からの続きです
パウロのヘブル人への手紙4章 <14>
IV.節ごとの注解
十二節 – 十三節 <C>前半
(12)というのは、神のみことばは生きており、
力があり、どんな両刃の剣よりも鋭く、
霊とその地上的いのちとを切り分け、
また骨とその髄とをも切り分けるほどにまで貫き通すからである。
[それは](すなわち、良心のうちに宿るみことばは)
心の思いと考えとを見分ける者として働くのである。
(13)また、被造物のうちで、御前に見えないままでいられるものは一つもない。
すべてのものは、この方の目の前に裸にされ、あらわにされているのである。
私たちはこの方に対して申し開きをしなければならないのである。
(ヘブル4章12-13節)
全知と神への畏れ:(Omniscience andthe Fear of God)
神はすべてをご存じです。
そう言うと、ありきたりな言い方のように聞こえるかもしれません。
しかし、私たち信者が罪を犯すとき、いったい何を考えているのでしょうか。
罪とは不法であり、(第一ヨハネ3章4節)罪を犯すことは本質的に神に対する反逆であって、
悪魔の足跡に従うことなのです。(第一ヨハネ3章8節)
神が全知であられ、何事も、そもそも神が定められなければ起こり得ないこと、
そして神が私たちを見ておられること――いや、実に私たちのうちにおられること
どうして私たちは、罪という考えを心に抱くことなどできるのでしょうか。
主を畏れることは知恵の初めである。
その戒めを行う者はみな、良き分別を得るのである。
(詩篇111篇10節/NKJV訳)
主を畏れることは知識の初めである。
しかし愚かな者は、知恵と訓戒とを軽んじる。
(箴言1章7節/NIV訳)
御霊にあってイエス・キリストと共に歩み、その真理を学び、
霊的成長の過程を通してそれを自分たちの生活に適用し、
こうして霊的成熟に達している私たちは、定義上、「良き分別」を持っているのです。
同様に、私たちはこの人生において良いほうを選んだのであり、(ルカ10章42節)
愚かな者ではありません。
地上には、正しくて、〔常に〕善を行い、〔決して〕罪を犯さない人はひとりもいない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
(ローマ3章23節)
私たちはみな、多くの点でつまずくのである。(すなわち、罪を犯すのである)
(ヤコブ3章2節前半)
どれほど善くあろうと努めていても、私たちはなお現在、
罪の性質に侵されたからだの中に住んでいるのであって、
そのため、時として私たちは皆、罪を犯すのです。
(列王記上8章46節前半; 歴代誌下6章36節前半; ヨブ15章14節;
詩篇130篇3節, 143篇2節;ローマ3章9節,5章12節,7章14節,7章23節;ガラテヤ3章23節)
――そして、これと異なることを主張する者がいるなら、
その人は神を偽り者としているのです。(第一ヨハネ1章10節)
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
(マタイ6章12節)
わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、
わたしたちの罪をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないでください』」。
(ルカ11章4節)
もしそれが不必要なことであるなら、私たちの主が、日ごとの祈り、
すなわち「主の祈り」の中に、罪の赦しを求める告白を含められることはなかったでしょう。
罪という問題は、広く、また深い主題です。
明らかに非難されるべき外面的行為が罪となり得るだけでなく、私たちが語ること――
さらには、私たちが思うこと――もまた罪となり得るのです。
疑いの余地なく、私たちは皆、自分で思っている以上にはるかに多く罪を犯しています。
したがって、この点に関して、私たちは皆、主の前にへりくだって歩む必要があります。
そして、思うこと、語ること、行うことのすべてにおいて、
聖さ、すなわち聖化を追い求めるよう最善を尽くすべきですが、
同時に、私たちが現在の人間の本性においては不完全であること、
そして無知による罪も、認識したうえでの罪も、常に「戸口で待ち伏せている」ことをも
認めなければなりません。(創世記4章7節)
(8)もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、
真理はわたしたちのうちにない。
(9)もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、
神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、
すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
自分たちの不完全さについてへりくだり、罪を早く、またたびたび告白し、
そしてもちろん、あらゆる種類の罪を避けるよう最善を尽くすこと――
このようにして、イエス・キリストにいっそう近づき、聖霊が良心に力を与え、
これを導かれるのに従って、日々ますますよく自分の良心に
耳を傾けるようになっていくこと――
これこそが、この危険な世界において信者にとって唯一安全な道なのです。
しかし、それ以上に危険なのは、
神は欺くことができるとか、無視できるとか、
あるいは私たちの人生に対する神の完全な統治から何とかして
身を隠すことができるなどと考える、この狂気の態度を採ることです。
(黙示録6章15-17節参照)
(8)彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。
そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
(9)主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
(10)彼は答えた、
「園の中であなたの歩まれる音を聞き、
わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
上に述べたことは、今日の私たちには滑稽に思えるかもしれません。
しかし、少なくともアダムとエバには、神を畏れるという経験をそれ以前に
持っていなかったという弁明の余地があり、またここでは、事後ではあるにせよ、
ある程度の敬意を示している様子も見られます。
しかし、神の全知を知り、万物をあらかじめ定めておられることを知り、
さらに主が私たちと共におられ、しかも私たちのうちにおられることを知りながら
(コロサイ1章27節)、それでもなお意図的に罪を犯す信者にとって、
これはまったくの狂気以外の何であり得るでしょうか。
これらのことを欠いている者は、
(すなわち、第二ペテロ1章5-8節に示されているキリスト者の徳に従って歩んでいないこと)
近視眼的であり、ついには盲目となっており、
自分がかつての罪から清められたことを忘れているのである。
私たち信者が罪の性質に身を委ね、聖霊のやさしい促しを無視するとき、
私たちは――一時的ではありますが――、信仰によって心において注意深く学び、
大切に蓄えてきた真理に対して、盲目となり、無知を抱くことになります。
言っておきますが、このことは、程度の差こそあれ、
私たちすべてに日常的に起こっているのです。
私たちは成長するにつれて、この戦いにおいてよりよく戦えるようになりますが、
これら罪のからだに宿っているかぎり、
重大な失敗にさえ陥り得る弱さを常に抱えています。
(その例として、バテシバとウリヤに関するダビデの衝動的行動は、
それを十分に示しています)
しかし、私たちにできないこと、すなわち、どんな犠牲を払ってでも
絶対に避けなければならないことは、罪の行動様式の中へと落ち込むことです。
とりわけ、主と、私たちの人生に対する主のみこころに対する、
露骨で意図的な公然の反逆に陥ることです。
このような様式は、しばしば小さなところから始まりますが、やがて気づかぬうちに、
重大な破綻へと微妙に成長していきます――
ちょうど、アルコール依存やヘロイン中毒が、一杯の酒、
一度の摂取から始まり得るのと同じようにです。
気がつかないうちに、私たちが真理のみことばを学び、それを信じたときに、
御霊によって良心の中に据えられたすべての善い基準は焼き尽くされ、
私たちを導いていたすべての真理は忘れ去られ、
霊的盲目がその代わりを占めるようになります。
そのような段階に至ると、私たちが変えられるためには、
しばしば外からの介入が必要となります。
すなわち、(パウロが第十二章で説明するような)厳しい神的懲らしめというかたちでの
神の介入であり、またしばしば、私たちを愛し、
私たちを私たち自身から救おうとしている他の信者たちの介入でもあるのです。
(パウロがエルサレム教会のために行おうとしていたことのように)
(19)兄弟たちよ、もしあなたがたの中に、真理から迷い出る者があり、
だれかがその人を引き戻すなら、
(20)その人に知らせなさい。罪人をその道の迷いから立ち返らせる者は、
その魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになるのである。
(ヤコブ5章19-20節/NKJV)
(22)〔良心のことで〕葛藤している者たち
(すなわち、罪深い行動に関して信仰が揺らいでいる者たち)にあわれみを示しなさい。
(23)また、誘惑とその結果の火から引き出すことによって、救い出しなさい。
しかし、〔そのような〕あわれみを示すにしても、神への畏れをもって行い、
罪の汚染の最も小さな部分さえ憎みなさい。
(すなわち、肉によって汚された衣さえも〔直訳〕遠ざけなさい)
もし私たちがここにおけるパウロの言葉を心に刻むなら、
上に述べたようなことは不必要となるでしょう。
「神の御前には、隠れた被造物は一つもない。
すべてのものが、私たちが関わりを持つその方の御目の前に、裸であり、
あらわにされているのである」
(へブル4章13節)。
結局のところ、もしイエス・キリストが今ここに立ち、
私たちの肩に手を置いておられるとしたら、私たちはどのようにふるまうでしょうか。
疑いなく、私たちは何一つ過ちを犯さないよう細心の注意を払い、
また自分の言葉にも十分に気をつけるはずです――
もっとも、人間である私たちにとっては、自分の思いにおいてさえ誤らないでいるのは、
なお難しいことでしょう。
実に、イエス・キリストは、今まさにここにおられます。
しかし、私たちは肉の目でその方を見ることができません。
そこに難しさがあります。
信者としての私たちの責任は、その方が目に見えない方であられても、
なおその方を見ている者として歩むことにあります。
そして、私たちに対するその方の真実を確信しつつ歩むと同時に、
その方を悲しませることの結果に対する神への畏れをもって歩むことにあるのです。
〔モーセは〕見えない方を見ている者のようにして、強くなったのである。
(すなわち、その心の目を、目に見えないイエス・キリストに据え続けることによってである)
あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。
現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、
輝きにみちた喜びにあふれている。
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大きな桜の木が伐採されて残念だったけど
コブシが満開でした
きくらげ はんぺんの見守りから一休み中
今日もありがとう~![]()




