からの続きです
読者からのメール:終末論に関する諸問題-171<ii>
https://ichthys.com/e-mails.htm
【2026年8月29日掲載】 からの抜粋翻訳
返信部分は、ロバート・D・ルギンビル博士によります
質問 #7:
ルギンビル先生、
先生からのお返事にはいつも感謝していますし、それまで見えていなかったことに
気づかせてもらっています。(すぐには「理解できず」に苦労する時でさえもです)
私はいろいろなことについて考えてきましたが、
私の霊的な見方は日々ゆっくりと変わってきているように思います。
(願わくは正しい方向に……それを目指して努力しているのですが、
少し時間がかかっています)
今のところ、私の大きな疑問の多くには先生が答えてくださったと思います。
あとは、神の真理を自分の心と生活にどのように適用するのが最善なのかを
整理していかなければならないところです。
メンタルヘルスや苦しみ、罪悪感などに関する過去のメール投稿の多くは、
とても助けになり、慰めにもなっています。
詩篇56篇8節について先生にお尋ねしたいと思っていました。
英語訳をいくつか比較しているのですが、どの訳が最も適切なのでしょうか。
私のNIV Rainbow Study Bible(1984年版)では、次のようになっています。
私の嘆きを記録してください。私の涙をあなたの巻物に書き留めてください。
それらはあなたの記録にあるのではありませんか。― 詩篇56篇8節 NIV訳
また、ほかに調べたものでは、
ーーー私の涙をあなたの皮袋に入れてください。― 詩篇56篇8節 /NASB訳
ーーー私の涙をあなたの皮袋に入れてください。― 詩篇56篇8節 ESV訳
ーーー私の涙をあなたの皮袋に入れてください。― 詩篇56篇8節 /NKJV訳
この節はどのような意味なのでしょうか。
これは主として、神は私たちの悲しみや苦しみを見ておられ、
私たちや私たちの置かれている状況をただ無視しておられるのではない、
ということを伝えているのでしょうか。
「皮袋」と「書」は、概念を表現するための詩的な表現にすぎないのでしょうか。
それとも、実際に存在する物なのでしょうか。 (中略)
キリストにあって、
返信 #7:
いつもお便りをいただくのは嬉しいことです。
「書」なのか「皮袋」なのかについてですが、ここは「皮袋」で、
文字どおりには「ぶどう酒の皮袋」です。
次に続く「それらはあなたの書に記されているのではありませんか」という句の影響を受けて、翻訳者たちはこの比喩表現を統一してしまったようです。(その必要はないのですが)
「これは主として、神は私たちの悲しみや苦しみを見ておられ、
私たちや私たちの置かれている状況をただ無視しておられるのではない、
ということを伝えているのでしょうか」についてですが、そのとおりです。
ダビデは、私たちが受けたあらゆる苦しみを神が記録しておられることを
私たちに思い起こさせています。
そして彼自身は、そのことに基づいて、神に慰めと「行動」を求めています。
(詩篇25篇18節参照:
「わたしの悩みと苦しみを顧み、わたしのすべての罪をおゆるしください」)
このような訴えは、艱難期に事態が激しくなれば、
私たち皆にとって十分ありふれたものとなるでしょう。(まだそうなっていないとしても)
彼らは大声で叫んで言った、
「聖なる、まことなる主よ、いつまであなたは、地に住む者たちをさばかず、
また、わたしたちの血の復讐をなさらないのですか」
(黙示録6章10節/NIV訳)
(中略)
あなたもお元気でありますように!
イエスにあって、 ボブ・L
質問 #8:
「書」なのか「皮袋」なのかについてですが、申し訳ありません、
先生のおっしゃる意味がよく分かりませんでした。
「皮袋」(ぶどう酒の皮袋)という語だけが本文にあるという意味でしょうか。
それとも、「皮袋」と「書」の両方が出てくるのでしょうか。
また、これは単なる比喩表現なのでしょうか。
それとも、文字どおりの涙が入った実際の皮袋がどこかに存在するのでしょうか。
いつもお時間を割いてくださり、ありがとうございます!
キリストにあって
返信 #8:
両方の語が出てきます。
しかし、いくつかの翻訳は「皮袋の中の涙」というイメージを無視して、
比喩表現全体を「書き記す」という一つのイメージに統一してしまっています。ですから……
あなたはわたしのさすらいを数えておられます。
わたしの涙をあなたの皮袋に入れてください。
それらはあなたの書に記されているのではありませんか。―詩篇56篇8節/ESV訳
わたしの嘆きを記録してください。
わたしの涙をあなたの巻物に書き留めてください。
それらはあなたの記録にあるのではありませんか。― 詩篇56篇8節/NIV訳
簡潔に言えば、ESV訳のほうが正しく、
NIV訳は本文について不必要に自由な訳し方をしています。
(この節の前半は、ヘブル語では「皮袋」です。「書」が出てくるのは後半だけです)
イエスにあって、
ボブ・L
ーーーー
質問 #9:
これらは、イエスが「人の子は安息日の主である」と言われている箇所です。
ふと思ったのですが、これらの節は、千年王国が世界史における安息日であり、
キリストがその時代の主であるという事実とも関連しているのでしょうか。
弟子たちが穀物の穂を摘んだことには、その時代に教会に加えられる信者たちと関連する、
さらに何か霊的な適用があるのでしょうか。
これも今ふと思ったことで、正しいかどうかあまり自信がありません。
ここでの主要なポイントは、やはり実際の安息日と、
その本来の役割を正しく理解することにあるのだと思います。
いつもありがとうございます。
『SR(サタンの反逆)』はすばらしい学びです。ありがとうございます。
返信 #9:
お便りをいただけて嬉しいです!
温かいお言葉をありがとうございます。
「これらの節は、千年王国が世界史における安息日であり、
キリストがその時代の主であるという事実とも関連しているのでしょうか」についてですが、
少なくともその考えと矛盾するものではありません。
実際、ルカ6章5節には、「人の子は、安息日の主でもある」とあります。
言い換えれば、イエス・キリストはすべてのものの主であり、すべてを支配される方です。
その日が安息日であったからといって、それによって主の権威が少しでも制限され、
ご自分が正しいと判断されたことを行えなくなるようなことはありませんでした――
主を非難する者たちが何と言おうともです。
イエスは教会の主であり、今は教会時代です。主は千年王国の間、統治されます。
そして現在は、その祝福された日が到来するまで、御父の右の座で待っておられます。
弟子たちについての興味深い考察ですね。
安息日であっても、私たちに主のためになすべき働きがあるなら、
律法主義的な考えにとらわれることなく、それを行うべきである、
という適用をすることは十分にできるでしょう。
イエスにあって、 ボブ・L
ーーーー
質問 #10:
ご存じのように、私たちは家族で先生の「来たる艱難期」シリーズを学んでいます。
現在、第5部で、信者がどのようにして「奥義であるバビロン」から脱出できるかについて
学んでいるところです。先生は次のように書いておられます。
「イザヤ43章14節は、後にバビロンから逃れる不信者の逃亡者たちについて述べており、
少なくとも、この時にも海路による移動が可能であり、
それが有力な移動手段となることを示唆しています。
(ただし、イザヤ21章6節は、さまざまな移動手段が可能であることを示しています)。」
イザヤ21章6節が、
さまざまな移動手段が可能であることをどのように示しているのか、私にはよく分かりません。むしろ、見張り人に戦車、らくだ、ろばに注意するよう命じている7-9節のほうが、
さまざまな移動手段を示しているのではないでしょうか。
この点について理解できるよう助けていただけますか。
返信 #10:
「バビロンから逃げよ!」という命令が下されることは明らかです。
(リンク<リンク先ファイルの43頁-/A4版印刷本「来たる艱難期第5部:ハルマゲドンと再臨」の「バビロンを離れ去れ!」42頁-を参照下さい>)
その命令を受ける信者にとっての実際的な問題は、「では、どうやって?」
ということになります。
あなたが言及された箇所で私が取り上げようとしたのは、その問題です。
もちろん、聖書が書かれた当時にはアメリカ合衆国は存在していませんでしたから、
「どうやって?」ということについての考察は、
どうしても推測的なものにならざるを得ません。
私は、イザヤ43章14節が、バビロンにおいて、またバビロンから出るための海上輸送手段が
依然として存在することを示唆しているという点から、
それが艱難期にも利用できる可能性の高い手段であると考えました。
たとえ技術水準が何千年も後退することになったとしても、
(私の見立てでは、その可能性は低いと思いますが)
船は依然として存在するでしょう。たとえ帆で動く船であったとしてもです。
もう一つの箇所(イザヤ21章6節)も、歴史上のバビロンの滅亡について述べています。
(そしてそれが「奥義のバビロン」の型となっています)
そこでは、避難民はさまざまな種類の陸上交通手段によって逃れています。
(あなたが気づかれたとおりです)
ここにはいくつかの可能性が挙げられているので、このことは、
ほかの脱出手段も利用できる可能性があることを私には示しているように思われます。
それが具体的にどのようなものになるのか、(飛行機での移動はできるでしょうか?)
その時が来るまでは分かりません。
ですから、そうです、これは(必然的に)推測です。
しかし、確実に言えることは、私たちの主が逃げるようにと命じられる時、
逃げる手段も、どうすればよいのかという見当もまったくないまま、
私たちを途方に暮れた状態に放置されることはないということです。
艱難期には、間違いなく多くの超自然的な出来事が起こるでしょう。
聖書はその多くについて私たちに語っています。
それらの多くは(不信者にとっては)恐ろしいものとなる可能性がありますが、
その一方で、私たちが前もって知らされていない、
あらゆる種類の超自然的な方法によって
主が私たちに必要なものを備えてくださることも数多くあると、
私たちは確信すべきです。
彼がえにしだの木の下に横になって眠っていると、
見よ、ひとりの御使が彼にさわって、「起きて食べなさい」と言った。
彼が見ると、頭のところに、焼け石で焼いたパン一個と、水のはいったびんがあった。
彼は食べ、また飲んで、再び横になった。
主の使は再び来て、彼にさわって言った、
「起きて食べなさい。道が遠くてあなたには耐えられないでしょう」。
彼は起きて食べ、また飲み、
その食物で力づいて四十日四十夜歩き、神の山ホレブに着いた。
(列王記上19章5-8節/NKJV訳)
ふたりが水から上がると、主の霊が突然ピリポを連れ去ったので、
宦官はもう彼を見ることがなかったが、喜びながら旅を続けた。
一方、ピリポはアゾトに現れ、町々を巡りながら福音を宣べ伝え、
ついにカイザリヤに着いた。
(使徒行伝8章39-40節/NIV訳)
イエスにあって、 ボブ・L
ーーーー
171<iii>に続く![]()
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*
「ダーク・トゥ・ライト」https://darktolight.jp
私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想のある方は、
shizuku365@proton.meまでご連絡ください。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*
(備忘録)
朝は曇っていたから、夜ウォーキングでなくても午前中歩けるかな…
と家を出てから暫くすると…
雲が切れて晴れ間に![]()
ノウゼンカズラが高い木の上まで伸びている
こんなに晴れなくてもいいのになぁ…![]()
今年の夏の思い出のひとつに、長女さんも一緒だったので、
今までしたこと無かったけど、(シャトレーゼの前を通り過ぎる度にいつも思っていた)
誰も通らない木陰を歩きながら食べてみようと思い付き
たくさん並ぶ商品とにらめっこで”どれにしようかなぁ~
”
…と、ここまで良かった![]()
お店を出て、目の前の木陰に入る、わずか数メートルで、どんどん溶け始めて…![]()
「半分ずつ食べようか
」な~んて悠長なことは言ってられず![]()
服にも靴にも、落ちた果汁がついてしまった~![]()
もはや、美味しかったのかどうかも味わえず
ペットボトルの水も歩きながら飲めない私は
もうアイスの食べ歩きは絶対してはいけないと思いました![]()
…と、
失敗したと思える積み重ねがあってこそ
後から見て笑える夏休みの絵日記に描いてみたいひとコマでした(笑)
お
来てくれた~![]()
ロジャーくんも暑いかな![]()
また来るね![]()
今日もありがとう~![]()





