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西加奈子の個展『おまじない』『“I”beyond』開催、村田沙耶香とトークもhttps://t.co/Z768wuIQEq https://t.co/1iBExd4KDL
2018年06月09日 19:05
西さんから見て、村田さんの絵は「こわい」(ひらがなのこわい)。それが村田さんの小説に通じるものがある。
村田さんは、誰かををこわがらせようと思って書いているという意図は一切なく、結果としてみんなが「こわい」と思ってしまう(この話はこの後何回も出てくる)。そんな「びっくり」要素がどこかしら含まれている絵を描いてしまうそうだ。
西さんは『きいろいゾウ』から装丁も自分の画を載せるようになり、『漁港の肉子ちゃん』からそれが定番になった。
一方の村田さんは装丁に関してこだわりは特になく、いつも任せきりにしている。
小説だけに集中し、書き終わったら、前のことは忘れてすぐに次の小説を書いている、というリズムがずっと続いている。
●村田さんとの創作談義がすごく無駄
村田さん自身は「奇妙さのインパクトに頼るのではなく、言葉のきれいさなどを追求したほうがいいんじゃないか」と悩むこともあると言う。
西さんはそれについて延々と相談にも乗ったにもかかわらず、できた作品は「地球星人」……インパクト大やないかい! あの時間はなんだったんだ!? と憤慨していた。
村田さんに言わせると、聞いたけれども、やはり何も考えずに書くと奇妙なものになるとのこと。
村田さんのマイペースさに爆笑(この後何回もこのやり取りがある)。
●短編が難しい、どうしても「説明」になってしまう
西さんは食べるシーンひとつにしても、その人の祖母の代まで説明を重ねていくことでようやくきちんと表現できる、という感覚があるため、それができない短編に苦手意識を持っていると言う。
短編の「ダイジェスト」感がすごく苦手なのだとか。
新刊『おまじない』は短編集だが、書く前に今村夏子さんなどいろんな作家さんの作品を読み返し、「説明」になっているところがあるけれど素晴らしくて、「説明」だけど、いいものはいいんだと素直に思うことができ、そこまで身構えることなく書こうと思ったそうだ。
村田さんは西さんの短編を読んで短編が苦手という感じがしなかったなぁ〜と話し、いつもの西作品は「ミューズ」みたいな人が登場するけれど、もっと生々しい、人間みのある、見たことがあるような苦しみを抱えている人、その人の人生が詰まっているような感じがあって、そこがすごく良かったと言っていた。
観客みなうんうんとうなずく。
西さんも『おまじない』について、自分自身何度も感じた「言葉をもらって景色が変わる」瞬間、そしてそれが一転して「呪い」になる瞬間を書きたいと強く思っていて、それらはやはり日常生活に切り離せないものだと強く意識していたと言う。
●「おまじない」の絵について
ダンボール×クレヨンで描かれた絵を観て、村田さんはコンパクトなのに、複雑な色彩が広がっていて飽きない、直に見るとデコボコしたところに色が混ざり合う感じが素晴らしかったと言う。
西さんの作品がすべてダンボールアートなのは、もともと身近にあった材料だからということと、保存に気を遣わないところが良いと言う。
●作品が「劣化」するのは正しい
保存に気を遣わない反面、ダンボールはあきらかに劣化していく素材で、それは「正しい」ことだと思っているとも言う。
美術館で丁寧に「保存」されている作品たちであっても作者が後世の人に残そうと思って描いたものはどれもなく、まわりの人が価値付けて保存しているだけのこと。
それは小説でも同じで、結果として後世に残る小説はいいけれど、「残すぞ〜」と思って書くのは違う。作品は“消えていくもの”で良い、と思っている。
もちろん仕事にしているから「まぁ、ちょっとは残したいな〜」という色気は少しあるけれど、書く時はそのことは忘れている。
まぁ、村田さんはそんなこと一切考えていないけれど(みな爆笑)。
●「創作」は遊びの延長線上
村田さんは小さい頃から遊びで絵や漫画や小説をつくっていて、未だに遊びの延長線上、という感覚があるらしい。
(売れる、売れないとかそんなことを考えるほど頭がよくないと言っていたが)
村田さんはずっと物語のことを考えていて、映画ひとつにしても自分が納得いかなかったら勝手に物語を変えてしまう癖がある。
「構造をいじる」のが好きで、ちいさい頃から登場人物を取り替えたり、時系列を取り替えたりして遊んでいたと言う。
構造をいじるという観点から言えば、短編を書くのは遊び感覚で楽しいのだそうだ。
●小説に紐づけない、脈絡のない絵とか書く?(村田さんからの質問)
西さんは絵を描くときに、全て何らかの形で発表するかも…と思ってしまうと言う。
それこそ純粋な「日記」なんて書けず、死後に誰かに読まれたら…といやらしく考えちゃう(笑)。
一方、村田さんは純粋に自分が生きるために物語を考えたり、まったく発表しないものを100%の力で書ける。
自分はそれができなくなってしまっているから村田さんへにまぶしさを感じるし、ある種の「狂気」も感じる、と村田さんへの思いを素直に伝えていた。
●絵と小説の相関関係
村田さんは「絵を描く」ことを禁じられたら小説が書けなくなる、と言う。
絵を描いて、小説を書いて、PCで清書して…のリズムをひたすら繰り返しているのだそうだ。
筆がなかなか進まなかった人がマス目を無視して書いたらうまくいったという話を聞き、自分も自由に書くようにしているそうだ。
(緻密に書き込まれたイメージのある村田作品が、実は成り行きまかせで書かれているということに一同騒然となる。)
●枚数制限を平気で破る村田さん「謝れば大丈夫だよ」
西さんはまじめで、言われた枚数通り原稿を出すけれど、村田さんは思いっきり破る。「200枚→100枚で直して」と言われ、300枚で出す村田さんのエピソードにみな爆笑。
「謝れば大丈夫だよ」って、いいんかい!と西さんの軽快なツッコミ。
でもそれが彼女にとって必要な枚数で、村田さんは自由にさせるのが一番なのだと編集さんも諦めていると言う。
西さんはまじめだからこそ、締め切りに超遅れて提出して喜ばれる村田さんのようなタイプを見て「自分めっちゃ損してる!!」と言っていた(笑)。
●着地点を想定する西さんと、ノーパラシュートで笑顔で墜落する村田さん
村田さんのマイペースさは物語にもあらわれていて、西さんは物語を書くときにパラシュートを装着して着地点を決めるのに、村田さんはノーパラシュートで笑顔で飛び降りていると言う(笑)。
こっちからみたら墜落してぐしゃぐしゃになってるし、どう見ても複雑骨折しているけれど、本人は楽しそうなのだ。
村田さんはノーパラシュートで飛び込んで「書きながら何が起こるかわからない感じ」が楽しいと言う。
「書きながら何が起こるか分からない感じ」は西さんもうなずき、脇役だと思っていた人が書いているうちに後半ですごく大切な人物になっていったり、登場人物の不自由さの理由に書きながら思い至ったりするときが「書き手冥利につきる」瞬間なのだという。
村田さんの場合は、自分は狂おうと思っていない、超まじめに世界を紡ごうとしているという態度は変わらないため、それこそが本当の「狂気」なのかもしれない。
●バッシングについて(質問サイトなどの)
質問者はものすごく勇気を出して書いてるのに猛烈にバッシングされていて、村田さんはそれをみてオロオロしてしまう。朝まで考えてしまうこともあると言う。
西さんも同意し、「こいつ嫌なやつ!」だと思って敵にしたら楽だけれど、その人の事情も想像してあげるべきだと言う。
職業柄、違う見方で物事をとらえなおそうとしているきらいはあるが、まずその前に自分だって「社会側のばけもの」になっているときがある。
無意識のうちに「普通」を押し付けたり「あなた不安定だよ」という「呪い」をかけていたりしていると思う。
生きている限り集団という「ばけもの」に属さない人はいないんじゃないかと思う。
絶対それはしない、ということは言い切れないからこそ、せめて自覚的でありたいと言う。
●ずっと変化し続けたい
村田さんは変化し続ける、変化の手を止めないことで、こうした「ばけもの」に敏感であれるのではないかと話す。
西さんも「変化」することの大事さにうなずいていて、今思っていることが昔とぜんぜん変わったことを相談したとき「それは全然おかしいことじゃない」と言ってもらえてハッとしたと言う。
「違うじゃん!」と恥ずかしがるのではなくて、変わったことを受け入れて、そして今も変化していくということは大切なんだと実感したと言う。
以上!!
密度が濃すぎて、イベントがたった一時間だったことが信じられない!
ふたりとも作品の雰囲気は違うけれど、ふたりともに物語、小説、文学に対する並々ならぬ「熱量」「まじめさ」「繊細さ」を感じ、それが「狂気」に転じていくのだと実感した。
絵と小説の親和性の高さに驚き、わたしも無性に絵が描きたくなった。
ふたりのことがより好きになり、憧れやリスペクトがさらに増した一日だった!


