており、個人ブログとTwitterとFacebookとInstagramで調査したところ、ハンドルネームで良い個人ブログが、最も信憑性の低いツールであり、さらにTwitterが、最も嘘つきが多いのはFacebookとInstagramで、信憑性を確かめに、調査しに行く番組をやっているほど。アメリカでは高視聴率を記録しており…自戒を込めて見ている人も決して少なくないようだ。
(ストレス発散場所と化す電車内)
このように豊臣秀吉もまた贅沢がやめられない依存症のような状態にあった。死ぬ3か月前には息子の秀頼には「気に入らない侍女4人を一つの縄で縛って殺してあげるからね!」という愉快(?)な手紙まで残している。かつては犯人を匿った寺のある街を関係ない町民まで皆殺しにしたり、いわゆる「人殺しなら俺だろう!」と言わんばかり。これ実は、年齢により前頭葉の機能の低下によるもの。先述のように、依存症の人はいないだろうか。これでいったん手を止めることが出来れば、それほど依存度は高くないといえるが、幸せを感じておらず、社会にも溶け込めないとか、他人と上手くいかないとか、そういう人こそ、次の段階に前頭葉の機能低下が関わってくる。もし手を止められないなら、心療内科・精神科を受診するべきだろう。そう、これは『偉人たちの健康診断』ですから、番組の趣旨は、現代人に対する警鐘であり、決してバカにしているわけではないのです。かつて養老孟司教授は「旧制高校の生徒(20歳)の精神年齢=現在50代の中高年(2018年時点)の精神年齢」という例えをしたが、あながち間違っていないのが頷ける。それだけ…今現在の人たちはかなり幼稚的な精神年齢になってしまったのだ。
石田三成も、これまた豊臣秀吉と同じく、身長は165㎝ほどであるものの、全体的に華奢であるためか、どちらかというと、頭脳派であった。まさに、縁の下の力持ちで、賤ケ岳の戦いにおいては、家臣たちの武具をすべて外させ、近くの城から運ぶ方法で、夜襲を駆けるのに、松明を持って走っていった。何より、相手よりも、先回りして山や丘の上を取る方が得。相手陣地のすべてが見渡せるわけです。かつては、豊臣秀吉も、朝鮮出兵の時にやった水陣作戦を展開して大敗を喫し、笑いものになったこともあったが、性格面では、実は、おっとりして優しかった。
ある時、柿を食べるか?と問われると「腐っているかもしれないからいらない」と言って、これまた笑いものになった。そのことから、神経性による過敏性腸症候群であったと思われる。腹痛で柿を食べられなかったのだ。こういった精神面が仇となって、家臣の一人である小早川秀秋の謀反にも見舞われた。小早川秀秋も、またアル中で、肝硬変を患っていたと思われる。このため一時的に錯乱状態に陥り、関ケ原の戦いにおいては、東軍の黒田長政にそそのかされて、謀反を起こしたという説が有力。天下分け目においても酒が要因だったとは…酒の勢いって。
土方歳三は現・東京都日野市の一般家庭に生まれ、曾祖父の代から”武士株”を買っていた影響で、商人・農民から武士に転身する。その心意気を買われて新選組に入るのは有名だが、そもそも新選組とは会津藩主・松平容保や江戸幕府14代将軍・徳川家茂らを守護したり、首都・京都の警備を図るもの。どうしても江戸幕府を守りたかった近藤勇や沖田総司や永倉新八らと対立。それぞれのグループに分かれる。さらに、池田屋事件においては尊王攘夷派と対立。激しい斬り合いにもなって、現在も京都に存在している池田屋には、玄関や柱など、そこかしこに斬り跡が残っている。残っているというより、ここまで来たら…歴史的事件として、足跡を敢えて残しているのだろう。だから証拠になる。
大政奉還の後は、榎本武揚らと共に明治維新とは、また違う新政府軍を結成し、函館の五稜郭に籠って、新たな政権を作ろうと模索していた。その政権が、各大名を政治家および大臣にして、天皇主権のもと徳川家が仕切るというモノ。これも、西郷隆盛ら明治維新派は、絶対に許さなかった。いわゆる「函館を首都とした北海道共和国」なるものを建設しようとしたが、最後まで及ばなかった。世界に建国を認められれば日本政府も手が出せないわけだが、西郷隆盛らの強さは圧倒的だった。野蛮な農民にはやはり勝てまい。都市の人間はやはり貧弱だな。
坂本龍馬って知ってる?って聞いて「えっ知ってるよ!」と平然と答える人がいる。ちょっと待て。日本三大珍事といえば「邪馬台国の場所」と「明智光秀の謀反の真相」と共に、この「坂本龍馬暗殺事件真犯人の行方」ですよ?…子供の時に早々、父親も母親も亡くし、高知県(土佐藩)の「いいところのお坊ちゃん」であったためか、10歳になっても、おねしょがなかなか直らず、いじめられっ子だった。塾通いで…勉強三昧。
だから都市の人間は弱いんです。そういう世界にしてしまったこともあるわけですが、そんな貧弱な弟を鍛えるために、年の離れた兄と姉が、それぞれ父親役・母親役になって、面倒を見ていた。特に都市の離れた姉は、その名も”乙女”と言いながら身長175㎝/体重112㎏という巨漢だった。その恵まれた体格を活かして、剣術は、一度も弟・龍馬に負けなかった。まさに「坂本のお仁王様」というあだ名に相応しいわけだ。
坂本龍馬暗殺事件に関していろいろ言われているが、坂本龍馬が最後にいた部屋を調べると、畳が2畳ほどしかなく、天井も低いため、当時の人たちが立ってもすぐ天井にぶつかってしまうほど。しかも、掛け軸に飛び散った血の方向から見る(現在も存在する)と、新選組の斎藤一ではないか、という説が有力になってきている。斎藤一は当時でも珍しい左利きで、脇差で一突きするのは得意だった。恨みもないとすれば、いや尊王攘夷派の坂本龍馬を恨む理由も、あるかもしれない。とにかく、この時まで新選組の影響もあったが、謎が謎を呼ぶ真相や如何に。
徳川慶喜(32歳)
水戸藩から出てきて江戸幕府15代将軍になった徳川慶喜は、大政奉還を行う人物で知られている。その通り、なぜ大政奉還が出来たのか、といえば、味方からあまりのヘタレぶりに「腰抜け!」とバカにされるほどだった。戊辰戦争なんてもっての外で、自分の命が優先であった。かなり都市化してしまった江戸時代では、戦国時代なら「言ったもの勝ち」「やったもの勝ち」なので犯人が捕らえられず泣き寝入りするしかなかったのに対し、新選組のように捕縛してくれる組織が出来たためか、平民は何もしなくて良いので他人事になっていた。傍観する間抜けぶり。
つまり、この頃から、もうすでに近代化していて現代人になりつつある。上野の寛永寺に籠ったり、最後まで抵抗することなく、静岡県でひっそりと暮らした。徳川慶喜の第二の人生は写真家。今現在でいうカメラマン。このことを知っている人って、どのぐらいいるんでしょうかね。取り敢えず領地を5000石まで減らされ、3万人もいた家臣のほとんどに見放されて、それでもついてきてくれた1万3000人が残っていたためか、すべてを賄いきれなくなっていた。そこで勝海舟の発案で生み出されたのが「静岡県・お茶の名産」計画。ここで初めて、静岡県において、お茶の栽培が始まるわけです。その一方で徳川慶喜はカメラマンとして写真を撮りまくったわけで、それだけで幸せいっぱいでした…老後は良いね。
(撮影・徳川慶喜)
昭和の中期~後期にかけても、写真屋が流行ったわけだから、この時に流行らないはずがない。誰でも持っているわけではないカメラは、高かったわけだし、それなら写真1枚でもってなるのは当然でしょう。このほか、狩猟にも出かけて、一日150本もの弓を放った挙句、腱鞘炎になったため、行きつけの病院からは、ドクターストップがかかって一日100本に減らされたこともあった。それでも生きる喜びを噛み締めていた徳川慶喜は、責任を感じていたので、表にあまり出て来なくなっていたが、近所の人たちの優しい眼差しや、明治天皇に謁見して公爵の地位を与えられたことによって、名誉を回復。67歳には、ついに貴族院議員として、当選するのである。将軍様以来35年ぶりの政権復帰を果たした。
明治天皇に謁見するために巣鴨に移り住んでいた徳川慶喜は、貴族院議員を8年間全うし、江戸幕府初代将軍・徳川家康の享年と同じ75歳で引退。77歳で生涯を終える。徳川家長寿ランキングは「1位・徳川慶喜(77歳)」「2位・徳川家康(75歳)」となっている。徳川家代々の墓には入らず、どの将軍徳川家の墓と同じ場所にも入らなかった徳川慶喜は、これまたひっそりと墓を建てて、死んでいった。写真の顔だけ見るとするならば、我が家にポツンといてもおかしくないジーサンぶりで、なぜか親近感が湧く。決して怪物なんかではない、一人の人間なんだということがよく分かる。見ての通り、土方歳三や坂本龍馬らの頃から肖像画ではなく本物の写真に切り替わっているが…当然ながらこれが限界。
現代の人、少し見直すところも、あるんじゃないですかね。俺が俺が、と前に出てき過ぎなんですよ。江戸時代は、家庭内でだって「あー」とか「うー」とかぐらいしか言わなかったというが、やはり口先よりも、体を動かすことってすごく大変なんです。ぶっちゃけ、相手にコメントさせて何も反応しない人っているでしょう(忙しい有名人は除く)。相手の気持ちを汲み取るのが、恐らく苦手なんですね。社会で上手くいかない、他人と上手くいかない、それなら、自然に出ていくことです。徳川慶喜のように狩猟とは言いませんが、免許が必要だし、現在はやたら狩猟なんて出来ませんので、昆虫採集でもいいし、私みたく、ちょっと鎌倉にふらっと行ってみよう!でもいい。養老孟司教授も、やはり、こう述べている。
これは『自分の壁』(2014)でありながら、自分がどうしたいか、ではなく、相手との距離感です。それは、仏教でもキリスト教でも、もともとの教えは同じ。地続きでもあり、距離感でもある。仏教は「恥の文化」で、キリスト教では「罪の文化」という違いは、当然あるものの、どちらも一歩、引いてみて、遠くから眺めてみれば、そんなに変わらない。欧米の文化は「個性を作ることを世間が強要する」のであって、決して自分勝手に個性を発揮するわけではない。それだったら相手の迷惑までが正解になってしまう。だから「オンリーワンよりただの人」であるわけです。
京都の二条城から逃げまくり、江戸城での無血開城を宣告され、それでも徳川慶喜は、いっさい抵抗することなく、上野の寛永寺に籠ったり、平和主義者であったことは、決して間違いないです。ただしかし、その責任が付いて回った。仕方ないから、当初は勝海舟の言うことを聞かない将軍であったものの、静岡県にお茶の栽培を広めるということに関しては、納得したわけです。どうしても生活が懸かっているわけですからね。一時は柳沢吉保から豚肉を送られて「豚一どの」というあだ名を付けられたこともあったし、豚肉はビタミンB1が豊富なので、長生きが出来たなどという、今現在で言えば信じられないような噂話まで広めることも出来た。徳川慶喜が天国から見ていれば、いずれ死はやってくる。
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