その記事では、日米の「言論の自由」について、そのストッパーと役割をするものとして、アメリカでは「武器携帯の自由」と「陪審制」、日本では「空気」があると述べています。
武器携帯の自由のあるアメリカでは、言論の自由をたてに取材をするというのは命がけです。なぜなら、相手が銃を持っているなら、「気に入らないことを書かれた」と相手が怒って銃を持って編集部に来る可能性があるからです。
それはさすがに極端な例ですが、訴訟することに何のためらいもないので、「気に入らない」というだけで訴訟されることは普通のことです。当然、裏を取って綿密に取材をしなければなりません。アメリカの記者はそれだけの見識と取材力が要求されます。
もしその媒体が適性のない記者を抱え込んだら、爆弾を抱えるようなものです。当然、すぐに解雇されるでしょう。
つまり、アメリカにおける報道とは、まさに真実に近づくための命がけの戦いです。とくに政治家や実力者を相手にする一流マスコミの記者には正当な手続きと高い取材力が要求されます(反権力的なロシアの記者がアメリカの記者以上に「命がけ」であるのは言うまでもないでしょう)。
英語を読むのが苦にならない方は、欧米マスコミに出る記事の質の高さに驚いた方もいたかもしれません。
ひるがえって日本ですが、「一流」と呼ばれているところですらそれほど質が高いとは言えません。とくに新聞は「どれを読んでも同じ」と言っていいくらい多様性がなく、アメリカの新聞と比べると掘り下げがなされていないので、通信社が配信するものとさほど差がない場合がほとんどです。
日本のマスコミで掘り下げをやっているのは、新聞ではなく『週刊文春』や『週刊新潮』といった週刊誌や月刊誌です。
では、なぜそれほど日米のマスコミに差があるのでしょうか。
1つは言葉の問題があるのは間違いありません。英語であれば世界中の人が読めますが、日本語は基本的に日本人だけを相手にしています。だから、国内の閉じたマーケットで競争があまりないというのがあります。
それよりもっと根本的な問題として、私は日本における言論の自由のあり方にあるのではないかと考えています。
日本には武器携帯の自由はないので、記事が気に入らないからと銃を持って編集部に来るというのはかなり特殊なことです(1987年に朝日新聞阪神支局で記者が発砲されました)。だから、ロシアやアメリカの記者たちのような文字どおりの「命がけの取材」ではありません。
しかし、日本において「空気」にあがなうことはそうとう困難です。たとえば、反自民の嵐が吹いていた2008年あたりに「自民党の出している政策は正しい」と書くことは勇気のいることでした。それどころか、「○○新聞はけしからん」と言われて、多くの読者が購読を止める可能性すらあります。
それは当時の日本に「反自民の空気」というものがあったからです。そのときに、自民党にプラスになるようなことを言えば、糾弾のようなつるし上げにあったりします。
たとえば、昨年であれば「原発再稼働の必要性を説く」「民主党を評価する」「TPPを評価する」「日中関係や日韓関係の友好をとなえる」などの行動をすれば同様のことになったでしょう。
これは日本社会が空気で動いているからであり、マスコミについても結局はそういった空気に取り込まれているからです。それに逆らえば浮いてしまうというのは個人もマスコミも同じことです。
ある新聞社は「戦前に戦争推進をうたっていたが、その反省から反戦をとなえている」ということになっていますが、戦前は戦争推進の空気があり、戦後は反戦の空気があったわけですから、単に「空気」に取り込まれているだけの話です。そういう意味では「同じ」です。
本来、議論というものは、賛成と反対の両方の立場があって、意見をぶつけることでお互いの立場を確認するというところから始めるべきものです。日本社会はそれが宿命的にできないので、マスコミも逸脱がなくどれも似たり寄ったりになってしまいます。
日本は言論の自由が認められた国ですが、日本社会では「空気」に逆らうことはたいへん困難です。ただ、そこをなんとかしなければ、今のままのレベルでずっといくことになるでしょう。そうなる可能性はと問われれば、私は「99%」と答えます。
それくらい大変な問題です。

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