毎年この日が来ると色々と考えさせられます。
あの日は夫が長期出張中だったのでいつものように実家に帰っていました。
早朝の強い揺れで目が覚めた私は、7か月だった長男の上に四つん這いになって覆いかぶさりました。
生まれて初めて地震を怖いと思った瞬間でした。
しばらくたってTVを付けるとものすごい光景が。
当時祖父母は伊丹に住んでいたので、すぐに電話をしたけれどなかなか繋がりません。
何度も掛け直してやっと連絡が取れ、祖父が箪笥の下敷きになり、怪我はしたけれど、二人とも元気だと知った私は思わず
「良かった~」と言いました。
そうしたら祖母が
「何が良かってん!!こんななってるのに!!!!」
と激怒。
まぁそうですよね。
こちらとしては、もっとひどい結果も覚悟していたので、とにかく生きていたという事に喜んでしまったわけで。
その後は忙しかったなぁ。
私は長男を背負いながら、一升釜でご飯を炊き、大きなタッパにおかずを詰め込み、お茶を沸かして。
両親は軽トラに大量のビニールシートとロープや脚立や工具を積み込み、一路伊丹へ。
事業所だけでなく、自宅にも予備の道具をたくさん置いていた事が役立ちました。
「邪魔だから会社に持って行ってよ~」
と母はいつも文句を言っていたんですけどね。
私も一緒に行きたかったけれど、乳呑児を抱えて何もできないので我慢。
自宅で親戚中の連絡を受けるハブとなりました。
当時はみんなが携帯を持ってるわけではなかったので、外からの連絡を他の人に伝える役目も必要でしたから。
いつもなら1時間足らずの道のりを5時間以上かけて到着。
作った弁当の半分近くは道中両親が食べたそうで・・・。
田舎育ちの母は、瓦が崩れ落ちた屋根に上り、実は高所恐怖症の父を励ましながら要領よくビニールシートを掛けて行きました。
それを見た近所の人からは業者と間違えられ、
「終わったらうちもお願いします」
と言われた程。
そうしたら祖母は得意になって
「あれは、うちの息子と嫁ですねん」と。
普段は母の悪口ばかり言っていた癖にね。
大阪の家に祖父母を連れて来ようとしましたが、
「泥棒が入ったら困る」
と祖母が拒んだので、両親は毎日通う羽目になりました。
でも昔の家は強かったですね。
近所の新しい家の方が被害は大きかったようです。
また、平屋だったのも幸いしました。
屋根瓦が落ちた以外は殆ど大丈夫でしたからね。
まぁ、家具やら食器棚やらが倒れたのでその処理は大変でしたけれど。
私は小さな子供のいる母親たちが心配で心配で・・・
溢れるほど母乳が出ていたので、長男を連れて乳母になりに行こうかと本気で思いましたが、私の食料や、長男のおむつも必要になるので断念。
ストレスで母乳の出が悪くなりませんように、と祈るばかりでした。
段々と当時の記憶が薄らいでいたところへ、東日本大震災が。
天災は忘れた頃にやってくるとはよく言ったものですね。
地震だけではなく、津波、そして放射線・・・
復興の難しさと言ったら阪神淡路の比ではないでしょうね。
福島には義母の親戚が大勢いるので、まだまだ心配は尽きません。
みんな我慢強いのか、なかなかこちらに支援要求が来ないのですが、できるだけの事はしたいと思っています。
一日も早く、平穏な日々がみんなに訪れるよう願ってやみません。