前回からの続きです
(令和元年9月16日のことです)

次に見たかったのは旧二條城跡
石碑は室町通りと下立売通りの交差点のとこにあります

旧二條城跡石碑
住所・京都市上京区烏丸下立売

解説
永禄12(1569)年に織田信長が、第15代将軍・足利義昭(1537~1597年)
(麒麟がくるで演じるは滝藤賢一・大河ドラマ館より)
の将軍座所として、この石碑を中心に、約390m四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の天守を備えた堅固な城を築いた
ここら辺りは麒麟がくるが、再び放送されたら出てくる場所になると思いますニヤリ
その城のことを今年、考古資料館の光秀と京でも展示されていました

こんな遺跡も見つかっているようです

その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は二条御所として使われた
室町幕府の滅亡に伴い廃城となる
天正4(1576)年に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用される
現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の将軍の居館として慶長7(1602)年に築かれたもの

上の地図だと現在の御苑に掛かってますが、その頃(戦国時代)には花御所が御所の機能をしてたと思うので、もっと上にあったことになります
(令和元年9月16日、考古資料館にて撮影)

その交差点から室町通りを下ります
すると左手に石碑と解説板があります

此付近斯波氏武衛陣(しばしぶえいじん)・足利義輝邸遺址石碑
京都市上京区椹木町通室町上る

解説
室町幕府「第一の家格」として三管領筆頭だった斯波義将(しばよしまさ・1350~1410年)は、宮中御所等を守護していた兵衛府(ひょうえふ)の唐名をとって武衛(ぶえい)と呼ばれていました
斯波氏が、室町通りの勘解油小路(かでのこうじ)に邸宅を構えたため「かでのこうじ殿」と呼ばれることもあったが、いつしかこの地と邸宅は、武衛の名をとって武衛陣と呼称されるようになった
武衛陣は、応仁の乱で戦火に遭い焼失しましたが、遺址付近は現在も武衛陣町と呼ばれているそうです
こういうのがあるから京都は地名を見ると、何が建っていたのかとか歴史と連結してるから分かりやすいです
Σd(・∀・´)

後年、室町幕府第13代将軍・足利義輝(1536~1565年)
(麒麟がくるで演じるは向井理・大河ドラマ館より)
が当地に邸宅を構えて政務をとった
しかし、永禄8(1565)年松永秀久
(麒麟がくるで演じるは吉田鋼太郎・大河ドラマ館より)
らに襲撃され死去、邸宅も焼失

永禄12(1569)年、織田信長が武衛陣跡地を拡張し、室町幕府最後の将軍・足利義昭のための二条城を築城
ここは上記と被ります

御苑の一角に旧二条城の復元石垣があります
解説板

アップしても非常に見にくいしょんぼり
推定旧二条城の復元石垣
 京都御苑の一隅を含むこの地に一つの城跡が発見された。それは永禄12(1569)年織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭のために造った強靭華麗な居城の跡と推定される。
 当時、イエズス会の布教活動をしていたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、度々、工事場を訪れて築城の様子を見聞し、その記録が残されている。
 この築城工事には、日々1万5千人から2万5千人の人役が従事し、居館とする建築物は、法華宗本山であった本国寺の荘厳・華麗なものを選び解体し、調度品とともに運び再建した。
 また、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏・五輪塔・石庭・石灯籠等を手近な所に求め、単なる用材として石垣に積みこんだのである。
 ここにある石垣は、地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上るに埋もれていたのを、ここに復元したのである。
 これと同様なものが烏丸
椹木町通・下立売通・出水通で発見されており、今も地下に埋もれているのである。
1980年 京都市
原文そのまま

場所は下立売御門の一筋下の入り口入った左側

こんな感じで復元されています

そしてこの日2ヵ所目の京の夏の旅の場所へ向かいます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ