石原さとみ論 | 真面目に脱線話@リンガランド英語塾

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数ヶ月前、東京池袋の大きな書店で雑誌コーナーの前を通った。何気なく女性ファッション誌の並んでいる棚を眺めていていると、その中の1冊に目がいった。表紙のモデルが魅力的だったからだ。



モデルが誰なのかを知りたかったのだが、すこし遠くてわかりにくい。だが、立ち読みをしていた女性がたくさんいたので、あきらめて通り過ぎた。



そのあとネット検索していて偶然わかったのだが、その表紙のモデルは石原さとみさんだった。さすがの私でも彼女クラスの有名タレントを知らないはずがなく、なぜそのときにわからなかったのかはちょっと不思議だ。



しばらくして、2つのことに思い至った。1つは石原さとみという女優の美貌を自分が過小評価していたこと、もう1つは、彼女がどうやら女性にも人気があるらしいということだ。



女性ファッション誌で表紙を飾れるのは基本的に彼女たちが共感できる相手であるので、まずはモデル、次に人気アイドルや若い女性アーティストである。だから、女優である彼女が表紙になることはないと思いこんでいたのかもしれない。



ただし、これには説明が必要だろう。というのは、実際には「女優」と呼ばれる人でもファッション誌の表紙をかざることが多いからだ。



近年、若い俳優や女優にモデル出身者が多いことに気づく。日本の芸能界では、俳優は、まずモデルをやらせることで外見にふるいをかけて、その中から、演技をやらせるという手順をとることが多い。とくに活動範囲がテレビ中心の場合、演技力よりルックスのほうが大切だからというのがあるからだろう。



だから、「女優」になったあとに、若者向けファッション誌や漫画誌の表紙をかざっても違和感がないのは当然だ。モデルとは同性のアイドルであり、アイドルは雑誌の表をかざることも1つのなりわいである。





いや、もっと正確に言えば、そういった雑誌の表紙をかざれるのがアイドルの証だと言うべきかもしれない。実際、「女の子に大人気のモデル」がテレビに出るというパターンが成立するのは、彼女たちが雑誌というメディアにおけるアイドルだからだ。



これはファン層を、限られた女性読者から不特定の男性ファンにまで広げるための、アイドル売り込み戦略の1つに過ぎない。



仮に純然たる「女優」がそういった雑誌の表紙をかざれば、「今週は映画特集?」などと、なにかしらの普段と違った特別な雰囲気になるはずだ。



石原さとみさんはスタートから女優をやっている生粋の女優である。だから、彼女がアイドルとしての仕事を違和感なくできるのは、それなりに希有なことだ。ほかには、宮崎あおいさんが思いつくが、石原さとみさんほどのアイドル性がある女優は希有だろう。



「アイドル」がドラマに出る場合、そこには「下手ではらはらする」か「何をやってもその人にしか見えない」の2つの戦略がある。中には演技力のあるアイドルもいるし、ファンもその演技力を支持するだろうが、そこで求められるのは、演技に取り組む「一生懸命」だ。けっして人格を変えて役になりきる技術それ自体ではない。



若い女性にとって、女優であるのは相当にしんどい。それは演技を消費する世間というものが、若い女性に概して厳しいものからである。多くのおとなが「経験」を重要視しているのに、ほとんどの若い女性にはその経験がないからである。そのぶん演技に何らかのあら探しをされて、常に酷評の対象にされやすい。相手がアイドルであればその基準はゆるまるが、あくまで女優であろうとすればそこに斟酌の余地はなくなる。



若い女優が「魔性」と呼ばれることがある。若さには反する経験を求められて、その無茶な要求にそれなりに対応しているのだから、同世代の男など相手にならないほど成熟したメンタリティを持っていれるはずだ。普通の若い男だったら「魔性」に思えるのも当然だろう。



通常、若い「女優」は、そこに自己表現や芸術性といった「他の若い女性タレントとは違う何か」をまとおうとするものだ。そもそも女優志望のタレントはミーハーであることを嫌う。




だが、石原さとみにはそういった自意識があまり感じられない。むしろ、好んで女優という自意識を外し、あえてミーハー性をまとい、「かわいい」で成り立っているアイドル側にいようとする意志を感じる。



言うまでもなく、「かわいい」は本来はアイドルのものである。そもそもアイドルは「素のままでかわいい(はずの)女の子」であって、だからこそ、演技でもバラエティ番組でも「プロ」でなくても許される。



もし女優が「かわいい」のであれば、それはその女優が、「かわいい女性」という演技をしているからだ。「かわいい」が何かを知っていて、また必要なときに表現できるからかわいいのであって、本質がかわいいことは女優の属性ではない。「かわいい」も「かわいくない」も表現できるのが女優だ。



石原さとみを見ていると、自分のことを女優サイドではなく、アイドルサイドに置きたいと思っているように感じる。20代後半である彼女が、ファッション雑誌の漫画雑誌の表紙やグラビアで輝いていることが、その何よりの証左である。



すこし話が逸れる。





最近、アイドルがローカル化していることに気づいている方も多いだろう。AKB48グループに端を発する、いわゆるご当地アイドルもそうだが、声優なら声優の世界でアイドルが人気になったり、鉄道オタクでアイドルをやる「鉄ドル」や、大学のサークル活動の延長としてアイドルをやっているユニドル(ユニバーシティ・アイドルの略)など、あるカテゴリーからアイドルを出すことが広まっている。



これは、かつての松田聖子さんのように、広い世代にわたって支持されるようなプロのアイドルの形が崩されて、ある共通点のある集まりの中でアイドルを決めるといった、いわば「ホームルーム型アイドル」が出現している。



なぜこういった現象が出てきたかを説明すると長くなるので端折るが、乱暴に言えば、すでに社会的にはアイドル幻想が崩れてしまい、また、アイドルがショービジネスで成功するというハングリーさの対象でなくなったが、幻想が崩れても世間が相変わらずアイドルを求めていることが大きいだろう。



昔のアイドルらしいアイドルだと嘘に見えるが、身近なアイドルであれば幻想は持たなければならないという義務を背負うことなく、「アイドル」を気軽に提供し、消費できる。いわば「アイドル」が日常化したのである。



そうやってみてみると、石原さとみという存在は、いわば女優というグループの中のアイドルである。吉永小百合さんや深田恭子さんのような正統派の「アイドル女優」と違うのは、彼女があくまで従来型のプロ女優でありながら、あたかもローカルアイドルのように「アイドル活動もやっている」点である。



ただし、彼女の場合、ユニドルやご当地アイドルでは足下にも及ばないほどのオーラと美貌がある。そのために、まるで本物のアイドルのようにグラビアに出たり若者向けの女性ファッション誌の表紙を飾ったりしているために、「アイドル女優」との差が見えにくくなる。



彼女に憧れる若い女性は、おそらく彼女のそういった「プロ女優でありながら、アイドルに憧れるような普通の女の子でありつづける」という姿勢を支持しているのではないか。どちらも目指しているのは「かわいい」であるが、石原さとみはあくまで演技で大金を稼ぐプロであるので、「共感」を越えた「憧れ」になるのだろう。



また、かつてのアイドルは年齢に制限があったが、現在は、46歳の福山雅治さんが明らかに「アイドル」であるように、年齢に垣根がなくなっている。これは「中年」の概念が消えつつあることとパラレルである。歌手とアーティストと俳優のマージナルな場所にいる彼だからこそなしえた、一種の革命と言ってもいいだろう。





福山雅治さんが「中年でもアイドル」を実現し、木村拓哉さんが「結婚してもアイドル」を実現した。2人のアイドルの天才が、中年でも結婚しても男性アイドルになれるという可能性を作りだした。



石原さとみさんと宮崎あおいさんは現在28歳。もしかしたらこの2人で、女性マーケットにおいても「中年」を駆逐して、福山・木村連合と同じ革命をなしとげるかもしれない。もしそれに成功すれば、あの天才アイドル松田聖子でさえも成し遂げられなかった偉業だ。



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