(と、いってもダイブたっちゃった・・・けど)
「高性能車は重量級」と、JR北海道さんが勘違いなさった(あるいは、重い車を
作れば高性能化させるのは簡単・・・とユー意味で仰せだったのかもしれませんが・・・)
それでも軸重を考えれば、日本の脆弱な軌道事情を考えたときに、
車輌の無制限(は大げさとしても)な大型・重量化を、可能な限り試みよ!
とゆーふーに取るべきなのか?
それとも、オエライ様がその点、不可能であることに思い至らない
(だとすればヒジョーにフカカイでなりませんが)ということなのか?
ハタマタ、もしこれが、確信の上での設計・施行であるとするなら、
さらにジューザイでありましょー。
さながら、帝国海軍、昭和9(1934)年、友鶴事件を見ているようであります。
+++脱線するならテミジカにやれよッ!!+++
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<友鶴事件>昭和5(1930)年3月12日
日本海軍は昭和5(1930)年に締結されたロンドン海軍軍縮条約により、主力艦(戦艦、
航空母艦)だけでなく戦闘補助艦(巡洋艦や駆逐艦etc)の建造にも制限を受けることになりました。
ただ、条約の制限外(抜け道?--今考えると欧米の罠??⇒既定の補助戦闘艦
以外にチビッコ魚雷艇などを造りすぎると、ロンドン条約で決められた排水量までの
艦艇を造ってしまって、日本は「テンパっている」と周囲からはバレバレにさせてしまうのが
スパイ派遣などのリスクを背負わなくとも簡単にわかってしまうのが狙いだったのか?
と、思う今日この頃でありますが・・・今となってはもうわかりません)だった基準排水量
600トン以下の軍用艦の建造は、自由でしたので、帝国海軍はこれ幸いと、600tonクラスの
船体に1500ton程もある駆逐艦以上の重武装をのせたオフネを建造しました。
結果は明白で、訓練日の3月12日は大変な大荒れといったツキにも見放され、
トップヘビーで復元力不足となった友鶴(千鳥型水雷艇3番艦)はローリングを重ね
ほどなくチンボツ。
乗員113名中100名が失われました。
<参考>友鶴事件、Wikipedia
g/wiki/%E5%8F%8B%E9%B6%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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そのころ、ナチス・ドイツでは、あるベテランの戦車兵科の将軍が
「車体が大きければ、戦車内の戦車兵の生存率は上がる」といったばかりに、
ヒトラー君が、「それぢゃ、150トンの戦車作ってみて。」
というリクエストを出しました。当時の主力戦車が35-45トンであることから
「150ton」がいかにばかばかしいものか・・・(この車体を動かすエンジンも、
それに見合ったトランスミッションもありません)。
大戦末期に出てきたTiger Ⅱ戦車でさえ戦闘重量69ton,機関出力700PS,
整地最高速度38km/hr,整地行動距離170kmでありましたから・・・
武器にかぎらず、身の回りのものは、国力や一家のカケーボにみあったものが
一番優れていると思われます。
大は小を兼ねませんし、小をたばねても大にはなりません・・・
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そーゆー、しよー末節な話題はさておき、元旦発表もそこで、前回は付録で書くつもりで
ありました、「戦前の優秀・軽量車シリーズ」が結構てこずりましたものですから、
今回は、前回、形式のみご紹介しました、大馬力・重量車シリーズのご紹介の続きを
少し(でおわらないよ・・・きっと)させていただこうと思います。
「再度重量級大馬力電動車輛」
(下の表は1/1の記事のものと同一です)
上から
新京阪鉄道:
P-6(passenger car-6,京阪電鉄は淀川東岸の「路面電車」に近い形態でスタートした
ものですから、線形も悪く、外野からは「京阪カーブ式会社」などとあからさまに揶揄
される始末。
そこで、京阪は、川の西側に省線と張り合うようにして、ほぼ、直線に近い線形の、
「100%出資の子会社、新京阪鉄道」を敷設(大正11[1922]年)。
高速運転に力を注ぎました。
特に、京都・山崎の省線とのオーバークロスでは、超特急「燕」とのデッドヒートは
今に至るもユーメーなエピソードであります。
和歌山の軌道線(最終が南海和歌山市内線)など買収、一時期、血気盛んな所も
見せますが、ところが、あまりにも欲張りすぎ?、
折しも運悪く世界恐慌が始まった(昭和4(1929)年)こともあってか、
以後、企業体としては合理化を余儀なくされます。
昭和5年、和歌山軌道線を合同電軌(伊勢神宮の周囲を走っていた路面電車、
こちらは最終三重交通神都線)に譲渡、新京阪の合併と整理が進みます。
そして、昭和18年、戦時統合にて阪神急行電鉄(阪急)と大合併。
戦後は集中排除法で阪急とは昭和24年分離させられますが、一つの会社に、
同一ルートの路線2本はいらんべ、と「新京阪」の路線が阪急に行ってしまいます。
京阪は元の規模に戻って、阪神急行電鉄はこの日から京阪神急行電鉄を
名乗ります。
略称は阪急のままでしたが、それが正式な社名になったのは、昭和48(1973)年の
ことでありました。
また、P-6は阪急に長く残り、「デイ100」を名乗り、1973年までの働きました。
阪和電気鉄道
大正15(1926)年に設立。路線免許交付は大正12年で、現在のJR西日本・阪和線を建設。
昭和15年、南海鉄道と合併、同社・山手線に。
さらに昭和19年、「南海鉄道」は、
すでに、同16年に大阪電気軌道(大軌)と参宮急行電鉄(参急)の合併で成立していた
「関西急行鉄道」と合併、近畿日本鉄道の誕生となりました。
※参急はもともと大軌の100%出資の子会社でした。
大軌が大阪(上本町)ー桜井間建設など急速な事業を拡大した結果、資金繰りが悪化。、
桜井以東進出の目途が全く立たなくなりました。
そこで参宮急行という子会社を作り、伊勢・志摩への進出はその子会社に任せ、
景気が回復したときに合併したということになっております。
戦後、
旧・南海が近鉄から昭和22年分離を果たしましたが、旧・阪和鉄道線は国有化されてしまいます。
元々、阪和間は、大正9(1920)年、原敬内閣が「南海鉄道を国有化しようと試み、不調に終わった
過去」があったため、阪和電鉄の国有化に際しては、付近の有力私鉄の援助を借りて・・・京阪電鉄を
仲介・相談役として話が進められました。
阪和派は、始め軌間1435mmとしたかったようですが、大阪城東線―紀勢線を埋める線区として、
将来国有化も視野に入れた場合、標準軌はふさわしくないと「泣く泣く」1067mmとなりました。
他の路線条件が、軌条は当時の東海道線と同格の50kgレール、架線電圧はこれまた、
高速電車線向きの1500Vを開業当初より採用(南海鉄道本線の600V→1500V化は
昭和48[1973]年)。
完成時は、阪和間を猛スピードで疾駆する大型高速電車を夢見ていた阪和起業一派には
相当恨みが残ったようでありました。
それでも、ここがよくわからないところで?設立メンバーには鉄道運輸畑以外、鉄道経営の経験者が
ほぼ皆無であったことから(とても信じられませんが?)、京阪電鉄による和歌山方面の電力供給が
約束されたほか、同社技術陣の派遣も行われていました。
そして、不足がちでありました、他の設立メンバーの穴埋めには、京阪系のスタッフがあてられます。
開業するにあたっては、最終的に、二つのネックが残ります。
電力供給と大阪方のターミナルの土地取得でありました。
まず、
■電力については、開業の段階では大阪方面は宇治川電気から、また和歌山方面は京阪和歌山支店から
それぞれ供給を受けていました。
※貴志に至る和歌山電軌(「タマ駅長」の電車)が一時期京阪の資本下にありましたのは、市内線同様
阪和線設立時に、政府に多大なアドバイスをしたゴホービであります。
#諸賢が御存知のように終戦前の電力統制令が出る以前は、電力会社が、電鉄会社を経営することは
そう珍しいことではありませんでした。
宇治川電気は、ここでは電力供給するのみにとどまっていますが、山陽道では、兵庫ー明石間の
高速電車線を経営、のちの統制令で手放し、「山陽電鉄」に、日本海側では「福井・大野三番間」を
本線格とする「越前電燈線」が、電力統制令施行後「京福電鉄・福井支社」となっております。
■しかし、国鉄線との連絡という付帯条件によって大阪側起点用地の確保は困難をきわめました。
当初の大阪ターミナル選定地は、すでに都市化・宅地化が進んでいて、用地買収に難渋。
最終的に旧・南大阪電鉄(当時大阪鉄道時[2代目]の近鉄の南大阪線の前身)が所有していた
省線・天王寺駅東側の台地上に確保されました。
それでも、この決定は、阪和側に
①鉄道省城東線、②同関西本線、③大阪鉄道本線、④南海平野線・・・と
4つの既存鉄軌道を立体交差する必要性が出てきました。
そのため、線形を高速運転に適するよう、南田辺・阪和天王寺間の約2.7km.区間に
高架構の採用となりました。
断面を八角形とする鉄筋コンクリート製の構造物で、「大林組」作の”もはや芸術作品”といって
過言ではないほどの、造形美でありますが、戦災を免れ、いまだに現役であることもまた、
重ねて喜ばしいことと思われます。
大林組はこれ以前に、関西の鉄道用鉄筋コンクリート高架橋の嚆矢となった、
新京阪鉄道天神橋駅付近の高架工事をはじめ、
奈良電鉄桃山御陵前周辺の高架工事
など代表作多数目にすることができます。
◆阪和の電車と「超特急」のお話
営業不振と政府の交通政策などの事情故に、不本意ながら、標準軌から1067mm軌道への
強制的計画変更、法人組織としては、元々財政基盤が強固でない上に、終戦まじかの
交通統制令にあって
またまた、またまたまた不本意な合併劇の犠牲と相成り、会社ショーメツとなりましたが
(そして企業としては短命でした・・・)
☆戦前の「日本一速い電車」である「大阪ー和歌山45分」ノンストップの「超特急」を
運行したこと
で、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶されるに至りました。
☆そして「ハンワの電車」といえば、あの独特な電車の呼称分類
モタ・クタとモヨ
モタモタ走るから?走る姿がモタクタしているように見えるから??
ですからね!日本一の俊足電車なんですよ!!
買収国電の売買の時も「ハンワの電車」とユーだけで「一目置かれ、
オークション会場には緊張が走った」といわれています。
「タ」は縦型座席=クロスシート、「ヨ」は横型座席=サイドシート
<実際のハンワの電車とはドーユーものだったのか?>
その電装品は東洋電機製造製の国産品で、当時の電車用としては日本最強クラスの
定格出力149.2kW(≒200馬力)を発揮する大出力モーターをはじめとして、きわめて高度な
仕様でありました。
また自動空気ブレーキは米国ウェスティング・ハウス・エアブレーキ社(⇒現Wabtec社)の
設計になる長大編成対応ブレーキを特に採用しておりました。
これは、 当時の日本の電車が通常でも最長4両編成程度が限度だったところ、
阪和では6両編成以上の組成を可能ならしめるシステムでありました。
<ハンワの線形はホントにきれいな直線だったのか?>
阪和電鉄の線路条件はおおむね直線で良好でありましたが、
<阪和県境・山中渓ヤマナカダニ駅付近>には急勾配区間急曲線があり、振り子式/車体傾斜装置車輛が
ない当時としては、平坦区間で極限の高速運転がなされたことが容易に推察されます。
阪和間45分運転を行うことは電車にも大きな負担をかけ、駆動歯車は鋸歯状になるほど消耗していたと
伝わっております。
<ハンワのチョートッキューと「エキカラ時刻表?」>
和歌山までの[阪和天王寺 - 阪和東和歌山間の61.2km]を
◎開業当初:急行ー65分、各駅停車ー80分
◎昭和6(1931)年:特急ー48分、天王寺 - 東和歌山間をノンストップ
◎昭和8年12月20日:特急→超特急に呼称変更、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分運転へスピードアップ。
この列車の表定速度:81.6km/hrは
①営業運転される定期列車としては1950年代以前の日本国内最高記録であります。
②戦後、昭和33(1959)年に運転を開始する、
<国鉄・特急「こだま」、東京ー大阪6時間40分運転(表定速度83.46km/h)>まで、
実に26年間も破られない記録となりました。
③戦前派としては、南満州鉄道の「特急・あじあ号」
昭和9年:大連ー新京(⇒長春)701km/8hr30min=82.5km/hr,全区間パシナがけん引
昭和10年:大連ー新京ー哈爾濱ハルピン943.3km/12hr30min=75.5km/hr、延長区間はパシロがけん引
※大連+旅順=旅大
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②との比較:こだまは東京ー大阪間556.4kmで短距離速達電車とのスピードごっこは
明らかに不利だと思いますが、もっといい例はなかったのでしょうか?
③マンテツは1435mm軌道で主動輪も2m。これを日本と同じ軸回転で走っているとして、
日本の最高の動輪径は1750mmですので、「アジア号」のスピードは
82.5 X 1750/2000=72.2km/hr・・・立派なもんです
(昭和31[1956]年、蒸機牽引特急はつかり(常磐線廻り)62km/hr
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④その後の「阪和線スピード向上」
・昭和48年、ダイヤ改正で設定された新快速が45分のタイ記録をやっと達成。
・そしてこの45分の壁は紀勢本線和歌山駅 - 新宮駅間の電化後も破られず、
・昭和61.11.1のダイヤ改正で、特急列車に限り最高速度120km/hでの運転が許容されるようになり、
特急「くろしお」が最速列車で阪和間41分運転を開始したことで、
超特急運行開始から53年目にしてようやく完全な記録更新がなされました。
・その後さらに平成6(1994)年関西国際空港開港に伴い、快速系統用に223系の大量投入が行われ
「くろしお」の最速運転が38分と一層短縮されました(表定速度96.8km/h)。
。
☆☆さらにもう一つオマケ
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蒼井 雄 あおい ゆう(たけし?) 氏 明治42(1909)-昭和50(1975)年
本職は宇治川電機の電気技師さんで、戦後も関西電力で働いておられました。
ず~ッと「ゆう」さんと思っておりましたら、一部に「たけし」と仮名がふられたものが
出てきたそうです。
でも通常は「アオイ・ユウ」さんで通じると思います。もちろん現在活躍中の方とは別人です。
そして、お仕事が「宇治川電機」とは、全く偶然にしては、出きすぎのような・・・
さて、蒼井氏は
日本で初めて、時刻表を使った推理小説「船冨家の惨劇」を書き(昭和10[1935]年、
後年、鮎川哲也氏、松本清張氏などに影響を与えました。
この小説の舞台は、戦前の南海鉄道と阪和電鉄であるということだけ申し上げておきます。
ご興味のある方は、ご一読オススメです!!
以前は(と言いましても、42-3年前ですが)「春陽文庫」さんから出ておりましたが・・・?
戦前の大型車について、3社分書く予定でしたが、友鶴事件だの、蒼井雄さんだの
脱線してましたら、「参宮急行2200」を書くスペースがなくなってしまいました。
あいかわらず、まとまりのない文章でスイマセン。
また、またまた、最後までおつきあいくださいました方、深く御礼申し上げます。
木古内町は道新幹線開通後のストロー現象をしのげるか?
ふぁいなる・・4/再度重量級1/3+2/3 了
カラスのクンセイ 拝
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