前回、日米の「言論の自由」について、そのストッパーと役割をするものとして、アメリカでは武器携帯の自由と陪審制、日本では空気があると述べました。
ただし、本ブログでは何度か触れてきたように、日本の「空気」のほうは影響がかなり弱まってきています。それはなぜでしょうか。
空気を醸成するにはコミュニティや日本人どうしで集まる組織が必要なのですが、戦後の核家族化につづく少子化の先鋭化でコミュニティのつながりはいちじるしく弱まっています。企業にも外資系や海外との合弁企業が増え、日本企業にも外国人が増えています。
そうなると、「空気」を読む訓練をする場であるコミュニティが弱体化し、また「空気を読む力」を発揮する場が少なくなっていくので、必然的に「空気」の支配力が弱まっていくのが当然です。
最近、KY(空気が読めない)という言葉が出てきたのも、まさに日本人を無自覚に支配してきたものが、意識化しないと健全に機能しなくなっているところまで弱まっていることの何よりも証拠でしょう。
ところで、アメリカの陪審制にならった裁判員制度が日本で導入されたのは2009年です。「なぜ日本にこのようなものが必要なのか?」と疑問に思った人も少なくなかったでしょう。
「一般の国民感覚とずれを生じてきた裁判制度に市民感覚を持ち込む」という趣旨はもちろんわかりますし、その意義の高さもわかります。でも、ご存じのように、裁判員に指名された人たちの負担はあまりにも大きく、コストも相当なものです。
そもそも、国民がそんなに強く望んでいた制度ではなく、むしろ国家側が計画的に導入したような印象があります。
実は、その裏になる、決して明言されることのない理由として考えられるのが、ストッパーとしての「空気」が弱まっていることです。
どういうことかというと、これまでの日本社会では、人々はコミュニティや組織などでの孤立をいちばん恐れてきました。だから、自分の自我や利益はひとまず棚上げして、「他人から浮かない行動」ととってきたわけです。
しかし、近年、「空気」を気にしない人が目立つようになってきました。その一例が、モンスターペアレンツやクレーマーです。こういった人たちは、孤立するより、自我や自分の利益が大事に考え、まわりの気持ちなどを考えない人たちです。「学級崩壊」も、近年問題化している「ブラック企業」も、どちらもこの延長上にあります。
こういった人たちを「取り締まる」ことは困難です。なぜなら、そういったタイプの人間は孤立という「罰」によって抑え込むことができるので、日本社会がそういったタイプが数多く出現することを想定してこなかったからです。
現実にそういった人が出てくると、1つの解決法として、アメリカ社会でストッパーの働きをしている陪審制を取り入れるというやり方が、私の知るかぎり最も穏便な解決法だと考えられます。
留意すべきなのは、だからといって日本社会のおける「空気」の存在が消えてなくなることは永劫ないということです。
欧米だろうがどこだろうが「空気」は存在します。ただ、日本の場合、「空気」は生活全般の行動原理の基本にまで高度化されています。日本では、学校や近隣はもちろんのこと、職場や会議の仕方、宴会の仕方に至るまで、あらゆるところに同じしくみで作用しています。
つまり、空気とは日本社会そのものなので、これが消えてなくなると言うことは日本社会が日本社会ではない別のものになるということです。おそらくそんなことはありえないでしょう。
だから、これからは制度上は100%の言論の自由が認められている日本において、「空気」と裁判員制度が補完し合ってストッパーの役目を果たしていくことになるでしょう。
ただ、モンスターペアレンツのレベルを取り締まるのはそれでも困難です。結局。精神症などの「被害」を客観的に証明して、損害賠償という損害を相手に与えることでしか止めるという方法になっていくのではないかと思います。また、それが許されるようになると考えられるのは、日本社会において「空気」の支配力が弱まっているからです。
また、そういった人たちに立ち向かうには「空気を読む」という態度は捨てないと決して勝つことはありません。裁判を前提に戦うしかないというのが日本の現実なのです。

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