『命の器』(高野山にて)【第7話】 | 【大阪・梅田】ねこ店主のひとりごと

【大阪・梅田】ねこ店主のひとりごと

ねこ店主のおばかさんでちょっと不思議なひとりごと。

 


あの時何故、激怒したのか?

今考えれば、決して大した事は
なかったのだが…その時は
とにかく鶏冠(とさか)にきた
のだった。


あえて画像は撮らなかったが
その御朱印の対応をしていた
お坊さんらしき数名の人達。

「談笑」という枠を越えて、何故か
ふざけている様に見えたというか
「煩悩」に染まった感じが拭えぬ
程の「念」が飛んできた。



その場におる者が、常に厳粛で
あらねばならないという事では
ないのだが、その時は正直…
何故か、必要以上に落胆した
のだった。






近くにある水行の場所には
一千年変わらずに清らかな川が
流れ、沢山の修行僧の雑念や煩悩
を洗い流してきたのだろうと思った。






その傍には、沢山の民衆の思いを
受け止めようと、様々なお地蔵様
や仏様が
祀られている。






そして・・・御廟橋の前に辿り着いた。




この御廟橋を渡ると大師御廟への
霊域に入る。

この橋は
36枚の橋板と橋全体を1枚として
37枚と数え、金剛界37尊を表して
いると言わていて、橋板の裏には
仏様のシンボルの梵字が刻まれ
とても神聖な橋として知られている。






ここからは撮影は禁止なので
(※画像はネットから拝借)
スマホの電源を切り、静粛な気持ち
で
橋の袂で一礼し、歩みを進めると
左側の祠の周りが何やら騒がしい。

 

 

 


(※ネットより拝借した画像)


祠の中にある「弥勒石」という
石
を持ち上げるというものなの
だが…


この世での「罪の軽い」者は
簡単に持ち上げることが出来て
逆に「罪の重い」者は、持ち上げる
事が出来ないとも言われている。


若者がはしゃぎながら、得意気に
何か大声でしゃべっていたのだが
それを見て・・・正直ぞっとした。


のべ何十万、何百万人の人達の
『念』の入った石に触るとは…
なんて恐ろしい事を。




「我、関せず」といったところで
そのまま歩くと・・・

 

 

 

 

 


(※ネットより拝借した画像)


正面に見える石段と、弘法大師祖廟
の拝殿である燈籠堂がさらに、その
存在感を
放っていた。


石段を登り切ると足元に白い砂利が
眼に飛び込んできたのだが…驚いた
事に、それは砂利ではなく、鶏卵より
一回りくらい小さい、白く美しい石。


こんな所に高価(?)な石が何故必要?
だったのかはわからなかったが、若干
の違和感を感じながら燈籠堂に入る。

 

 

 

 

 


(※ネットより拝借した画像)

この薄暗い燈籠堂の中には
「消えずの灯り」と呼ばれる約900年間
燃え
続ける2万基以上の灯明が輝いて
いるのだが、その造作された雰囲気と
対局的な光景が目に飛び込んできた。

 

 

 

 

 


(※ネットより拝借した画像)

「分骨〇万円~〇〇費用〇〇万円
燈籠代〇〇〇万円」

そう大きく書かれた数枚のメニュー
の様な札が掲げられている下で
お坊さんがまたもや談笑していた。


確かにこれだけの施設を維持する
には、相当の費用も掛かるだろうし
寄付だけでは賄えないかも知れない
のだが、その時感じたままに例える
とするなら…まさに「宗教ビジネス」
というもの他ならない。


「これが聖地である高野山なのか?」


何とも言えない挫折感に似た感情が
湧き上がりながら、畳一畳分もあろうか
という賽銭箱が何故か三つも並んだ
正面にいるのが、怒りと落胆から
息苦しくなって、外の光が射し込む
左手の出口に向かった。



燈籠堂を出て「順路→」と書かれた
方向へ
時計廻りに歩いて行くと…
お堂の裏手に物凄い数の蝋燭と
線香の香りがする場所があった。

 

 

 


(※ネットより拝借した画像)

煌びやかな装飾の無い作りの建物が
「弘法大師御廟」であると気付くまで
然程、時間は掛からなかったのは
思わず手を合わせたくなるくらいに
驚くほど光り輝いている様に見えた
からである。

 


(※ネットより拝借した画像)

線香に火をつけて目をつむり、自らの
手を合わせ弘法大師様にご挨拶をして
いると…沢山の人の気配がした。

目を開けると、お坊さんと何処かの
老人会の方々であろうか、数十名
の爺様や婆様が気が付けば周囲
に集まり、比較的若いお坊さんの
少し上擦った高い声で話し始めた

その言葉にじっと聞き入っていた。


 

この御廟は、弘法大師信仰の中心
で聖地とされ、承和2年(835年)
3月21日に62歳で大師様が入定
した後、今日至るまで欠かさずに
一日二回
食事を運んでいるとの
説明があった。


まるで、まだ御廟で生きているかの
様な対応に正直…如何なものかと
思うくらいに何故か否定的な思いが
僕の中で浮かんでは消えていった
のだが、お坊さんの説明が終わると
他のお坊さんと共に「般若心経」を
唱え始めた。



と、その時である。




確かに三人のお坊さんの声がする
のだが、実際にはどう見ても二人
しかいない。


一緒に唱えている爺様の声でも
無い様に感じた。


もしかしたらホーミーの様な発声で
三人に聞こえるのかも知れないとも
思ったのだが、不思議な事に、その
一人の艶やかで低い声の主は
何故か…「この世」の者では無い
ように思った。


しかし、何故かその時は
大した問題ではないと思い、自分も
目を閉じて、ところどころ知っている
言葉を唱えてみると、何故かこれが
すんなり言葉となって出てきたのだが
自分のその声が途中からおかしい事
に気が付いた。



自分の声が二つの「違う声」に
聞こえてきたのだ。



僕も来年数えで50歳。こんな経験は
生れて初めてだったのだが…




そこから始まった僕の中で浮かんで
きた不思議なイメージとは?


弘法大師様が僕にわざわざ
訴えたかった事とは?



次回、予想だにしなかった
僕が高野山に呼ばれたその
「本当の意味」が明らかになる。



つづく