松尾芭蕉(1644-1694年)、本名忠右衛門宗房はそーとー頭に血が上っていました。
というのも、芭蕉と同格の同心である服部半蔵から、最近、陸奥、出羽あたりの諸藩に謀反のうわさがあるので、探ってきてくれとの命令があったからです。
彼は、若いころは若いころで、秘匿名・伊賀の朱雀(関西の南方警備の頭領)として、主に北は伊賀上野-法隆寺-堺の線から、南は名張-奈良-岸和田の線まで、徳川本家・紀州家のために、とりわけ、根来衆、雑賀衆の残党がチョッカイを出さぬかどうかを配下の者たちと日々奔走していました。
父が没した折は、忍びの家という条件が多少ついてまわるだけで、士分格の彼の家は幕政下の世襲制であるのは他の藩士の家と何ら変わるところはなく、芭蕉は、その日から、父の家督を継いで伊賀南部の最大派閥にして、その頭領(中忍、江戸幕府より御下命のお目見え以下御家人)となったのでした。
いきなり、そのような大それた身分になってしまった芭蕉でしたが、周囲に競争相手の伊賀集団がなく、父の部下への教育もゆきとどいており、たまたま、根来・雑賀一族の反攻もなりをひそめた頃といった幸運にも恵まれ、比較的順調に、松尾の家を切り盛りしておりました。
・・・・それから20年も経ちましたでしょーか・・・
もーそろそろお役御免にしていただき、家督を息子に譲ってもいいか?と考えていた矢先、五代将軍・綱吉公から服部半蔵を通して先のような御下命があったのです。
「確かに秋田の佐竹(21万石)、越後の上杉(15、カッコ内は石高)、仙台の伊達(56)に対して親藩・譜代は、庄内の酒井(14)、山形の松平(15)、会津の保科(23)だけで、実戦経験も乏しく、幕府に謀反が起こった時に最初に食い止める部隊としては弱すぎるかもしれない・・・」
そう考えた芭蕉でありましたが、
「しかし、余生を楽しむにもあと何年生きられるかわからない44歳の私より(男性の平均寿命が50歳を越えた年が昭和22[1947]年の50.2歳です)、江戸城内には沢山活きのいいお庭番がいるではないか。
そーいった連中に頼めないものか、一度服部に相談してみよう。」
と、手紙を認め、江戸に早馬を飛ばす芭蕉でありました。
先ほど、松尾と服部とは同格と書きましたが、実は服部家は「お目見え」といって「将軍に直接接見できる御家人(石高1万以下の家来、お目見え以下も1万石以下の御家人には変わりありませんが身分は雲泥の差がありました)でありました。一方、松尾家は冒頭お示ししたようにお目見え以下でしたので、身分は服部より下位にありました。
ただ、彼の母上が江戸幕府開府当時、伊賀集団唯一の上忍であった百地三太夫の娘であったことが、いまだ、芭蕉の服部家への優越感のよりどころとなっているのでありました。
しかし、「忍び」としての服部半蔵は初代のみで、2代目以降は、将軍または、剣術指南役から親補された人物が、服部家の名前や家督だけを引き継ぐというやり方に変わり世襲制ではなくなっていたのでした。
したがって、2代目以降の服部半蔵は徳川家剣術指南役(初代は柳生石洲斎?宗矩?)と1,2を争う剣客が選ばれたと思われますが、残念ながら2代目は「大奥騒動で大チョンボ」をやらかし、おとりつぶしとあいなっております。
それはさておき、松尾芭蕉の時代の服部さんは「4代目 服部半蔵正成」と申しまして
2代目正成の次男で3代目正就の弟でありました(なーんだやっぱしどーぞくけーえーかっていわない!!)兄のあとをついで半蔵をついで襲名しますが、舅である大久保兆案に巻き込まれ失脚(大久保兆案事件)となりました。
しばらくすると、正式に、服部半蔵から返事が来ました。
「綱吉公は
<そこもとの申すは至極道理である、余も余の身勝手から俳人として、文化人として第一人者の貴公を失いたくない>
といたく高い評価とお心遣いであったが、私のほうから、ヤツは旅好きのただの道楽ジジイですからと進言すると態度がころっと変わって、
<それではやはりここは経験豊富な松尾殿に敵情視察をお願いするとしようかな・・・、
日本一の俳人が旅姿で旅行記や句を作りながら、日本国中を廻ることほど自然なことはない。江戸城下のお庭番が黒装束で、遠方まで出張って跋扈するよりどんなに自然なことであろうか>との最終的な仰せじゃ。
分かっておろうが逆らってみれば松尾のお家はおとりつぶし、一族連座だからな。」
「あいかわらず、きったねーやろーだ・・・だれかある?旅に出るぞ」
とのい(=宿直、今でゆーと不寝番でしょーか?)の若番が出てきたが、ご隠居を宣言しようかという大頭領がこれから旅などとは・・全く腑に落ちない顔つきでありました。
「おー、頼まれてくれ、
副頭領の河合曽良と向井去来を呼んでくれ。」
「は、直ちに・・・」
芭蕉配下の部下達は十組に分かれて、それぞれぞれに組頭がおり、蕉門十哲と呼ばれ、周囲の忍群からも恐れられていたが、とりわけ副頭領と芭蕉がきめた、曽良と去来は、心技体揃った、各々が芭蕉の右上と自他共に認める存在でした。
「去来参上」
「曽良もおん前に」
「出かけるぞ」
「どちらまで・・・」
「出羽じゃ」
「年寄りの・・・<ピシッ>」
「目的は?」
「■□鹿鹿じゃ」
「でもそーいったことであれば、わたくしめらが・・・」
「だめじゃ、綱吉公直々の命なのぢゃ」
「あー、結構うれしいってことね・・・<ドスッ>」
「今回は曽良を連れて行く
去来は留守居を頼んだぞ。」
「えー、まーた、おれ、残るんスかー。
まーた、べんじょそーじするのかよー」
続く・・・ふふふ、心技体揃っているといっても、所詮伊賀者はこの程度よ