前回からの続きです
(令和元年9月28日のこととなります)
次は明治28(1895)年に岡崎で行われた第4回内国勧業博覧会場などのことです
これは建設中の様子

解説

明治28(1895)年に京都岡崎の地で開催された第4回内国勧業博覧会の会場建設現場の様子を撮影した写真。内国勧業博覧会は、産業の奨励と国民の啓蒙政策の一環として明治政府がこれを推進し、明治10(1877)年に第1回が東京上野公園で開催され、以後第3回までが上野公園で開催された。
第4回の開催に際しては京都が平安遷都千百年紀念祭の実施にあわせての誘致運動を展開し、会場決定にこぎ着けた。
会場には工業館や農林館、器械館、水産館、美術館、動物館のほかや各府県の売店や飲食店が建てられ、20万点を越える品々が出品され、入場者は4月1日から7月31日の4ヶ月間の会期中113万人と大盛況であった。ちなみに入場料金は平日5銭、日曜日10銭、土曜日3銭であった。
建設された応天門と大極殿は式典会場として使用され、博覧会終了後は平安神宮の拝殿などとして現在に残っている。
(原文ほぼそのまま、他の解説を補てん)
その会場も模型で復元されてました

会場の様子を400分の1で再現した模型
広さ4200坪の土地に建てられた回廊型の工業館を中心に、その南側には左右に高楼をもつアーチ状の博覧会入り口の門が建つ
工業館の北側には農林館と器械館、そして水産館が並んで建ち、北東側には二階建ての美術館と、これに接する式場が配された
南東には動物館、西には郵便逓信局のほか事務所や審査室があった
博覧会の北側には平安京を象徴する建物として大極殿が復元されるが、その建物は現在では平安神宮となっている


平安神宮は、平安遷都1100年紀念祭を行う祭場として創設された
紀念殿として造られた拝殿は平安京の大極殿を、楼門は応天門を模して約8分の5の大きさに復元された
伊東忠太と木子清敬の設計で明治26(1893)年10月に起工し、同28(1895)年2月に竣工している
大鳥居が完成するのは昭和4(1929)年であり、当初の土塁が回廊に変更されるのは昭和15(1940)年のことである
それまで野菜畑だった岡崎の地はその景観を一変した。明治36(1961)年に動物園が開園(日本で上野動物園に次いで2番目)し、翌年には岡崎一帯が京都市によって公園に指定されている

正面から


西側から平安神宮を望む


まあ、現代なら万博みたいな感じなんでしょうが、これが平安神宮周辺にあったのかと思うと、現在と照らし合わせると夢のような感じがしてしまいますf(^^;
文化博物館にはちょっとした庭園があります

石仏がいっぱい


解説

ここに展示した石仏は、永禄12(1569)年に織田信長が将軍足利義昭の居館として築いた旧二条城(二条新第)の北西の部分と推定される場所(京都市上京区新町通下立売上ル両御霊町ほか)から出土したものです。信長は工事を短期間に終わらせるために、配下の武将に命じて付近の寺院から石仏などを徴発し、石垣や石段を築造するのに利用させたようです。
宣教師ルイス・フロイスの書翰(しょかん)に「これに用いる石なきを以て多数の石像を倒し、頸に縄を付けて工事場に引かしめ(中略)石の祭壇及びフォトケス(仏)即ち偶像を地上に倒してこれを破壊して車に積みて運搬し」と書かれており、出土した石仏の中に頸や胴体の部分で割られたものがあることと一致しています。
これらの石仏は、人為的に埋められ桃山時代の大きな堀の中から出土しました。この堀は豊臣秀吉の築いた聚楽第の城下の大名屋敷に関連するものと考えられ、天正年間の終わりごろ(1590年前後)に埋められています。「旧二条城」は天正元(1573)年の室町幕府滅亡以後、荒廃したとされていますので、これらの石仏も付近にうち棄てられていたものが、この時に一緒に埋められたようです。
なお発掘調査は、京都府警察本部庁舎の建設に伴い、1993年に(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターによって実施されました。
(原文のまま)
これは前にも記事した旧二条城 に関連したものになります
京都文化博物館のある場所から出土した焼瓦も展示されてました

曇華院(どんげいん)のもので、元治元(1864)年の大火で焼失したのが分かります

曇華院については、文博より近くの中京区郵便局 に関連記事を書きました
南座周辺復元模型

江戸時代の京都では、四条河原の鴨川沿いに芝居小屋や茶店などが並び遊興の地として賑わい、元禄時代(1688~1704)には大小七軒の芝居小屋が建っていた。この模型はその当時の様子を再現したもので、貞享3(1686)年版の「京大絵図」をもとに、北は大和橋から南は南側芝居まで、東はめやみ地蔵から西は高瀬川までが示されている。芝居小屋の入り口には幕府公許の証である櫓がみえるが、当時の芝居小屋にはまだ大屋根はなく、一般客は土間から観劇しており、富裕層の客が左右の桟敷に座った。
(原文のまま)

この画像だと上が西で、下が東
右が北で、左が南ということになります
縦に走ってる道が現在の四条通りに当たります
右のは大和橋


現在の南座周辺のこと
四条鉄橋

鴨川に架かる四条大橋を南西側から見た様子。四条通は明治26(1893)年に拡幅されるが、写真に写る通りの様子は拡幅前のものである。また四条大橋は明治7(1874)年に鉄橋に改築されているので、写真は明治7年から同26年の間に撮影されたものである。大橋の東詰め北側には、道路拡幅に伴って廃業する歌舞伎小屋の北座がまだ見えている。また鴨川の中州には納涼床がしつらえられているのがわかるが、往時の床は現在のように両岸の店屋から川上に突き出す形で床を作っていただけではなく、川の中州に床几台を置いてより涼味溢れる趣向を行っていたのである。
(原文のまま)
現在の四条大橋周辺のことを書いたのはこちら→四条通り
こちらも京都文化博物館所在地及びその近隣の発掘出土品











