からの続きです
ペテロシリーズ#31 <ii>
人生と永遠についてのクリスチャンの基本的な心構え(第一ペテロ1章17-21節 )
https://ichthys.com/Pet31.htm ロバート・D・ルギンビル博士著
からの翻訳
この地上で[一時的に]寄留している残りの時を、[神を敬う]畏れをもって過ごしなさい:
(4) 主よ、わたしの終わりと、わたしの日の数とを知らせ、
わたしの命がいかにはかないものであるかを、わたしに知らせてください。
(5) あなたはわたしの日を、わずか手の幅ほどにされました。
わたしの一生は、あなたの前では無に等しいのです。
まことに、人の命はみな、ただ一息にすぎません。セラ。
(6) まことに、人は影のように行き来するにすぎません。
彼はあくせくしますが、それもただむなしいだけです。
富を積み上げても、だれがそれを手にするのか知りません。
もし私たちが皆、神にお会いするまでの待ち時間がどれほど短いかを、日々、一歩一歩、
実際に神に「示して」いただくようにしているなら、(へブル10章37節; 詩篇42章2節参照)
永遠という栄光の光の中でこの短い人生を生きる私たちは、この世で過ごす日々のことを
ほとんど気にかけなくなるでしょう。(伝道の書5章20節)
ペテロは先に、私たちはいつも見られているということ
(そして私たちは皆、見られている時のほうがよりよく行動するということ)
を思い起こさせましたが、ここでは今度は、私たちがこの地上にいるのは
実にごく短い間にすぎないことを思い起こさせています。
(ローマ13章11節;ピリピ4章5節;ヤコブ5章8節; 第一ペテロ4章7節;
愛する主イエスとともに過ごす永遠の無限の長さと比べれば、なおさらそうです。
そうであるなら、あらゆることにおいて「主を待ち望む」ほうが、
どれほどよいことでしょうか。
特に、一方では自分に必要だと思うものが与えられていないと感じている時、
また他方では不必要で有害なものにふけりたいという誘惑を受けている時には、
なおさらです。
したがって、この世と、それが最終的にもたらす失望に心を奪われるよりも、
間もなく現される希望にしっかりと目を向け、(第一ペテロ1章13節)
それまでの間、主が私たちに与えてくださった機会を最大限に生かして良い実を結び、
主の再臨の時に良い報いを受けるようにするほうが、はるかによいのです。
これは主が造られた日(すなわち、第二の来臨の日)である!
われらはこの日を喜び楽しもう!(詩篇118章24節)
それゆえ、わたしの兄弟たちよ、あなたがたがいつも[真理に]従順であったように、
わたしが[あなたがたと]一緒にいた時だけでなく、わたしのいない今はなおさら、
恐れおののいて自分の救いのために励みなさい。(ピリピ2章12節)
先祖から受け継いだむなしい生き方:
「なんというむなしさ! なんというむなしさ!」と伝道者は言う、
「すべてはむなしい!」(伝道の書1章2節)
ペテロは、この巡回書簡を受け取ることになる異邦人たちが以前行っていた異教の慣習について特に述べていますが、神の御言葉の真理から切り離された伝統は、
モーセの律法を律法主義的に守ることも含めて、すべてまったく無益でむなしいものです。
すべての人は死に、日の下での私たちのむなしい努力によって得られたものを、
結局だれが受け取ることになるのかさえ確かではないのですから、人間の努力は無意味です。(詩篇39篇6節;伝道の書2章17-19節)
この世の生涯において、肉の力によって私たちが何を行い、何を成し遂げたとしても、
それは私たち自身と同じようにはかなく消え去るものです。(ガラテヤ6章8節)
昔からある賛美歌にあるように、まさに
「人生はただ一度、やがて過ぎ去る。キリストのためになされたことだけが残る」のです。
この世における人間の努力が完全に無意味であること――人類の始まり以来の
すべての人間の努力を合わせても、ただ一人をも滅びから救うことはできません――と、
私たち信者がキリストの血によって得ている、値をつけることのできないほど
尊い贖いとを比較することによって、ペテロはこの点を強く心に刻ませています。
すなわち、これらの本質的な霊的現実を理解するなら、私たちの思いと努力は、
一時的なもの、やがて完全に消え去るものではなく、永遠のもの、
いつまでも残るものに向けられるべきなのです。
人が富を得るとき、その家の栄華が増し加わるときにも、恐れてはならない。
彼は死ぬとき、何一つ携えて行くことができず、その栄華も彼とともに
下って行くことはないからである。
(詩篇49章16-17節NIV訳)
あなたがたは、虫とさびとが食い尽くし、
盗人が掘り入って盗み出す地上に、自分のために宝を蓄えてはならない。ーーー
(マタイ6章19-21節参照)
朽ちるものによってではなく……キリストの尊い血によって贖われた:
私たちの主イエス・キリストがカルバリの十字架の暗闇の中で、
私たちのすべての罪のために死ぬことによってなしてくださったことは、
どれほど高く評価しても評価しすぎることはありません。
それは、考え得るどのような宇宙よりも壮大であり、歴史の初めから終わりに至るまで、
人間と天使が想像し得るすべてをはるかに超えて素晴らしいものです。
神は(神でありながら)人となられ、私たちと運命を共にし、真に私たちの一人として
この世を歩み、人間の理解を超える苦しみを受けられました――そして、
すべての人間の罪が贖われるまで、十字架の暗闇の中で燃え上がる炎のような
裁きの苦しみを受けられたのです。
愛する主イエスの犠牲を土台とすることなしには、この人生、この世、
そしてその中における私たちの立場について、クリスチャンが完全な、
いや正しい見方を持つことさえできません。
私たちがなすべきように主のために生きるためには、主が私たちのために
してくださったことの真価を正しく理解する必要があります。[1]
金、銀、宝石、金銭、その他あらゆる貴重品は、この卑しく一時的な人生においては
価値があるかもしれません。しかし、全世界の富をすべて合わせても、
人間のたった一つの罪の代価を支払うことさえできず、それどころか、
そのようなもので支払おうとすること自体が神に対する侮辱となるでしょう。
罪の支配のもとから買い取られ、「贖われる」ためには、ただ一人を除いて、
いかなる人間にも支払うことのできない尊い代価が必要でした――
そのただ一人とは、私たちの主イエス・キリストです。
そして主は実際にその代価を支払い、十字架の上で、ご自身の人間としてのからだに
全人類の罪を負ってくださいました。
それこそが、私たち信者が罪の奴隷状態から買い取られ、永遠の命へと解放されるために
支払われた唯一の贖いの代価、
すなわち、私たちの唯一の救い主キリスト・イエスの血なのです。[2]
ですから、本当の負債は主に対して負っていたものであり、それを私たちのために
支払ってくださったのも主であることを、私たちは認識する必要があります。
この世のものは私たちを救うことができないということを覚え、
救われた後は、それらに心を向けるべきではありません。
ですから、私たちがなすべきように主のために生きるためには、
イエスが私たちのためにしてくださったことの真価を理解する必要があります。
それが、この箇所から実生活に適用すべき主要な教訓です。
私たちが罪と死から解放されたのは、主の血によるもの、
すなわち、私たちのすべての罪のために裁かれることによって、十字架上で私たちのために
霊的な死を遂げてくださった事によるものです。
この世の朽ち果てる宝は、間もなく完全に取り除かれてしまうというのに、
そのようなものに心を奪われることは、なんと間違ったことでしょうか。
実際には、私たちは、キリストがご自身の命を代価として買い取ってくださった、
死と裁きからの救いにこそ心を向けるべきなのです。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時に、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことによって、
神はわたしたちに対するご自身の愛を示しておられるのである。(ローマ5章6-8節参照)
傷も汚れもない小羊:
この呼び名は、私たちの主が人として完全であられたことを強調しています。
主は罪の性質を持たずに生まれ、(処女降誕が必要であった理由はそこにあります。
すなわち、遺伝的に受け継がれるその罪の性質が伝わるのを避けるためです)
完全に罪のない生涯を送られました――
世界の歴史上、そのような生涯を送った唯一の方です。
(ほかには、それに少しでも近づいた者さえ一人もいません)
そのため、イエスは私たちの罪を負う資格を持つ方であられました。
律法が、いけにえとなる小羊に外面的な完全さを要求したのと同じように、
私たちの主、神の小羊は内面的に完全であられ、それゆえ、十字架の暗闇の中で
この世の罪をご自身のからだに負い、私たちに代わって裁きを受ける資格を
持っておられたのです。(第一ペテロ2章24節;第二コリント5章21節参照)
その翌日、[ヨハネは]イエスが自分のところに来られるのを見て言った、
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」(ヨハネ1章29節 /NASB訳)(ヨハネ1章36節参照)
[その来臨が]世界の創造の前からあらかじめ知られていた方:
ペテロがこの言葉を付け加えているのは、神の計画全体、救い、
そして歴史のすべてがその上に据えられている土台である十字架が、偶然に起こったことでも、後から考え出されたことでもなく、神が創造を定められる以前から、
これから起こるすべてのことにとって不可欠かつ根本的なものであったことを、
私たちに思い起こさせるためです。
この言葉は、神が創造を開始されるためには、それに先立って、
イエス・キリストという尊い犠牲をささげることが定められている必要があったことを
明らかにしています。
それこそが、被造物に自由意志を与えながら、それでもなお最終的に神とともに
永遠に生きることを可能にする唯一の手段だったからです。
(なぜなら「すべての人は罪を犯した」からです; ローマ3章23節)
このことを心に留めておくことは、すべてのクリスチャンが神の真の目的と計画を
見失わないために不可欠です――そして、その計画の要であり土台であるのが、
イエス・キリストと十字架におけるその御業なのです。
(へブル9章26節参照)
あなたがたのために、終わりの時に[肉において]現れた方:
イエスがこの世に来られたのは、私たちのためでした。
その来臨は、あらゆる意味で犠牲を伴うものでした。神は何一つ必要とされません。
そして、神が真の人性を取られること自体、計り知れない犠牲でした――
それがどれほどのものであったかを、天に行く前の今の私たちが
完全に理解することはできません。
しかし、栄光を受けた状態ではなくこの世に来られ、地上での生涯を通して
「罪人たちからご自身に向けられたこれほどの反抗」に耐え、(へブル12章3節)
この世がかつて経験したことのないほど激しいサタンの妨害に直面しながら、
あらゆる奉仕の中でも最も偉大な奉仕を成し遂げ、(たとえば、マタイ4章1-11節)
十字架にたどり着いて十字架につけられるまでに、七つもの人間による裁判という
難関をくぐり抜け(「聖書の基礎第4部A」の「キリストの七つの裁判」<リンク先ファイルの139頁-を参照下さい>の項を参照)――そしてその後、暗闇の中でこの世の罪のために裁かれ、あの木の上で、すべての罪をご自身のからだに負われたのです。
(第一ペテロ2章24節)……。
言うまでもなく、私たちのためにこれほどの苦しみを受けてくださった
愛する主イエスに対して、また、私たちが救われるために御子を死に渡してくださった
父に対して、私たちが示すべき感謝には限りがありません。
もし主が私たちに、聖められた生活を送り、主を知り、主とともに歩み、
そして兄弟姉妹も同じようにできるよう助けたいと願う心を求めておられるのなら、
それは本当に、主が私たちに求めるには多すぎることでしょうか?
この方を通して神を信じる者である[あなたがた]:
この人生は、すべて自由意志による選択にかかわるものです。
そして、神のかたちを持ついかなる被造物にとっても、これまでになす、
最も重要な選択は、神の権威を受け入れるかどうかということです。
十字架以後のすべての人間にとって、この選択の唯一の対象は、この世の罪のために
十字架で死なれた、啓示された方であるイエス・キリストです。
私たちの救い主、そのご人格と御業を受け入れることができるのは、
救いのために主に信仰を置くことによってのみです。
それが、私たちが神を選び、この世とその邪悪な支配者を退ける方法です。
キリストを私たちの救い主として受け入れることによって、私たちは父なる神の権威を
受け入れていることを示します。
ここでギリシヤ語に用いられている現在時制の分詞 pisteuontas(ピステウオンタス)、
「[現在]信じている者たち」は、新約聖書において「信者」という概念を表す
最も一般的な方法です。分詞に常に含まれている動詞的な意味は、現在行われており、
そして継続している行為を表しています。
イエス・キリストに信仰を置いた者として、私たちは「主を継続して信じている状態」
にあり、キリストとのこの信仰の関係に入ったことによって、
父との永遠の関係も与えられています。
すなわち、「この方を通して」、私たちはまた「父なる神を信じる者」でもあるのです。
(使徒行伝16章34節;ローマ4章24節参照)
(ヨハネ6章29節参照) (ヨハネ12章44節参照) (ヨハネ14章1節参照)
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしによらないでは、だれも父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14章6節/NIV訳)
キリストを死者の中からよみがえらせ、栄光をお与えになった方:
キリストの復活と栄光化は、罪に対する主の勝利を二重に証明するものであると同時に、
私たち自身に将来与えられる素晴らしい永遠の命を二重に保証するものでもあります。
なぜなら、私たちはキリストと一つであり、そのような者として、キリストのからだであり、
花嫁である私たちは、永遠に主と同じ運命にあずかることになるからです。
愛する者たちよ、わたしたちはすでに神の子供である。ーーー(第一ヨハネ3章2節参照)
そして、キリストが復活し、神の右の座に昇られた後、十字架におけるその犠牲の有効性と
勝利を明らかにするために父によって栄光を与えられたのと同じように、
(詩篇2篇7-8節, 110篇1節;へブル1章13節,12章2節;第一ペテロ3章22節;
ヨハネ13章31-32節,17章5節;使徒行伝2章33節;コロサイ3章1節参照)
私たちもまた、その栄光にあずかることになります。
(ローマ5章1-2節;コロサイ1章27節;テトス2章13節)――
それは、何か漠然とした、はかなく消え去るような存在ではなく、
完全で朽ちることのないからだを持ち、愛する救い主の御前で永遠に生きる、
確かな実体を伴う祝福された永遠の命なのです。
もしわたしたちが子供であるなら、相続人でもある。ーー。(ローマ8章17-18節/NIV訳参照)
その結果、あなたがたは神に信仰と希望を持っている:
キリストの第一の来臨、私たちのための主の霊的な死、そしてそれに続く復活、昇天、
着座の結果として、主を信じた私たちはまた、「神[父]に信仰と希望を持って」います。
なぜなら、キリストに信仰を置いた者はだれでも、父にも属しているからです。
「しかし、もしわたしがそれらを行っているのなら、ーーー(ヨハネ10章38節参照)
イエスは答えられた、「ピリポよ、どうしてあなたは、
『わたしたちに父を見せてください』と言うのか。」(ヨハネ14章9節参照)
父ご自身があなたがたを愛しておられる。ーーー(ヨハネ16章27節参照)
この結びの言葉によって、ペテロは救いの過程を一巡して出発点に戻り、
私たちが主に対する信仰によってキリストに属しているだけでなく、
父にも属していることを改めて確信させています――なぜなら、父の御心と子の御心との間には、ほんのわずかな隔たりもないからです。(ヨハネ10章30節)
したがって、神の子供であり、父と子の双方から等しく愛されている私たちは、
御子に対してだけでなく父に対しても信仰を持ち、愛する主イエスに対してだけでなく
父に対しても希望を抱いています。
そして、天において父と子のお二方とともにいる時を、さらに歴史が終わった後には、
新しい地においてお二方と共にいる時を待ち望んでいるのです。
父とその御子、私たちの主イエス・キリストに愛されている息子、娘として
自分たちの救いを確信し、また、私たちの内に住まわせるために主が遣わしてくださった
御霊に満たされている私たちには、この御言葉の箇所でペテロが勧めているように、
聖められた生活を送るようにとの呼びかけに応えるための、
あらゆる励ましが与えられています。
私たちの永遠の行く末は、恵みにより信仰を通して、主にあって確かなものとなっています。
ですから、どのような反対や苦しみに直面しようとも、
主が私たちのためにしてくださったことを覚え、私たちの救い主が望まれるように
クリスチャンとしての生涯を生きるという課題に応えるため、
あらゆる努力を尽くそうではありませんか。
それによって、愛する主イエス・キリストに栄光がありますように。
ーーーこれほど大勢の証人たち[人間と天使の双方]に取り囲まれているのだからーー
(へブル12章1-3節参照)
[1] 『聖書の基礎 第4部A「キリスト論」』II.5「キリストの霊的な死」
<リンク先ファイルの226頁->頁-/A4版印刷本の226頁->を参照してください。
[2] 『聖書の基礎 第4部A「キリスト論」』II.7「贖い」
<リンク先ファイルの253頁-を参照下さい/ A4版印刷本の251頁->を参照してください。
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昨日の朝は前日から一気に13度も下がって
寒かったので長袖長ズボン![]()
雨が止んだので、ウォーキング![]()
汗をかかずに歩けたのは久しぶり![]()
草花も潤いましたね
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やがて枯れても、この瞬間が美しいね
✨
8月も今日で終わり![]()
姉から頂いた🍉スイカパンと🍈メロンパイ、早速おやつに![]()
美味しかったよ~![]()
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ソラン君も雨の中のお散歩ね![]()
行ってらっしゃい![]()
今日もありがとう~![]()




