前回(1 / 31)戦前の大型車について、下の表3社の代表的車輛の概要を
書き、このシリーズも終了予定でしたが、友鶴事件だの、蒼井雄さんだの
脱線してましたら、「参宮急行2200」を書くスペースがなくなってしまいました。
「三度目の正直:重量級大馬力電動車輛」
(下の表は1/1や1/31の記事のものと同一です)
今度こそ、2200形について書き終え、皆様から「参急!!」という
御支持を頂くつもりでおります(もー、帰って、イーゾ)。
◎参宮(*)急行電鉄について
「大阪起点として、奈良盆地を経由、伊勢神宮に至るルートを鉄道で」
という構想は、明治中期以来の関西の起業家(特に京阪の鉄道屋さん)と
熱心なお伊勢信仰者さんたちの夢でありました。
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鉄道会社名に「参宮鉄道」がはいっている(いた)鉄道は意外と少ないのであります。
・参宮鉄道:津ー相可#ー山田## ⇒国鉄・参宮線###
# 津ー相可間は紀勢線に編入
相可は現・多気、
また相可は「相可高校:全国初の料理専門科」を設置した高校として知られています。
##現・伊勢市
###伊勢神宮:九州・高天原ー天照大神が主神なので「山岳系神社」
☆・・・に誓って:は「天地神明に誓って」と決まり言葉があり、旧江差線、福井鉄道などに、
「神明」駅があり、近くに伊勢神社系お社があります。
・参宮急行電鉄:本項
・鹿島参宮鉄道(鹿島神宮)
⇒関東鉄道に吸収後、収支悪化し再度「鹿島鉄道」と分社化したのち、廃線
・琴平電鉄⇒(戦時統合)高松琴平電鉄(金毘羅宮)<コトデンコトヒラ>
後ろのカタカナ名はニックネーム?です
既に廃線となっておりますが、ほぼ同ルートに「金毘羅宮・セトウチ港」の連絡鉄道がありました
+琴平急行電鉄<コトキュウコトヒラ>
+琴平参宮電鉄<コトサンコトヒラ>
・筑前参宮鉄道(宇美八幡宮、筥崎ハコザキ宮)⇒西鉄・宇美線⇒国鉄・勝田線
⇒⇒赤字対象路線ですでに廃線
・宇佐参宮鉄道(宇佐神宮)⇒大分交通・宇佐参宮線
全国44800社のトップに立つ宇佐、鶴岡、石清水八幡宮の
三社のうちの一社、⇒⇒短距離ゆえに早くにバス化されました。
<「参宮」の名前は入っていないが明らかに寺社参拝客輸送が目的の鉄道
・一畑鉄道⇒一畑電気鉄道⇒現・一畑電車
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◆参宮急行電鉄2200系電車 とは?
近畿日本鉄道(近鉄)の前身の一つ、「参宮急行電鉄」により昭和5-16(1930-41)年に製作され、
長距離優等列車の主力を、近鉄成立時から以後、長きにわたって勤めた、高速電車の
傑作車輛の一つであります。
走行距離は上本町(⇒上本町6丁目)~山田(⇒伊勢市):136.6kmと上記の表、他2社を
圧倒的に引き離しての、と申しますより、本邦での、戦前電化最長運転区間でありました。
次がおそらく
名岐(新岐阜ー名古屋)+初代・名鉄の(神宮前ー豊橋)の99.8kmになるかと思いますが、
戦前は、途中、名岐側の東の終点・新名古屋と初代名鉄の西端、神宮前間5.8kmとはいえ繋がって
おりませんでした。また、これに次ぐであろう、第3位の日光ー浅草は94.5kmであります。
さらに、また重なりますが、上の表で「参急」以外の2社は、
・阪和電鉄線が61.2km、
・新京阪鉄道線が天神橋(%)-西院34.4km(昭和3年+)
といった距離しかありません。
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(%)当初は、梅田に京阪本線(京阪梅田線)と共用の総合ターミナル駅を設ける予定でしたが、
オトナのジジョーからしばらくは実現不可能と考えられたようです。
そこで、十三駅 - 淡路駅 - 千里山駅間の路線免許を所有していた(開業は
「淡路・豊津(3.4km)」のみ)北大阪電気鉄道を買収。同社の免許を利用して
大阪市内の天神橋筋六丁目(天六)に暫定ターミナルを設けることにしました
[大正14(1925)年]。
暫定ターミナルとは言っても、完成した天神橋駅(現・<阪急>天神橋筋六丁目駅)の
駅舎(後の「天六阪急ビル」:2010年に解体)はアメリカ・パシフィック鉄道などの
インターアーバンのターミナルを模範にした、プラットホームを2階に設ける
電鉄駅内蔵型高層ビルとして、本邦における嚆矢となりました。
これは、当時としては他に類を見ない程の高層建築物であり、さらにそれだけに
とどまらず、このビルから、新淀川橋梁直前に至る鉄筋コンクリート製高架橋の
一連の設計思想は、以後日本で開業する都市間高速電車線の路線計画に多大な
影響を与えました。
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+前回の「新京阪」のところで申し上げましたように、このころから、「本丸・京阪」も台所事情が
苦しくなって参ります。
昭和5年に親会社京阪への合併、西院サイイン(▼)から京都中心部へのアプローチは、
京阪京都(十三起点43.3kmなる駅を地下に設けて西院から延長させました。
現在の(京都)大宮駅であります。
昭和38年河原町まで延長されるまでは、阪急京都線の終点で、関西の地下鉄道としては
初めて、日本では、宮城電鉄仙台駅、帝都地下鉄(⇒めとろ:浅草ー上野)につぐ3番目の
地下鉄道でありました。
西院(▼):古くは「さい」と発音しており、「新京阪ー京阪ー阪急線」は<さいいん>、
京福・嵐山線は古代からの土地名<さい>停留所を採用しています。
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さて、この、2200形、総数83輌が作製されましたが、
制作時により、次の2群に大別されるのが一般的です。
①「2200系(旧)」グループ57輌:昭和5-6年製。
②「2200系(新)」グループ26輌:昭和14-16年製。旧「2200」と区別を明確にするため
「2227系」とも呼ばれておりました。
◎どんな電車であったか?
<運用>
昭和5(1930)年の参急本線(現・近鉄大阪線・山田線)桜井駅 ー 山田駅(現・伊勢市駅)間
仮全通に先立って設計・製作されました。
平坦線はいうに及ばず、急峻な33/1000勾配区間(青山越え)での確実な高速運転、
また、特に山岳走行時の客室の気密性・保温性。そして、優等列車らしい余裕ある空間を
作り出しながらも収容力を確保するといった、相反する条件を満たすなど、
いくつかの困難を乗り越えて誕生した「名車」という以前に「労作」といったほうが適切
かもしれません。
このため20m車体に、大出力主電動機や発電ブレーキ併設制御器(青山越え対策)、6連対応
ブレーキなど、制御装置は、WH社⇒三菱がライセンス生産した、自動進段(自動加速)機構
(AL制御)を備えた電空作動単位スイッチ式「ABF制御器・・・後年 " 小田急2100 " が採用」を搭載。
さらに勾配抑速用の発電ブレーキを作動させるため、運転台主幹制御器には合計8ノッチの
抑速段が設けられており、高い速度を一定に保った状態で抑速降坂が可能となりました・・・等々
これら高度かつ重量機器の搭載余力を捻出するため軽量化にも意が図られ(最初の表を
ご覧いただくと、2200形の車長が少し長いのにもかかわらず、車重はわずかではありますが、
ほかの2社製品より軽め、ということにお気付きになりましょー)。
以上のごとき綿密な研究と細心の努力が結実、平坦線での設計最高速度110km/h、2M1T編成で
33/1000上り勾配における均衡速度(加速度が「0」になってしまう上限速度)65km/hという、
当時としては驚異的性能の高水準車輛の登場となりました。
さらに、参急の「150kwモーター」にはちょっとした数字のマジックがありました。
山岳地帯(蒼山越えなどの地域)に入りますと、「電車に供給される電圧が降下ぎみ」になる
可能性がある・・・と、各社の定格出力は電動機端子圧750V計算(1500V/2)で算出されたもの
ですが・・・・
参急の端子圧は、750Vから10%減じた入力(750x0.9=675V)で150kWが出るように製造
されていたため、1500Vの電圧負荷がありますと、150kWの10%増しの、すなわち
150x110/100(%)x1/0.7355≒223PSのパワーが得られた(始めの表で、2200のみ高い馬力の
理由はここにありました)のです。
*北海道のC62x2+客車11輌(山線の全盛期急客編成「ニセコ」「ていね」「大雪」)では、
10‰均衡速度が67.0km/hrでした。
◎2200形(旧)の車種構成
◇2200形(旧)の構成メンバーです。
〇電動車ーーー●デ2200形2200-2226:両運転台制御電動車(Mc)
●デトニ2300形2300 - 2307:両運転台式で宇治山田寄りに特別室と
荷物室を併設した制御電動車 (Mc)。
〇付随車ーーー●サ3000形3000 - 3016(T)
〇制御車ーーー●ク3100形3100 - 3104:区間運転用片隅式運転台付両運転台式制御車 (Tc)。
以上57両と下に製作所を示します。
- 田中車両(⇒現・近畿車輛):デ2200・デトニ2300形
- 汽車製造:デ2200形
- 川崎車輛(現・川崎重工業):デ2200・サ3000・ク3100形
- 大阪鐵工所(現・日立造船):デトニ2300形
- 日本車輌製造:サ3000形
参考:Wikipedia
◎車体概観
比較的角ばった外観の正面貫通式車輛。
全長20.6m、車体長19.72mの車体は、いまだリベットが目立つ鋼体のためか、やや重く
古典的な趣であります。しかし竣工時の昭和5-6年製ということを考慮すれば、
一歩近代的イデタチに踏み出した、見事な均整の外観といえましょー。
個々見て参りますと、
運転室ドアの有無で制御車か否かという違いは出て参りますが、それ以外、
各車で、外観上での大きな違いはありません。
いずれの形式も側窓は800mm幅、2段窓が長大な車体全長一杯に16個並んだ
サイドビューは、それまで本邦には長距離電車のモデルがほとんど存在
しなかった当時の作として、デザイン決定までの策定に苦心が感じられます。
しかし、高速運転時には、やや狭いくらいのほどよい窓幅が、走行中の外観から
一層のスピード感を演出。乗客は景色が細かく移り変わっていく錯覚にとらわれ、
こちらもまた爽快なスピード感に浸ったのではないでしょうか。
まさに、名車になるか?ならずや??といった肝心な所で設計者のセンスが光った施工では
なかったかと思います。
このデザインが、その後登場する鉄道省モハ42系電車などの意匠にも影響を与えた事実を
ふりかえるにつれ、改めて本設計の優秀さが伝わってくるような気がいたします。
なお、保安面では、前面腰部両脇に、衝突事故に備えてアンチクライマーが装備されておりました。
そして、塗装は、新造時は小豆色1色でしたが、「デトニ2300形」に限っては、特別室の窓回りを
クリーム色に塗り分けて差別化を図っております。
◎室内設備
車内はデッキの仕切りはありませんでしたが、、車端部のわずかなロングシートを除いて
国鉄客車同様の固定クロスシートが採用され、優等車としての風格は十分でありました。
しかもその座席間隔は1,820mmと、当時の最新型国鉄三等客車(1470mm)より350mmも広く、
二等客車並(711系交流戦用電車は1450mm)のゆったりとした座席でありました(**)。
加えて関東以西、車内暖房が未装備が一般的であった時期に、就役当初から電気暖房を装備し
省線の客車列車に対抗する見地から、国鉄二等客車同等のサービスが供されました(***)。
(**)準急用として世に出た湘南電車の第1次車(キンタローさんではなく正面三枚窓の、
イチメイ「遭難電車」)が世に出たのが、昭和24(1949)年のことでありました。
なかでも、製作初年が昭和24(1949)年のサロ85はBox型クロスシートでピッチは1900 or 1950mmで
ありました。
(***)省線二等車同等のサービスとしてもてはやされたのが、客室内灰皿設置があったようです。
戦前の参宮鉄道本車、東武鉄道「デハ10(日光行専用特急車)」などの記事に記載が見られます。
参考:鉄道ピクトリアル、[特集]グリーン車「ロ」、サロ85と改造車のバライティ、伊藤 威信 氏他
pp38-41 2013年8月号 Vol.63 No.9 通巻No.879 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル、[東武鉄道特集] 東武鉄道特急列車の移り変わり、花上 嘉成 氏他
pp20-25 1972年臨時増刊3月号 Vol.22 通巻No.263 鉄道図書刊行会
◎軽量化対策
20m超の大型車体に発電ブレーキ機器まで搭載し、なおかつ(親会社の大軌の大型車輌で。すでに
実績のあるクラスの)150kW級モーターを使用して必要な走行性能を確保するには軽量化が
必須でした。もし軽量化しない場合、大型車体にこの重装備では、総重量が52 - 54トンにもなり、
当時電車用としては前例のない170kW級モーターが必要になってしまうと予想されたため、
以下のような軽量化対策を行ないました。
〇半鋼製車体の採用
日本では、電車は大正12(1923)年の神戸市電を皮切りに、車体を鋼鉄製とすることが一般化、
1930年時点(2200形製作初年度)では新規製作されるほとんどの電車が鋼鉄製車体となっていました。
全木造の車体は、衝突・転覆事故ではばらばらに粉砕され、列車火災では容易に燃えるなど、
危険度が高かったからです。
当初は外板と骨組みは鋼製としつつ、内装は従来通り木製とした「半鋼製車」が普通でしたが、
大正14(1925)年に阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)は、日本で初めて内装まで鋼鉄製とした
「全鋼製車」600形電車を川崎造船所(のちの川崎車輛)で製造し、翌1926年以降は
全鋼製車を標準としました。
全鋼製車は衝突事故や列車火災時の安全性がより高まるメリットがあり
昭和2年以後の関西私鉄各社では、これに追随して全鋼製車を導入する例も増えつつあった
ものの、全鋼製車は重量がかさむため参急では長距離車についてあえて半鋼製車とました。
重量のみならず、車内保温や内装の仕上げ面から言えば当時は半鋼製車の方が有利でも
あったそうです。全鋼製車の鉄板ペンキ塗り内装は、木張りに慣れた当時の乗客にはまだ違和感が
強く、阪急などはこの克服のため内装鋼板に木目調印刷を行う高度な技術を用いて対処。
当然ながらコスト高になりました。
意外と知られていませんが、木目などがプリントされた壁紙材が低コストで、安定供給されるのは
昭和30年代中盤(1960年代以降)のことであります。
〇トイレーーー正面片目
100kmを超える長距離運転のため、2200系には旅客サービス上トイレを設置することになり、
当時の輸送事情から、参急線内ではデ2200形あるいはデトニ2300形1両での長距離運転も予想され、
トイレは電動車に設置されました。
この時代の鉄道車輌のトイレは、例外なく車外に汚物を飛散させる「垂れ流し式」構造であり、床下には
線路上の低位置へ汚物を落下させるための汚物流し管を装備する必要があったのです。
当時、国鉄客車などのトイレは一般にデッキ内側の客室側に設置されましたが、電動車デ2200形・
デトニ2300形は、この位置に標準軌用の幅広サイズな電動車用台車が位置しており、客室の
主電動機点検蓋や床下台車などと抵触して、トイレを配置するには難しい状況でした。
また他社の合造車輛などで見られる前後台車間の車体中央部トイレ配置も、
2200系電動車では重装備の電装部品で床下を占められ、やはり不可能でありました。
車端一方のみに運転台を持つ電車であれば反対側の車端にトイレを設置できたましが、デ2200・
デトニ2300形は1両での運行が可能なように両端運転台設置でトイレの車端設置の余地すら
ほとんどありません。
このため窮余の策として、両形式では片側の運転台空間中、通常なら車掌台となる一角を潰して
トイレスペースにしました。
車掌台側の乗務員扉を犠牲にするデメリットが出ましたが、やむを得ない選択でありました。
運転台付き鉄道車輌で運転台側の妻面にトイレを置く手法を採った実例は、その後
昭和5-15(1930年代 - 1940年代年)に新造またはトイレ設置改造された、東武鉄道の電車や
北九州鉄道および島原鉄道の気動車などがありますが、いずれも該当車輌はトイレ前面窓を
採光のために磨りガラスとしていました。しかし参急では磨りガラス採光窓は側面のみとし、
前面窓は設置せずに鉄板張りとしていました。
このためトイレ付車のトイレ側妻面は運転台側にしか窓がないという珍しい形態となり、
外観では2200系最大の特徴となっていました。
〇特別室・・・デトニの「ト」
本系列で特筆されるのは、デトニ2300形に設置された特別室の存在でしょー。
これは側廊下式の(コンパートメント)構造としたもので、側廊下は荷物室寄りの運転台側に設置され、
1,840mm幅で対面式配置の固定クロスシートを備えた区画を2つ設けておりました。
◎2200形再び・・・2200形[新]=2227形の登場
大軌・参急は昭和13(1938)年に系列会社の関西急行電鉄(関急電)を介して名古屋乗り入れを
はたし、3社連絡による大阪 - 名古屋間ルートが完成。
さらに昭和15年が皇紀2600年(神武歴2600年)であったことから、当時の軍国体制下で国家神道の
崇敬が盛んに奨励され、伊勢神宮や橿原神宮などを沿線に擁する大軌・参急グループ
(昭和16年から関西急行鉄道・関急)の輸送需要は著しく増加し「ウハウハ・・・てんてこ舞い」の
忙しさでありました。
本系列ー2200形[新]ーはこのような時代背景のもと、昭和14-16年に増備されたものであります。
2200系(旧)と区別するため、しばしば2227系と称されます。
半鋼製車体など基本は踏襲されましたが、溶接技術の進歩でリベットが激減し、張り上げ屋根と
なるなど、従来の2200形に比べ意匠がかなり変更され、全体的に力強い印象になりました。
接客設備も転換クロスシート(シートピッチ910mm)を導入するなどの改善がみられています。
その一方で2200系(旧)に比べ、合理化がすすめられており、同時期製作されております、
大軌の大阪線用通勤車であるデボ1400・クボ1500形(「ボ」はボギー車のボ)と多くの設計を
共通化しており、外見的には側扉枚数(デボ1400系は3扉車であった)とトイレの有無にかかわる部分
以外はほぼ同一となりました。そのため、2ドア車ではありましたが、客用ドアはやや車体中央寄りに
レイアウトされており、やや「客車風」だった2200系(旧)に比べ、より普通の電車らしい容姿に
近づきました。
とはいえ、このころまでが、資材面や工数においてまだ十分に手を掛けることのできた戦前最後の
時期の電車となり、戦前期の日本を代表する優秀電車に名を列せられることになりました。
木古内町は道新幹線開通後のストロー現象をしのげるか?ふぁいなる・・4'/再度重量級3/3 了
木古内の話がどーしてこんなに近鉄の話で長くなるんだ!!
お叱りごもっともであります。
でも、まだこれだけ書ききれない話題が残ってしまっていますんです。