(ひとしずく・<26>ヘブル3章14節)~キリストにあずかる者~  | sarah‐mercy

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からの続きです

 

パウロのヘブル人への手紙 3章 <26>

                  ロバート・D・ルギンビル博士 著

 

Ⅳ. 逐語解釈 :

 

14節

(14)というのは、私たちは、もし最初の確信[すなわち、信仰]を、

 終わりまでしっかりと保ち続けるなら、

 キリストにあずかる者となっているからです。

(ヘブル3章14節) 

 

キリストにあずかる者: 

 ここで言われている「あずかる(share:分け前)という語は、

本章1節でパウロが、遅れて改めて書簡の挨拶を始める際に用いた語と同じものです。

そこで彼は読者たちを、「天から来る召しにあずかる者たち

(partakers["sharers"] of the call[come]from heaven)と呼びましたが、

これは、彼らの救いが永遠の過去において神の御計画の中に書き込まれていた

信者たちを指す簡潔な表現です。

ここでパウロは、すべての信者が共有しているこの「分かち合い」が、

イエス・キリストとの特別な関係における共有であることを強調しています。

私たちは皆キリストに属しており、

またキリストもまた私たちすべてに属しておられるのです。

パウロが前章でも述べているとおりです……。 

 

(10)というのは、万物がその方のために存在し、

 また万物がその方を通して存在している方[父]が、苦難を通して、

 彼らの救いの創始者、すなわち多くの子らを栄光へ導いた方

 [私たちの主イエス・キリスト

 完全なものとされたのは、[父に]ふさわしいことであったからである。

(11)というのは、聖とする者も、聖とされる者たちも、

 すべて一人の[父]から出ているからであり、

 この理由のために、[キリスト]は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはされない。

(12)彼はこう言っておられる。

 「わたしはあなたの名を、わたしの兄弟たちに告げ知らせ、

 会衆のただ中で、あなたをほめたたえるであろう。」

詩篇22篇22節

(13)また、別のところで、「わたしは[わたしもまた]、彼[父]に信頼を置く」

             (イザヤ8章17節

 さらに別のところで、「見よ、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らである」

 (イザヤ8章18節と言っておられる。

(14)それゆえ、「これらの子ら」

 (すなわち父によってキリストに与えられた信者たち:13節)

 血と肉とを持っているので、彼[キリスト]もまた、

 非常によく似た形で(すなわち、処女懐胎であり罪がなかった点のみが同一ではないが)

 同じものを受けられた。

 それは、彼の死を通して、死の力を持つ者、すなわち悪魔を無力にし、

(15)死の恐れによって一生涯奴隷となっていた者たちを、

 [神へと]和解させるためであった。

(ヘブル2章10-15節/NIV訳) 

 

私たち信者は皆、イエス・キリストの選ばれた、また比類なき尊い集まり――

すなわちキリストの教会、花嫁、そして御からだそのもの――の一員です。

そして、私たちが特別なかたちでキリストに属しているのと同じように、

キリストもまた私たちに属しておられます。

それは、夫と妻が互いに完全に結ばれているのと同じ関係なのです。 

 

(23)キリストが教会のかしらであって、

 自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。

(24)そして教会がキリストに仕えるように、

 妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。

(25)夫たる者よ。

 キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、

 妻を愛しなさい。

(26)キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、

 教会をきよめて聖なるものとするためであり、

(27)また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、

 清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。

(28)それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。

 自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。

(29)自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。

 かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。

(30)わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。

(31)「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

 ふたりの者は一体となるべきである」。

(32)この奥義は大きい。

 それは、キリストと教会とをさしている。

(エペソ5章23-32節) 

 

終わりまで堅く保つこと: 

私たちがイエス・キリストと持っているこの特別な関係は永遠のものです――

ただしそれは、「最初の確信[すなわち信仰]を、終わりまで堅く保ち続けるならば」

という条件のもとにおいてです。

 

不貞による離婚が現実に起こりうるように、私たちの救い主がいかに限りなく憐れみ深く、

忍耐強いお方であられるとしても、(たとえば詩篇103篇1–13節参照)

裏切られることを喜ぶ夫はいません。

エルサレムの多くの信徒たちが律法へと戻ることによってしていたことは、

本質的にはまさにこの「不貞」に等しい行為でした。

そして、和解がもはや不可能となる地点が存在します。

この比喩において、信者にとってのその地点とは、信仰が完全に消え失せてしまう瞬間です。

その時、その人はもはや信者ではなくなり、不信者へと戻り、

イエス・キリストから失われた者となるのです。 

 

(1)そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、

 花婿を迎えに出て行くのに似ている。

(2)その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。

(3)思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。

 

(4)しかし、思慮深い者たちは、

 自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。

(5)花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。

(6)夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。

 

(7)そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。

(8)ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、

 『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。

 わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。

 

(9)すると、思慮深い女たちは答えて言った、

 『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。

 店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。

 

(10)彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。

 そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、

 そして戸がしめられた。

(11)そのあとで、ほかのおとめたちもきて、

 『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。

(12)しかし彼は答えて、

  『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。

(13)だから、目をさましていなさい。

 その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

(マタイ25章1-13節) 

 

(24)そこでイエスは人々にむかって言われた、

 「狭い戸口からはいるように努めなさい。

 事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。

(25)家の主人が立って戸を閉じてしまってから、

 あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、

 『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、

 主人はそれに答えて、

 『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』

 と言うであろう。

(ルカ13章24-25節) 

 

主から拒まれるということは、恐るべき結末です。

実際、信者にとってこれ以上に恐ろしいことはありません――

少なくとも、私たちは主に対する不忠という問題を、そのように受け止めるべきです。

罪を犯すことと、

「またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにすること」ヘブル6章6節

とは、まったく別次元の問題です。

そのような行為に及ぶのは、不信者以外に誰がいるでしょうか。

そして、もし信者がそのようなことを行う、あるいは行おうとするならば、

それがどれほど危険な、この世への逆戻りであるかを

理解できなくなっているという事実自体が、

すでにその人の信仰が鈍り、ほとんど消えかかるところまで

衰弱してしまっていることを示しているのです。 

 

(28)モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、

 二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、

(29)神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、

 さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。

(ヘブル10章28-29節) 

 

この点、すなわち信仰の忍耐(堅持)の必要性は、

聖書全体に繰り返し現れる重要な主題です。

(本章序論における「背教と死に至る罪」のを項を参照下さい。

 <配信版では「 ひとしずく・ ヘブル3章<6>」

 

またパウロも、この書簡全体を通して何度も強調しています。

ヘブル3章6節4章14節6章11節6章18節10章23節など)

それはまさに、信仰を最後まで保つことができず、

キリストを事実上拒む行動によって信仰が劣化し、

再び不信へと逆戻りしてしまう危険が、エルサレムの信者たちに差し迫っていたからです。

もし彼らが態度を改めず、すでに役割を終えた律法やグノーシス主義を捨てて

霊的成長へと立ち返らなければ、彼らを待っているのは、死に至る罪、

あるいは、信仰を完全に失い切ってしまった場合には背教以外にはなかったのです。 

 

(11)次の言葉は確実である。

 「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。

(12)もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。

 もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。

(13)たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。

  彼は自分を偽ることが、できないのである」。

(第二テモテ2章11-13節) 

 

<27>に続く 下差し

 

 

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 心はすすがれて良心のとがめを去り、

からだは清い水で洗われ、

まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、

みまえに近づこうではないか。

 

(へブル10:22)

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少しずつ雲がきれて青空が顔を覗かせてきたよ

心の暗雲にも一条の光が届きますように

お祈りしますお願い

 

 

 

 

                梅の花   曇り空でも明るくしてくれるねキラキラ

 

 

 

まだ蕾がいっぱいラブラブ

 

 

 

 

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今日で2月も終わりですね

 

猫ちゃんネコ

縁側は落ち着くねハート

また来るねバイバイ

今日もありがとう~ラブラブ