近鉄雑感<最終回>、補遺、ちっぷす・あ・補遺1/2 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

メニューは全くアトランダム、思いつくままであります。

年代も時代順ではありません

%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

・・・前半戦1/2・・・

①「大英断・宇治山田駅建設」

 途中で何度か出てきましたが・・・やはり書かずにはいられない

②賢島に行ってびっくりしたこと2題

 1)賢島の「ローカル線用駅舎と特急用新駅舎」

  2)優等列車が、退避駅で右追い越しをしていくのを見たカルチャーショック

③あとから知った「新日本紀行・ふたたび」にでてきた<たこで伊勢エビを採る方法:タコ伏せ漁>

④「赤福」のはなし

・・・後半戦・・・

⑤「合同電軌」って、何と「ごーどー」してんの?

⑥あくまでも個人的にですが・・・私が「大岡越前守忠相」がほんとにすごいと思っているところ。

 ・・・近鉄とぶぎょーが関係あるか?・・・②③があるなら・・・あるべ・・・

****
①「大英断・宇治山田駅建設」
  
宇治山田駅は参宮急行が昭和6年、「お伊勢さん」の代表駅として、
  また、同年開催された「御遷宮奉祝神都博覧会」の会場跡地に開設されました。
  鉄筋コンクリート、ばけらった・・・てなこった・・・テラコッタ張り、地上3階一部5階(塔屋)、
  間口128m、貴賓室が儲けられておりました。

  設計者は、東武浅草駅、南海難波駅を設計した、久野節氏であります。
  入口上部には八角形の窓が並び、
コンコースの高い天井共々、デザイン性に優れた昭和初期の名建築と

  評価されており、駅舎本屋は平成13(2001)年に国の登録有形文化財に登録され、

  第1回中部の駅百選にも選ばれております。

  構内配線は片式ホーム1面と櫛形ホームによる3面4線の高架駅で、3階にホーム、2階に改札口が

  設けられました。高架駅ながら入口は1階の西側のみで、ホームから直に駅の東側に抜けることは

  できません。櫛形ホームのうち、1・2番線は鳥羽方が行き止まりで折り返し専用になっております。

****<図ー1:宇治山田構内配線>***

***
  建設時は発着便40本。1日乗降700人(*)。この数字で、この規模の駅・・・ほとんどの関係者はあきれて

  しまったようですが、その後の大発展は皆様ご存知の通り、2013年の乗車人員は6700人/日。

  また、特筆すべきは、

  ①周囲に望楼のごとき高い建物がなかったため、市消防本部が昭和11-43年まで仮住まい。

    市中の火の見櫓の役割もしていました。

  ②ホーム上の賢島特急バス便用ターンテーブルがあり、

    山田発着列車ー賢島・鳥羽行き特急バスー賢島に直接到着/志摩電氣鐡道に連絡 と

    綿密なネットワークが形成されていました。

    (*)1日40本発着、乗降700人・・・奥羽本線「鷹ノ巣」がJR分650人、40本発着+秋田内陸縦貫鉄道分

      あたりが相当でしょうか・・・モチロンこの選択に他意はありません

<参考>鉄道ピクトリアル 近畿日本鉄道特集 1981年12月 臨時増刊1 pp82

           近鉄の駅物語「宇治山田駅」 高田昌紀 氏著 Vol.31 No12 通巻 No.338

②賢島に行ってびっくりしたこと2題

 1)賢島の「ローカル線用駅舎と特急用新駅舎」

**********<写真ー1:ローカル線用"賢島”>***

  

自動カメラ、撮影日:昭和53(1978)年3月18日 雨天

****************************

     賢島に着いたときはてっきり↑の駅舎を使うものと思っておりました。

     ところが、鳥羽まで「快速きゅーこー」とかゆーほっかいどーにはない列車種別やってまいりまして、

     最後は、ありゃ?トッキューしかないのね?とユーことで賢島へ。

     確か鉄道ピクトリアルで見た、三角屋根の駅を使うんだったよな・・・とか考えながら。現地についてみると、

   ナニヤラコンコースから何から、びしっと近代的ビルのような駅・・・・

   でも鉄ピクさんがうそをつくはずもないでしょーに。。。と思ってみると・・・

      この新しい駅舎が「南口」とユーらしく、その西側に、写真の駅舎にアプローチする連絡通路らしきものが

    あって、その先にありました!ありました!!ホームなど駅設備一式。

    これらは志摩電氣鐡道時代に作られた駅構えで、現在はふさがれて違う目的に使われ、ホームも北側に

    移設されたとうかがいました。当時、旧・シマデン設備はローカル電専用だったのでした。

 

  2)優等列車が、退避駅で「ローカル電」を右追い越ししていくのを見たカルチャーショック

    私が初めて志摩半島に上陸した昭和53(1978)年3月、賢島→名古屋は「天下の近鉄特急」に

   乗ってみましょう・・・とゆーことになり(もちろん乙でしたが)デッキなし、回転クロス、時期を考えますと

   10400系と思われます。

   平日だったのでしょーか?すいておりまして、先頭車の名古屋よりの座席が当たりました。

   当時の志摩線はまだ全線単線、とユーより、シマデン規格に、閉塞信号の数を少し増やして、道床を

   これまた少し厚くした程度とか伺っておりました・・・

   ・・・こんなクネクネ路盤でよくこのスピードが出るね?!など(シマデン関係者の皆様、スイマセン)

   考えながら気分良く乗っていますと・・・前方に、島式2線ホームの駅が見えて参りました・・・・

   え?!左番線に「ローカル」とまってるぢゃん・・・自分が乗っている特急は一向にスピードを落とす

   気配はありません・・・両開きのポイントに突っ込みます!!

   ☆☆しょーーーーーと☆ーーーーつーーーー☆彡☆

   なんかせず、特急は右番線をユウユウのスピードで駆け抜けていきました。

  

   何のことはない、賢島ゆき方面ホームにも「名古屋方面閉塞信号機と出発信号機があるのね?!」

 

  考えてみればこーゆー追い越しもトーゼンあるよな。

  しかし、右側追い越しは北海道ではやっていなかったはずですし、ほかの地方でも見たことがなく、

  カルチャーショックでした。

  「追い越しは左番線のさらに左/あるいは中線でなくてはならない」とは誰も決めていないのだろーな・・・

  いい勉強になりました・・・「先入観のフンサイ」

 

③あとから知った「新日本紀行・ふたたび」にでてきた<たこで伊勢エビを採る方法:タコ伏せ漁>

  諸賢は・・・といっても、ある程度の年齢の方(失礼!!)・・・「新日本紀行」なるNHKの番組があった

  ことを覚えておいででしょう。

    それから、さらに20年ほど経ったあるとき、夜も更けてまいりまして、TVでなんかオモロイのやってない

  かしら?と・・・

  すいっち・おん!!

  おっ!!このブラウン管を無駄しない「御尊顔の面積」は、まぎれもなく、朗読の名手、カガミモチ・・・

  加賀美幸子元・エグゼクティブアナウンサー・・・

  以前、放送した「新日本紀行」の土地を再訪でき、当時の関係者ともある程度コンタクトをとれた

  モノを「新日本紀行再び」というタイトルで流している、という主旨の番組でありました。

  私は結局、この1回だけが、最初で最後だったのですが、元々の「原盤・新日本紀行」を知らなくても

  十分楽しめる番組でありました。

  この時は、伊勢志摩の「タコ伏せ漁」のオハナシで・・・現在は、伊勢エビといえども「延縄はえなわ

  (**)」漁である。そーしますとですね、あの、イセエビ君の立派な「おひげチャン」とゆーのでしょーか?

  たまたま折れることがあるらしい・・・姿盛りにはも~使えなくなるようですよ・・・かりに使っても

  半値になるとか?

 

  おーげさだなー、とか思いつつテレビを見ておりますと、

  なんと、「タコを使って伊勢エビを採る方法」というお話が出て参りまして、

   「待ち伏せ」ならぬ「たこ伏せ漁法」だとゆーんです、これが・・・

   番組ではまず、「たこ伏せ漁」は二人組で行われ、能率は決して良くなく、体力を要し、

  技量も高度なものが要求される・・・などなどムチャクチャな紹介があって、さらに・・・

  「伊勢エビ君はタコを天敵としている・・・

  そこで、岩陰に潜むイセエビ君を<タコの足だけ>でもちかづけると、

  あわてて岩から逃げ出そうとし飛び出て来るところを、相棒(素潜り)が捕まえる・・・

  この時、タコアシが生きているように動いていなければ、イセエビ君は慌てない。

  一番の技術を要するところである、そして、相棒は、飛び出てて来たイセエビ君をつかみ損ねることも

   あるとか・・・

 

   新日本紀行・再び、では、過去の番組で「タコ伏せ漁」に出演したコンビを訪ねるのですが、

    当時の二人組の一人はすでに亡くなっており、もう一人も潜水病で漁師を引退しておりました。

 

    番組構成には、「当人にお目にかかって、ここ20年のご自分たちの周囲を取り巻くカンキョ―の変化を

   当時の出演者たちに伺うことも主旨の一つだったと思いますが、20年も経っていれば、これはこれで

  なかなか「クリアしがたい条件」ではなかろーか?と思いました。

  番組を作る方も取材を受ける方もやりづらい面がありそーだなーと、少し後味の悪さが残りましたです。

%%%%%(**)延縄ハエナワ%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

  <構造>

    幹縄(みきなわ)にのれんのように、枝縄(えだなわ)を何本も一定間隔にたらすようになっています。

    枝縄の先には釣り針、または疑似餌がつきます。また、幹縄を支えるための色々な大きさの浮きを

    取り付ける浮き縄をつけて、回遊する魚群の水深に目途をつけてハエナワの水深もあわせ、捕獲します。      

  幹縄の長さは数10mから数1000m。

  <長所・短所>

  効率は決して良くありませんが、目的の魚以外はあまり水揚げすることなく、乱獲を防ぐには今のところ

  いい方法なのだそうです。

%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

ところで「タコ伏せ漁」を磯舟に乗って行う方法もあるとか

    それは昼間、岩陰に潜んでいるイセエビ君を、天敵であるタコを使って、岩穴から誘き出し

    タモですくい上げるのです。イセエビ君がタコを恐れて岩陰から逃げ出したところを捕まえます。
    通常、二人で行い、一人は舟をコントロールし、他の一人が船端から、磯めがねを使って海中を

    覗きながら、漁を続ける役はかなりの重労働で、そのためかどうか分かりませんが、最近は

  この漁法でイセエビ君を獲る人はほとんどいなくなってしまいました。  

  片手にタモ、片手に生きたタコを縛り付けた竿を持ち、磯めがねを口にくわえ、船端に胸をつけての

  作業は、熟練者にとっても大変な重労働だろうと思います。

 *磯めがねは木製で、角錐型の単なる筒ですが、海面の反射を避けて海中を覗くには最適の道具です。

   めがねの縁の手前側を口でくわえ、向こう側を鉢巻した額で押さえます。そのため額の当たる所が

     彎曲しています。

   ----いわれてみますと、この方法でイセエビ君を採っている方々も出てきていましたネ。

  磯眼鏡をがっちり噛むので、ある程度の年齢になると、皆、歯を傷めて、総入れ歯になるのだとか・・・

  イヤハヤ、世の中楽なショーバイはないな・・・とも思いました・・・

 

④「赤福」のはなし

  モチロン今回は、賞味期限をごまかしたとかユー話ではなくてですねー・・・ソーギョー時のオハナシで・・・

 

   赤福経営者である濱田氏は、濱田ます(8代当主・種三の妻、企業としての赤福初代社長)の口述によると、

   先祖は応永年間(1394 - 1427年)に宇治に移住して来たまでは判明していますが、

 来歴・人脈はそこまでそうです・・・といってもさぁー、でもフツーのおうちってそこまでもわかんないよね?

   赤福の正確な創業年は不明だそうですが、江戸時代初期には皇大神宮(伊勢神宮内宮)前、五十鈴川の

  ほとりで既に「赤福」の屋号を持つ餅屋を営んでいたといわれています。

   宝永4(1704)年執筆、宝永5年刊行の市中軒の浮世草子『美景蒔絵松』に、伊勢古市の女が

  「(恋仲になった男が)赤福とやら青福とやら云ふあたゝかな餅屋に聟に入りを見向きもしなくなってしまい

  その裏切りがくやしうて泣いております」と嘆いたという話があり、これが「赤福」の屋号の初出とされ、

  そのため、現在は1707年を赤福の創業年としているそうです。

  さて問題はここからです・・・といっても「赤福」は製品の改良の努力に怠らず不断の努力を続けた・・・

  と解釈するのが一般的と思われますが(食品としてなかなかできることではありません)

  ・・・ただ創業時の「赤福」と現在の「赤福」はおそらく「甘味の点で違うかも?・・・

  とユーお話で

  こんな話は全国探せばいくらでもあると思いますよ。

  ・・・あ、ソノー、けちをつけるとか、そーゆーことではなくてですね、個人的に自分のあてずっぽが

  あたっているかどーかを知りたいだけで・・・・どーヒョーゲンしたら角が立ちませんでしょーか?

 

  やはり考えた末、マッコーしょーぶで!!

  まず、下の徳川征夷大将軍達の一部をご覧ください

**************************

 表ー1:徳川幕府 5-8代将軍であります(年号は将軍在位期間)

************************************************************

8;徳川吉宗  1716-1745 

7;   家継    1713-’16     

6;   家宣     1709-’12

5;   綱吉   1680-1709

**************************

「赤福」の故事来歴にによりますと、開店は1707年。綱吉さんの時代とユーことです

一方菓子類の甘味は、ずーーーーとサトウキビから採った「黒糖」が使われており、「和三盆」が開発

されたのが吉宗さんの時代、「(上)白糖」はもっと後です

日本の伝統で糖分の精製を「磨く」というのだそうですが、でっかい厚い板(これを「盆」とゆーのだそーです)

の上できれいな水と混ぜては水分を蒸発させること三度行ない「磨き」仕上げていくのが「和三盆」だそうで、

「赤福君」の甘味が途中で「黒糖から「和三盆に質を変えていないかな?とユーのが私のキョーミの一点で

あります。

 

トコロデ・・・

吉宗が行なった「享保の改革」は「倹約」を第一のスローガンにしていましたが、「チョーゼツ名産品」あるいは

「生活便利品」を作った者には「賞金 or 商品奨励金」を出すよという「倹約だけぢゃないよ!功績あらばゴホービ

だすよ」といった逃げ道も作っていました。

和三盆は努力が認められて賞金が、ユーメーな青木昆陽の甘藷栽培には引き続き行えるよう報奨金が

出たといわれています。

 

 

スイマセン。例によって、寄り道が多すぎて1回にまとまりませんでした。

ご容赦ください・・・

 

近鉄雑感<最終回>、補遺、ちっぷす・あ・補遺1/2  了

 

後半戦に続く!!