官僚が日本の行く末を誤らせた張本人 2 | きなこのブログ

きなこのブログ

大失業時代が到来しています。大失業の恐ろしさを歴史から学ばなければならない。『大失業は戦争への道につながっている』

日本を明るい未来へ…

●獄中の野呂栄太郎と滝川事件の東大生の奇妙な遭遇(そうぐう)

戦前の右翼勢力が悪かったのだ、そして軍部が暴走した、という戦後にでっちあげられた、偽物(にせもの)保守派による、虚妄の歴史観をぶち破らなければならない。

そうしないことには真実の歴史がいつまでたっても表に出ない。

私たちは、これまで隠されたままの歴史の真実を掘り当てて、表に出すことをしなければならない。

それには2015年(今)から82年前の、1933年(昭和8年)へと読者、すなわち皆さんを誘わなければならない。

野呂栄太郎が獄中で死んだ(殺された)1933年、それは石原莞(いしはらかん)爾(じ)の満州事変(1931年9月18日。柳条湖事件。

この日を中国は、「日中戦争=日本の侵略の始まりの日」とする)が成功し、時の若槻礼二郎(わかつきれいじろう)首相そっちのけで、“ラスト・エンペラー”溥儀(ふぎ)を皇帝にした満州国の建国(1932年)から一年余りのときが流れていた。

1933年(昭和8年)、日本国内では政府に対する批判が国民の中に渦を巻いていた。

2015年の今とよく似ている。

その批判勢力の筆頭が非合法政党にされた日本共産党員たちである。

日本共産党は当時の日本の知識人たちと優秀な頭脳を持った若者たちが結集した、日本の啓蒙運動の火付け役ともいうべきグループであった。

決して粗暴な暴力団体ではない。

それでも公然と、私有財産制度の廃止と天皇制廃止を綱領(こうりょう)に掲げていたことは事実である。

このことに対して、日本の「國體(国体)護持(こくたいごじ)」と「国体の明徴(めいちょう)」を唱える日本の体制派が黙っているはずはなかった。

日本共産党は、決してテロリストの集団ではなく、穏やかな読書人、知識人たちのグループであった。

1922年の共産党の創立者の堺利彦(さかいとしひこ)、荒畑寒村(あらはたかんそん)たちは、すでに党を去っている。

彼らのリーダーだった、日露戦争(1904,5年)反対を唱えた平民社(へいみんしゃ)の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が、大逆事件(たいぎゃくじけん)で処刑されてから(1911年、明治44年)も、1933年は、22年が経(た)っている。

日本の支配体制と保守派に人々は、1917年(大正7年)のロシア革命に心底、震撼(しんかん)していた。その影響が日本にも及ぶことを真剣に心配するようになっていた。

世界中で、すべての国の民衆が、地主制度による過酷な農奴制(小作人制度)の悲惨際(きわ)まりない現状に怒り始めていた。

日本でも悲惨な農民や都市の貧民の暮らしに同情する知識人たちの運動が大きく起っていた。

トルストイの運動に共感する者たちの運動も有った。

日本共産党は日本国内のいろいろの勢力と連携して、「日本の中国侵略を辞めよ!」と呼びかけていた。

これは日本の権力者たちにとっては非常に煙たいことだった。

なぜなら、中国侵略によって利権を手にする権力者たちにとって、中国侵略はまさしく金の鳴る木だった。

こんなにうまい話を手放すのは馬鹿のすることだ、欧米列強(おうべいれっきょう)も皆やっているではないか、と権力者や財閥たちは金に目がくらんで、中国侵略を推し進めた。

右翼の大御所であった頭山(とうやま)満(みつる)とその協力者で、宮内大臣を務めた田中光顕(たなかあきみつ・幕末からの活動家)の二人が、強力に大陸進出を推し進めていた。

時の斎藤内閣とそれを支えた“最後の元老”西園寺公望(さいおんじきんもち)は、右翼や陸軍軍人の動きを抑えることができずに、大陸進出を国策として同意していったのである。

そんな時代情勢の中で、共産党の若き理論家であり指導者であった野呂栄太郎までが逮捕され拘留された(1932年11月28日)。

それまでの共産党の指導者であった佐野学(さのまなぶ)と鍋山貞親(なべやまさだちか)は、翌年6月7日に、獄中で転向声明を出した。

すでに激しい弾圧で残党になっていた共産党で、人材不足を補うために、若くして経済本でベストセラー作家となっていた野呂栄太郎が指導者に名乗りを上げた。

当時の日本共産党は世界的なネットワークであったモスクワのコミンテルンから「武装蜂起せよ!」と煽られていた。

コミンテルンは、正式には(表面上は)、ソビエト共産党とは別組織であり、世界中に共産主義の革命を輸出するための国際組織ということになっていた。

コミンテルンの公用語はドイツ語であった。

コミンテルンは、「第3次インターナショナル」とも呼ばれた。第一次インターナショナル(万国の労働者団結せよ! の国際労働者委員会)は、カール・マルクスたちによって、1866年にジュネーブで創立された。

その後のロシア革命の産物である第3(次)インターナショナルは、「国際共産党」とよばれ、日本共産党は、「その日本支部だ」と日本の政治警察=内務省、特高警察から判断された。

そして、日本の国体(天皇制)を暴力で破壊、打倒しようとする犯罪集団、テロリストの集団だ、と認定された。

この 内務省・特高の日本共産党への攻撃は、一部の共産党員が熱海の銀行強盗を起こした、いわゆる「熱海ギャング事件」として起きる。

この事件を起こした共産党員が、実は特高警察のスパイだった。

組織の破壊のために、警察は、必ずその内部にスパイを送り込んで、内部を暴走させ犯罪を起こさせて、そして壊滅に追い込む。


新聞もこれに扇動されて、権力側が発表する情報を鵜呑みにして報道するから、一般国民には、共産党というのは恐ろしい犯罪集団だとしか見做されなくなる。

日本共産党は次第に罠にはめられ、犯罪組織として世間から叩かれることになった。

本来、軟弱でただのインテリで、真面目で温厚なだけの大学生たちの集まりである日本共産党が「国際的犯罪組織」にされていった。

この時期に、慶應大学の若い研究者だった野呂栄太郎は強靭な精神と頭脳で、『日本資本主義発達史講座』という全10巻の大著の共同研究書を出版した。

日本のインテリ層に爆発的な人気を博した。

その矢先に野呂は特別高等警察に逮捕されたのである。

逮捕したのはプロレタリア作家の小林(こばやし)多喜二(たきじ)を実際に拷問して殺害した(木刀による全身めった打ちの撲殺である)とされる山県・・・警部らである。

彼らのことは今では、ウィキペディアにさえ詳しく実名が並んで載っている。

野呂栄太郎はすでに結核を患っており、体調は極めて悪かった。

このため、特別高等警察はお得意の拷問ができなくて、野呂を尋問するしか手がなかった。

その拘置の間、野呂栄太郎は警察署の留置場の中でとある人物と出会っている。

隣の独房に収容され、特高警察から拷問を受けていた東大生の佐々木恵真(ささきよしまさ?)だ。

東大(東京帝大)の文学部で歴史学が専攻の佐々木は、日本共産党の東大内のグループに入って共産主義運動をしていた。

共産主義運動といっても、佐々木は「侵略戦争反対! ファシズム反対! 」のビラを刷ったという、現在の私たちから見れば、極めて穏当な筋の通った活動をしていただけだ。

1932年の日本では、そのような活動はまだ禁止されていない。

しかし日本共産党は天皇制廃止を掲げており、この主張することは、1925年に制定された治安維持法違反に当たる。

戦争反対の活動をしていた佐々木はだから、戦争反対の主張ではなく、天皇制廃止を唱えた治安維持法違反ということで逮捕された。

佐々木のような東大生の逮捕は当時、すでに珍しいことではない。

当時の東大は小野塚(おのづか)喜平(きへい)次(じ)総長を筆頭に、南原(なんばら)繁(しげる)教授 (この人の背景が、実はきわめて怪しい。おいおい書いてゆく)らが東大生の共産主義活動を容認しており、共産主義や自由主義思想に多くの学生たちは身を投じていったのである。

南原は政治学の教授だったが、この頃はまだ無名だった。

南原が有名になったのは、終戦後の1946年からで、毎年の朝日新聞の巻頭の提言は南原が書くことになり、岩波書店の本とともに、戦後の知識人層に大いに読まれることになる。

戦前の美濃部達吉(みのべたつきち、「天皇機関説」事件で学問弾圧された)や南原繁はオールド・リベラリストと呼ばれる(ちなみに、liberalist リベラリスト=自由主義者=という言葉は、ドイツ語とフランス語にあるが、英語にはない。英語では、リベラル liberals と言う)。

この南原の弟子に丸山真男(まるやままさお)がおり、戦後の日本リベラル勢力、左翼勢力の最大のイデオローグとして活動した。

それは南原が丸山の才能を認め、東大の政治史学、政治思想の教授として抜擢(ばってき)したからであった。

リベラリストの南原繁が東大にいるとも知らないで、野呂は佐々木と仲良くなった。

佐々木は若く、特高の拷問にも屈しない強い精神状態を保っていた。

が、問題なのは野呂の方だ。

結核に体調は悪化し、憔悴(しょうすい)していくさまは佐々木を心配させていた。

同じ時期に治安維持法違反で捕まった野呂栄太郎と佐々木恵真は、別々の案件で逮捕された。

野呂は共産党の幹部たちの一網打尽の一環として、佐々木は京都の滝川事件への抗議運動への取り締まりの一環としてだった。

ここに私は鋭く、注目してみた。

なぜなら、この二つの事件は、私には深くつながっているのではないかと思えたからである。

そこで、現在では忘れられている滝川事件について、何が起こっていたのか、見ていくことにする。

滝川事件の真実を調べていたら、驚くべき大謀略が、この時、着々と進行していたことがわかってきた。

そして、その真犯人たちは今の私たちが想定しない意外な人物達である。




官僚が日本の行く末を誤らせた張本人 1