我が市では来月からごみが有料化されます。
そこで、今月中にできるだけごみ出しをしようと、日々片付け中。
丁度今月は専業主婦月間ですしね。
先日は大きなクッションを分解し、径1mmの発砲ビーズと格闘。
それから古い布団を分解し、レジ袋に小分けして燃やせるごみにしようとしました。
布団の端に鋏を入れ、足で押さえながら引き裂いていたら途中で腰がピキっと。
久々にやっちゃいました~
持病のぎっくり腰・・・
あ、来たと思った瞬間に腰を戻したので、いつもよりは軽かったんですけどね。
今は少し楽になりましたけれど、長く前屈みにはなれません。
主婦の仕事って前屈みになることが多いのでなかなかつらいです。
何年かぶりに夫がお風呂を洗ってくれましたけれど。
その他の家事はいつも通り私がやりました・・・
痛む腰をかばいながらも車で長男へ送る荷物を出しに行き、
カートを杖代わりに買い物もしましたよ。
でも、前と違って子供を抱っこしなくてもいいのでいくらか楽です。
小さい子供って母親の様子がおかしいと、余計にくっついて来ますものね。
ただ、当時は義母が助けてくれましたけれど・・・
夫も次男も気が利かないったら
今更ながらに長男は優しかったなぁと思う今日この頃です。
まぁでも次男なりに気を遣っていたのか
私の好きな曲をピアノで弾いてくれました
毎年この日が来ると色々と考えさせられます。
あの日は夫が長期出張中だったのでいつものように実家に帰っていました。
早朝の強い揺れで目が覚めた私は、7か月だった長男の上に四つん這いになって覆いかぶさりました。
生まれて初めて地震を怖いと思った瞬間でした。
しばらくたってTVを付けるとものすごい光景が。
当時祖父母は伊丹に住んでいたので、すぐに電話をしたけれどなかなか繋がりません。
何度も掛け直してやっと連絡が取れ、祖父が箪笥の下敷きになり、怪我はしたけれど、二人とも元気だと知った私は思わず
「良かった~」と言いました。
そうしたら祖母が
「何が良かってん!!こんななってるのに!!!!」
と激怒。
まぁそうですよね。
こちらとしては、もっとひどい結果も覚悟していたので、とにかく生きていたという事に喜んでしまったわけで。
その後は忙しかったなぁ。
私は長男を背負いながら、一升釜でご飯を炊き、大きなタッパにおかずを詰め込み、お茶を沸かして。
両親は軽トラに大量のビニールシートとロープや脚立や工具を積み込み、一路伊丹へ。
事業所だけでなく、自宅にも予備の道具をたくさん置いていた事が役立ちました。
「邪魔だから会社に持って行ってよ~」
と母はいつも文句を言っていたんですけどね。
私も一緒に行きたかったけれど、乳呑児を抱えて何もできないので我慢。
自宅で親戚中の連絡を受けるハブとなりました。
当時はみんなが携帯を持ってるわけではなかったので、外からの連絡を他の人に伝える役目も必要でしたから。
いつもなら1時間足らずの道のりを5時間以上かけて到着。
作った弁当の半分近くは道中両親が食べたそうで・・・。
田舎育ちの母は、瓦が崩れ落ちた屋根に上り、実は高所恐怖症の父を励ましながら要領よくビニールシートを掛けて行きました。
それを見た近所の人からは業者と間違えられ、
「終わったらうちもお願いします」
と言われた程。
そうしたら祖母は得意になって
「あれは、うちの息子と嫁ですねん」と。
普段は母の悪口ばかり言っていた癖にね。
大阪の家に祖父母を連れて来ようとしましたが、
「泥棒が入ったら困る」
と祖母が拒んだので、両親は毎日通う羽目になりました。
でも昔の家は強かったですね。
近所の新しい家の方が被害は大きかったようです。
また、平屋だったのも幸いしました。
屋根瓦が落ちた以外は殆ど大丈夫でしたからね。
まぁ、家具やら食器棚やらが倒れたのでその処理は大変でしたけれど。
私は小さな子供のいる母親たちが心配で心配で・・・
溢れるほど母乳が出ていたので、長男を連れて乳母になりに行こうかと本気で思いましたが、私の食料や、長男のおむつも必要になるので断念。
ストレスで母乳の出が悪くなりませんように、と祈るばかりでした。
段々と当時の記憶が薄らいでいたところへ、東日本大震災が。
天災は忘れた頃にやってくるとはよく言ったものですね。
地震だけではなく、津波、そして放射線・・・
復興の難しさと言ったら阪神淡路の比ではないでしょうね。
福島には義母の親戚が大勢いるので、まだまだ心配は尽きません。
みんな我慢強いのか、なかなかこちらに支援要求が来ないのですが、できるだけの事はしたいと思っています。
一日も早く、平穏な日々がみんなに訪れるよう願ってやみません。
あの日は夫が長期出張中だったのでいつものように実家に帰っていました。
早朝の強い揺れで目が覚めた私は、7か月だった長男の上に四つん這いになって覆いかぶさりました。
生まれて初めて地震を怖いと思った瞬間でした。
しばらくたってTVを付けるとものすごい光景が。
当時祖父母は伊丹に住んでいたので、すぐに電話をしたけれどなかなか繋がりません。
何度も掛け直してやっと連絡が取れ、祖父が箪笥の下敷きになり、怪我はしたけれど、二人とも元気だと知った私は思わず
「良かった~」と言いました。
そうしたら祖母が
「何が良かってん!!こんななってるのに!!!!」
と激怒。
まぁそうですよね。
こちらとしては、もっとひどい結果も覚悟していたので、とにかく生きていたという事に喜んでしまったわけで。
その後は忙しかったなぁ。
私は長男を背負いながら、一升釜でご飯を炊き、大きなタッパにおかずを詰め込み、お茶を沸かして。
両親は軽トラに大量のビニールシートとロープや脚立や工具を積み込み、一路伊丹へ。
事業所だけでなく、自宅にも予備の道具をたくさん置いていた事が役立ちました。
「邪魔だから会社に持って行ってよ~」
と母はいつも文句を言っていたんですけどね。
私も一緒に行きたかったけれど、乳呑児を抱えて何もできないので我慢。
自宅で親戚中の連絡を受けるハブとなりました。
当時はみんなが携帯を持ってるわけではなかったので、外からの連絡を他の人に伝える役目も必要でしたから。
いつもなら1時間足らずの道のりを5時間以上かけて到着。
作った弁当の半分近くは道中両親が食べたそうで・・・。
田舎育ちの母は、瓦が崩れ落ちた屋根に上り、実は高所恐怖症の父を励ましながら要領よくビニールシートを掛けて行きました。
それを見た近所の人からは業者と間違えられ、
「終わったらうちもお願いします」
と言われた程。
そうしたら祖母は得意になって
「あれは、うちの息子と嫁ですねん」と。
普段は母の悪口ばかり言っていた癖にね。
大阪の家に祖父母を連れて来ようとしましたが、
「泥棒が入ったら困る」
と祖母が拒んだので、両親は毎日通う羽目になりました。
でも昔の家は強かったですね。
近所の新しい家の方が被害は大きかったようです。
また、平屋だったのも幸いしました。
屋根瓦が落ちた以外は殆ど大丈夫でしたからね。
まぁ、家具やら食器棚やらが倒れたのでその処理は大変でしたけれど。
私は小さな子供のいる母親たちが心配で心配で・・・
溢れるほど母乳が出ていたので、長男を連れて乳母になりに行こうかと本気で思いましたが、私の食料や、長男のおむつも必要になるので断念。
ストレスで母乳の出が悪くなりませんように、と祈るばかりでした。
段々と当時の記憶が薄らいでいたところへ、東日本大震災が。
天災は忘れた頃にやってくるとはよく言ったものですね。
地震だけではなく、津波、そして放射線・・・
復興の難しさと言ったら阪神淡路の比ではないでしょうね。
福島には義母の親戚が大勢いるので、まだまだ心配は尽きません。
みんな我慢強いのか、なかなかこちらに支援要求が来ないのですが、できるだけの事はしたいと思っています。
一日も早く、平穏な日々がみんなに訪れるよう願ってやみません。
色々考えた末に、折角通っていた中高一貫校を辞めて
高校受験したはずの次男。
燃え尽きたのか、全く勉強をしなくなっていた。
担任からは、他の学校への編入や高卒認定を勧められる始末。
でもね、入学以来無遅刻無欠席。
担任には
「学校がつまらない」
「友達がつまらない」
なんて言いながらも部活も楽しんでるし、彼女ともうまくいってる。
勉強した先に何があるのかが見えないらしい。
私たちの頃と違い、文系・理系の区別だけではなく、
将来の職業まで見据えて科目選択をしなければならない。
しかも1年生のこの時期にもう決めなくてはいけないしね。
私の頃は3年生で良かったのに。
大学の学部学科も細分化されてるし、
名の知れた学校へ行っても就職がおぼつかない。
なかなか夢を持てない世の中になってしまったのね・・・
また、素直に流れに乗れない性格だし。
親の子だから仕方がないか。
そういえば、高校合格後に神社へお礼に行ってなかったな、と
思い立って合格祈願の時のお守りをもって〇〇天神へ。
ここのお守りのお蔭で(?)前の私立中学は特待入学できたし
高校も第一志望へ合格できたから。
ところが、よく知ってる道なのに、何度も曲がりそこない
Uターンを繰り返すこと3度。
おまけにやっと到着してお賽銭をと思ったら、なんと財布を忘れて。
もちろん免許証もその中に・・・。
仕方がないので神牛の鼻を撫で、お賽銭なしでお参りし
「また今度あらためて出直してきます」
と約束して帰宅。
その日は駅前でお祭りもやっていて、
出直すと渋滞が確実だったため、この日の再訪は断念。
もしかすると、神頼みをしないで自力で頑張れというお告げか?
とも思った。
天気はすごく良くて、帰りに寄ったスーパーの駐車場からは
見事な富士山が。
結局富士山に、今後も頑張ることを約束して帰宅。
素直に話を聞かない次男にはメールで母としての思いを伝えた。
そして私は少しの不安を残しながら
同窓会へ出席するため実家へ。
たまたま夫も出張が入り、次男が3日間一人になることに。
高校生が一人っきりなんてろくなことをしないだろうから、と
夫の出張は内緒にしておいた。
「父さんは、帰りが遅くなるらしいよ」
とだけ伝え、向かいに住む義父には
何かあったらよろしく、とお願いしてね。
3日間一人で色々考えることがあったらしく、
帰宅すると表情が明るかった次男。
もともと担任以外の先生方には可愛がられていたし、
クラスの子たちにもノートチェックをされ、
学年トップの彼女と勉強し始めたらしい。
「個別塾か、家庭教師付ける?」
と尋ねると、
「まじめに授業受ければ平気」
だとか。
最初からまじめに受けろってば!!!
「でもみんなに愛され、心配されて本当に幸せだね」
というと
「そうかなぁ・・・(照)」
と嬉しそうだった。
「高校時代に知り合った友人とは一生の付き合いになるんだってね」
「そうだよ~母さんもそうだもん」
ともかく、勉強する気になってくれて良かった。
まだ気は抜けないけどね。
高校受験したはずの次男。
燃え尽きたのか、全く勉強をしなくなっていた。
担任からは、他の学校への編入や高卒認定を勧められる始末。
でもね、入学以来無遅刻無欠席。
担任には
「学校がつまらない」
「友達がつまらない」
なんて言いながらも部活も楽しんでるし、彼女ともうまくいってる。
勉強した先に何があるのかが見えないらしい。
私たちの頃と違い、文系・理系の区別だけではなく、
将来の職業まで見据えて科目選択をしなければならない。
しかも1年生のこの時期にもう決めなくてはいけないしね。
私の頃は3年生で良かったのに。
大学の学部学科も細分化されてるし、
名の知れた学校へ行っても就職がおぼつかない。
なかなか夢を持てない世の中になってしまったのね・・・
また、素直に流れに乗れない性格だし。
親の子だから仕方がないか。
そういえば、高校合格後に神社へお礼に行ってなかったな、と
思い立って合格祈願の時のお守りをもって〇〇天神へ。
ここのお守りのお蔭で(?)前の私立中学は特待入学できたし
高校も第一志望へ合格できたから。
ところが、よく知ってる道なのに、何度も曲がりそこない
Uターンを繰り返すこと3度。
おまけにやっと到着してお賽銭をと思ったら、なんと財布を忘れて。
もちろん免許証もその中に・・・。
仕方がないので神牛の鼻を撫で、お賽銭なしでお参りし
「また今度あらためて出直してきます」
と約束して帰宅。
その日は駅前でお祭りもやっていて、
出直すと渋滞が確実だったため、この日の再訪は断念。
もしかすると、神頼みをしないで自力で頑張れというお告げか?
とも思った。
天気はすごく良くて、帰りに寄ったスーパーの駐車場からは
見事な富士山が。
結局富士山に、今後も頑張ることを約束して帰宅。
素直に話を聞かない次男にはメールで母としての思いを伝えた。
そして私は少しの不安を残しながら
同窓会へ出席するため実家へ。
たまたま夫も出張が入り、次男が3日間一人になることに。
高校生が一人っきりなんてろくなことをしないだろうから、と
夫の出張は内緒にしておいた。
「父さんは、帰りが遅くなるらしいよ」
とだけ伝え、向かいに住む義父には
何かあったらよろしく、とお願いしてね。
3日間一人で色々考えることがあったらしく、
帰宅すると表情が明るかった次男。
もともと担任以外の先生方には可愛がられていたし、
クラスの子たちにもノートチェックをされ、
学年トップの彼女と勉強し始めたらしい。
「個別塾か、家庭教師付ける?」
と尋ねると、
「まじめに授業受ければ平気」
だとか。
最初からまじめに受けろってば!!!
「でもみんなに愛され、心配されて本当に幸せだね」
というと
「そうかなぁ・・・(照)」
と嬉しそうだった。
「高校時代に知り合った友人とは一生の付き合いになるんだってね」
「そうだよ~母さんもそうだもん」
ともかく、勉強する気になってくれて良かった。
まだ気は抜けないけどね。