●滝川事件のきっかけは京大講演会
滝川事件(1926年、昭和一年5月26日)というのは、京都大学の刑法学者の滝川幸辰(たきがわゆきとき)教授が時の斎藤内閣の鳩山文部大臣から、辞職を勧告され、拒否したために強制的に休職(実質、免職)になった事件だ。
これは大学の自治と学問の自由への政府の弾圧であり、大学の自治権を犯すものだった。
京都大学の末川(すえかわ)博(ひろし)教授ら五人は抗議のため、一斉に辞職した(そして立命館に移った)。
滝川ら六人の辞職によって事件は全国の大学に普及し、滝川教授への辞職勧告に猛抗議する学生運動に発展していった。
この事件への抗議運動は東大でも盛んで佐々木恵真が逮捕されたことは前述した通りだ。
この事件、一番の問題点と言われるのが、滝川教授がなぜ辞職させられたか、ということである。
滝川教授は政府に逆らうようなことはしていないし、ましてや日本共産党の党員でもない。
もちろん、ソ連工作員でもなければ、アメリカの工作員でもない。
なぜ弾圧されたのか、今でもよくわかっていないのがこの事件の謎だ。
しかも、引導を渡したのが鳩山一郎文部大臣であり、のちに大政翼賛会に反対した骨のある国会議員として、知られる人物だ。
そして戦後、国民に大変、好かれて首相になった。
その鳩山がなぜ、滝川辞職勧告などという言論弾圧をしたのか、今もよくわらないのである。
当時のマスコミでさえもこの鳩山文部大臣の行動を批判している。
鳩山は、戦争に向かってゆく政権だった近衛内閣や東条内閣に抵抗していた立派な政治家というイメージがある。
だが、敗戦後のGHQのウィロビーが主導したG2局(政治、諜報=スパイ=活動)の判断で公職追放になった。
ウィロビーは、理想主義者であったマッカーサー司令官に煙たがられながらも、日本を“反共の防波堤”にすることを推進した情報将校(インテリジェンズ・オフィサー)だ。
ウィロビーは戦前から外交官で日本外務省内で、親英米派であった吉田茂とも通じて、吉田茂の参謀をしていた白洲次郎(しらすじろう。
この人物は、これからもっと研究されなければいけない)とも親しい関係にあった。
吉田・白洲コンビは、リベラル派ではあっても、ウィロビーの反共産主義の考えに同意していた。
GHQ内部の、民政局(ニューディーラー。アメリカの左翼と知識人たち)との権力闘争に勝ったウィロビーの支援を受けた、吉田・白洲コンビが日本の政界の表舞台を握った。
戦後に長く吉田政権が続いた。
鳩山率いる自由党は、1946年、戦後第一回目の選挙で勝利して第一党になった。
だから、当然、総理大臣となる予定だった鳩山は、ところが、GHQに公職追放された。
吉田茂が、マッカーサーに告げ口したからだ、とされる。
このとき、鳩山追放の理由の一つが滝川教授を弾圧したことだったのである。
このように戦後の鳩山の足を引っ張ったのが滝川事件だった。
自業自得(じごうじとく)とはいえ、鳩山のみならず日本国民にとって不幸なことだった。
このあと吉田首相はウィロビーの影響下でアメリカの反共政策の指示に従っていくことになる。
それは日本がアメリカの支配下に置かれるということを意味する。
副島隆彦の『属国・日本論』の通りだ。
滝川事件は戦後の日本の歴史を決定付ける大きなターニングポイントだったのである。
鳩山一郎の滝川教授弾圧は、致命的な判断ミスだった。
滝川事件がこれほど大きく当時の政府を揺り動かすことになったのは実はとても小さな事件がきっかけであった。
滝川事件について書かれた本には、このときに京都大学で行われた講演会がきっかけだったと書かれている。
講演した慶応大学の蓑田胸喜(みのだきょうき)という講師である。
蓑田は当時、新進気鋭の若手の体制派の右翼のイデオローグであった。
ここで蓑田の経歴について触れる。
蓑田は現在では知る人も少なくなってきたが、当時の言論界では知らない者はいなかった。
蓑田は慶応大学の文学部の講師をしていたが、共産主義に疑問を持ち、マルクス主義を日本国内から排撃せよ! という言論を行っていた。
これが今の日本の保守的な国民には受け入れられるだろうが、戦前や戦後の日本のインテリ層と知的な労働者たちは、ものすごく共産主義思想に影響を受けていたために、蓑田の言論はほとんどのインテリ層から嫌われた。
だが、そんなインテリ層の意向を無視して、斎藤内閣はマルクス主義に厳しい態度を維持していた。
それは、1925年に加藤高明内閣が制定した治安維持法が、共産党員の犯罪者としての取り締まりを打ち出していたことを当然のこととして引き継いだからだ。
昭和天皇を君主として戴く日本帝国としては共産党の活動を絶対に許さない、というのが斎藤首相を支える陸軍や政党政治家の一致した見方だ。
それだけではない。
華族や皇族たちも共産主義には強く反対していた。
なぜこれほどに当時の日本の支配層は共産主義に強い拒否反応を示したのか。
やはり1917年に起きたレーニンのロシア革命が原因である。
革命家のレーニンはロシア帝国を共産主義国家に作り変えるために、皇帝一家を銃殺刑に処した(ロマノフ王朝の滅亡)。
それに飽き足らず、ロシア貴族五百名を次々と処刑していったのである。
「共産主義国家に王様と貴族はいらない」というわけである。
これに世界中の王侯貴族や大ブルジョワたちが反発しないはずがない。
今のIS「イスラム国」の首斬り処刑の映像と同じ意味を持ったろう。
日本共産党は、第三(次)インターナショナルという世界に広がった共産革命運動の日本版として設立されたのだから、形式上は、第三インターナショナルの参加国のひとつに過ぎないソ連共産党の、実質的な操られ団体だった。
このことが、先々、各国の共産党の悲劇と多くの対立を産んだ。
日本の頑迷な反共人間であった田中義一(たなかぎいち、山縣有朋の子分)首相らは、内務省と治安警察を重視しており、日本共産党がソ連の南下に呼応して騒乱を起こす、と危惧した。
田中義一首相は長州出身であり、吉田松陰を敬愛する長州人だった。
金(かね)に汚いという醜聞もあった。
ウラジオストックへのシベリア出兵=ロシア革命干渉戦争=の時に、田中は、巨額の軍資金を裏ガネとして確保した。
そのカネを日本国内に密かに持ち込んで、この資金で、政友会の代議士たちを買収して、自分自身が政友会の総裁になった。
そして首相になる。
この時、三井ロスチャイルドの政友会の伝統が、内部から壊されたのだ。
田中義一は、政友会=三井財閥の中に、計画的に潜り込んできたスパイなのである。
陸軍出身で長州閥の田中にとっては、ソ連とその前身であるロシア帝国の南下は強く警戒しなければならないものだった。
この考えが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の柱になっている考えだ。
朝鮮半島は、日本にグイと突き出したロシアの刃物のように考えられた。
田中義一らはそのために革命運動である日本共産党の活動は徹底的に抑え込まねばならない。
天皇に危害を加える可能性のある共産主義は到底受け入れられないものだった。
田中義一首相亡き後(1928年6月4日、満州某(ぼう)大試事件=張作霖爆殺事件の責任を、天皇から叱責されて、辞職して、その直後に急死。暗殺説有り) 、日本は内務省や文部省が共産主義取り締まりを熱心に行っていった。
カール・マルクスの「資本論」が大ベストセラーとなった(河上肇=かわかみはじめ=の翻訳)。
日本全国の大学でも学術書としても読まれるようになった。
そこで、当局は右翼評論家で反マルクス主義の理論がしっかりしていた蓑田を都大学に行ってもらうことにした。
蓑田に共産主義思想にかぶれている京大生たちを説得してもらおうとしたのだ。
これに反感を抱いた京大生たちは蓑田にブーイングを浴びせた。
現に飢えている多くの貧乏な国民を助ける思想であるマルクス主義は間違っていない、と蓑田に質問を浴びせた。
蓑田は淡々と丁寧に学生たちに答えていたが、内心は穏やかではなかったろう、と私は推測する。
蓑田は東京に帰るとすぐに自分の原理日本社という言論誌に評論を書き始める。
「マルキスト滝川教授を排撃せよ! 」という過激なものだった。
滝川が京都大学の学生たちをマルクス主義に洗脳したように蓑田は考えた。
滝川教授は、一般向けの評論活動や啓蒙活動はしていない学者だった。
蓑田は滝川のことを全く知らなかった。
だが、蓑田にとって、滝川こそが京都大学の赤い大学教授に見えたのである。
これに呼応するように動いたのが原理日本社の購読者である右翼政治家たちだ。
これに呼応するように動いたのが原理日本社の購読者である右翼政治家たちだ。
右翼政治家で治安維持法の制定にも暗躍した小川平(おがわへい)吉(きち)の義理の息子である右翼政治家宮澤(みやざわ)裕(ゆたか)が滝川教授と斎藤内閣を攻撃した。
このように、蓑田の危機感を煽ったのが前述した京都大学での講演会という些細な出来事だったのである。
私は、この京大講演会からが、綿密に仕組まれた罠だったのではないか、と考えている。
なぜなら、この講演会で蓑田を攻撃した学生たち、というのがのちの有名人ばかりなのである。
(引用開始)
『京都大学百年史』は、この日の様子を次のように記述している。
「蓑田は河上の研究態度を一面的であると批判し、ロシアを国家資本主義だと論じて、聴衆から猛烈な罵声を浴びた。
滝川は司会者に聴衆を静めるよう注意したが、いきり立つ聴衆は司会者の言葉に耳をかさず、蓑田は小一時間も立ち往生した後、講演場を去った。
後援会後の座談会でも学生たちは蓑田を攻撃したため、蓑田は逃げるように京大を出たという。
実はこれは、宇都宮徳馬、水田(みずた)三喜男(みきお)、勝間田(かつまた)清一(せいいち)ら京大社研の学生が打ち合わせておいて実行したことであった」
ここに名前があがっている、宇都宮徳馬(後に自民党代議士)、水田三喜男(後に自民党代議士、大蔵大臣)、勝間田清一(後に社会党代議士)の三人は当時の社研で最も活動的だったメンバーだった。
なかでもボス格だったのが宇都宮徳馬である。
(立花隆『天皇と東大 下』61、62ページ)
(引用終了)
ここに宇都宮徳馬(うつのみや・とくま)という、のちの自民党の大物代議士であり、リベラルな保守政治家として知られた男が登場する。
この宇都宮こそが、蓑田を罠に仕掛けた張本人だったと、私は考える。
宇都宮徳馬の父親は陸軍の宇都宮太郎大将で裕福な家庭に生まれた。
水戸高校に通っていた宇都宮徳馬は同級生の水田とともに、共産主義のイデオローグとして一世を風靡していた、新聞連載「貧乏物語」で評判を上げた、“謹厳実直の帝大教授“河上(かわかみ)肇(はじめ)博士に憧れて入学する。
こうして、宇都宮は河上の弟子になった。
1930年に宇都宮は治安維持法で逮捕されて、投獄されている。
もちろん、京都大学は退学となった。
一年ほど投獄されていた宇都宮は転向して保守派となり、戦後は国会議員になった。
このときに宇都宮が取り入ったのが鳩山一郎と石橋(いしばし)湛山(たんざん)だ。
(石橋湛山は、戦後、・・・わずが、2ヶ月だけ首相をした。アメリカの政治謀略で、体調を崩したとして辞任。)
石橋は戦前はジャーナリストをしており、自ら主筆かつ社長を務めた「東洋経済」誌で論陣を張って、浜口内閣の金(きん)解禁政策(1929年)に反対した、先見の明の有る、優れた、気骨のある言論人として知られた。
この鳩山・石橋が、GHQの反共右翼のウィロビーや吉田・白洲コンビと対立してきたのはこれまでに強調してきた通りだ。
転向した宇都宮は保守派となったが、その政治信念は共産主義者となんら変わらなかった。
鳩山亡き後、石橋湛山の最側近となった宇都宮は自民党では「左翼にさえ近い」と言われたリベラルな政治家になっていく。
ソ連からの指令で南ベトナムのホー・チ・ミンが決起して フランスが敗れると、いわゆるベトナム戦争がはじまって、1967年からアメリカは南ベトナムに侵攻する。
これを受けて、日本では「ベトナムに平和を! 市民連合」のべ平連運動が巻き起こる。
この運動の旗手になったのが小田実(おだまこと)だ。
市民運動家だった小田に資金を与えていたのがなんと自民党の宇都宮だった。
北ベトナムのホー・チ・ミンを応援するということは冷戦(ザ・コールド・ウォー、米ソ対立)の当時において、世界基準では、ソ連共産党の肩を持つ、ということだ。
転向した保守派であったはずの宇都宮の行動は矛盾している。
宇都宮は中国とのコネクションもしっかりと持ち、北朝鮮の金日成主席にも何度も会いに行っている。
親北朝鮮、親中国の政治家、それが宇都宮の戦後の顔だった。
ここまで読まれた皆さんは、宇都宮徳馬が、老いてから共産主義者戻りをした、と見えることだろう。
しかし、私は宇都宮徳馬は、リベラルに見える保守派、共産主義者のふりをした、実は、その正体は筋金入りの反共右翼であったと考える。
次回は、宇都宮徳馬から日本右翼の大物である小川平(おがわへい)吉(きち)の人脈について、見ていく。
小川を調べると驚くべき事実が次々と出てくるのである。
(参考文献)
立花隆『天皇と東大 下』(文芸春秋、2005年)