◆ 火吹く人たちの神 ~48







予定通りに本日記事を上げることができました。


ここ数日
背中痛を再発しており

2勤分を休みました。
(1日で2勤分働くので実質4勤の休み)

痛みが収まっている隙に記事を書いたので
何とか間に合った次第。

徐々に
回復に向かってるようには思うのですが…




第二部 古代社会の原像をもとめて
第一章 垂仁帝の皇子たち



 垂仁帝の皇子・息速別の故地と銅鐸 2

◎伊賀の「穴太」と「穴穂」、「阿保」

第21代雄略天皇十八年紀に、伊賀「青墓」に陣取る朝日郎(アサケノイラツコ)を誅伐したという記事があります。

朝日郎は伊勢国多気郡、現在の松阪市を本拠地としていた豪族。伊賀「青墓」に陣取ったというのは、そこをも支配していたと考えられます。「青墓」に就いては、佐那具町の御墓山古墳が有力視されていると前回の記事に記しました。


[伊賀国阿拜郡] 御墓山古墳 (前方後円墳、全長188m)




紀の記事には、朝日郎の放つ矢が二重の甲(かぶと)を通すほどに鋭かったと記されています。それが石上穴穂宮(第20代安康天皇)の「穴穂矢」を思い出させる…と。

これは記の第19代允恭天皇が崩御し安康天皇即位前(穴穂皇子)のこと。皇太子であった木梨軽皇子が実妹の軽大郎女(カルノオオイラツメ、衣通姫・ソトオリヒメ)と密通、これを誅するために矢を作ったのが「穴穂矢」。広く知られたシーンとはいえ、相変わらず師匠の説明が無いので補足しておきました。

ところで穴穂皇子(第20代安康天皇)は允恭天皇と忍坂大中姫命との間に生まれています。
忍坂大中姫命は「忍坂」(大和国城上郡「忍坂」、現在の桜井市「忍阪」)を冠してはいるものの、近江国坂田郡「朝嬬(あさづま)」に居たとされます。おそらく後に大和の「忍坂」へ移住したのでしょう。紀には娘の軽大郎女が近江国坂田郡に居たと記されています。

さて…
「朝嬬」(「朝妻」とも)と言えば、息長氏が関わりそうです(→ 筑摩神社)。他にも坂田郡には日撫神社山津照神社といった神功皇后以前の息長氏の拠点となった主要社があります。


息長氏と言えば、製鉄鍛冶神として崇められるアメノヒボコ神を祖と謳う氏族(これには疑念を抱くものの大いに関わりがあったと考える)。もちろん息長氏も「鉄」と関わる氏族。

ところで近江国東北部、伊香郡や坂田郡等を巡拝する際、大和の中南和在住の私は2つのルートを使いアクセスします。
一つは奈良市から木津川市や綴喜郡を抜け、琵琶湖南端の瀬田から東岸を上る北上ルート。もう一つは伊賀へ向かいそこから琵琶湖東岸へ入るルート。近江と伊賀とは思いのほかアクセスが良いのです。細い山道を走らねばならないのですが。

何を言いたいのかと言うと…
大和と伊賀、そして伊賀と近江の坂田郡とは連携しているということ。

思えば大彦命は2度目はこのルートを通り北陸へ向かったのだろうと思います。また大和を出た倭姫命もこのルートであろうと思います。


[近江国坂田郡] 山津照神社古墳
神功皇后の父の息長宿禰王の墓とされる(山津照神社境内)




話は朝日郎の戦に戻り…
「阿保」はかつて「穴太(あほ)」とも表記されました。伊賀「青墓」で戦った朝日郎の矢は、「穴太矢」と言うことができよう…としています。
翌雄略天皇十九年紀には、「穴穂部」を置くとあります。

「穴穂部」とは、特に古墳時代から飛鳥時代にかけて置かれた「部(べ)(「名代」とも、天皇や皇族の私有民のこと)の一つ。ただ置いただけという記述に留まるため、どのようなものであったかよく分かってはいません。近江や下総(現在の千葉県)に置かれたとも言われますが、現実的ではないように思います。

伊賀「阿保村」に関わりの深い息速別皇子(イコハヤワケノミコ・オキハヤワケノミコ)は、記に「沙本穴太部之別祖(さほあなほべのわけのそ)なり」と分註。
「沙保(さほ)」は大和(添上郡「佐保」、現在の奈良市北部中央「法蓮町」「佐紀町」辺り)で、「穴太」は伊賀。

「地名辞書」は大和国添上郡「阿保山」に就いて、「阿保はあるいは穴太に作る。もと伊賀国の地名なり。沙本すなはち佐保なれば彼国よりここに移れる阿保氏ありて阿保山の号は出でたるなり」と記しています。

「阿保山」には不退寺という仏教施設があり、その土地は第51代平城天皇の皇子阿保親王(アボシンノウ)に関わりを持ち…と記しています。またまた少々補足を。

平城天皇は緊縮財政を掲げ政治刷新を行いましたが、その一つとして父の桓武天皇が遷都した平安京から、都を平城京へと戻しています。その大極殿のすぐ東隣が不退寺であり、御所が設けたとされます。孫の在原業平はその跡地を父(平城天皇皇子)阿保親王の菩提所として不退寺を建てています(位牌を安置して建てた寺)。「在原寺」とも称されます。


在原業平と二条后(月丘芳年画) *画像はWikiより
希代のプレイボーイであったとされる業平。



これとは別に添上郡の南端「櫟本(いちのもと)(現在の天理市櫟本町)にも「在原寺」があります。明治の神仏分離の以後は在原神社となりました。

こちらの歩んだ歴史は少々複雑でして…時系列に整理します。
先ず発祥は東方700~800mほどの「平尾山」。第24代仁賢天皇の「石上廣高宮」が営まれました(父の市辺押磐皇子の「石上市辺宮」もここであったという説も)。その跡地には石上市神社が創建されました。麓には仏教施設が多くあったとされ、うち一つが旧「在原寺」。阿保親王による創立。後に在原業平の邸宅跡である現地に移ります。江戸時代には石上市神社が遷座してゆき、残ったのは姫丸稲荷神社という小さな社のみに。一方、在原業平邸跡に移った「在原寺」は、明治の神仏分離令により在原神社となりました。
なお「平尾山」からは銅鐸2体が出土しています(→ 石上銅鐸出土地)


いずれにしても「佐保邑」と「櫟本邑」(旧跡地は「平尾邑」)の「在原寺」という仏教施設が、ともに伊賀の「阿保」と関わりを持つ地であることは疑えないと。
また山邊郡「平尾」から銅鐸が出土していると記しましたが、伊賀の「阿保」(御墓山古墳に近い場所)からも銅鐸が出土しています。


[大和国添上郡] 在原神社




◎阿保親王墓と金属

摂津国武庫郡の精道村大字打出(現在の芦屋市)の阿保親王墓(未拝)の周濠より、銅鐸が出土しているとのこと。

またこの地は在原業平の所縁の地でも。芦屋駅すぐには「業平町」もあります。
「摂陽群談」という書には、阿保親王が精道村大字打出の「金津山」に金瓦一万枚黄金一千枚を埋め、飢饉に備えさせたので「金津」と呼ぶとあり、「朝日さす入日かがやくこの下に、金子千枚瓦万枚」と伝わるとの記載があるようです。

そこはまた猿丸大夫の家であったという伝承もあり、「芦屋川」の傍らには墓もあると伝わります。

「阿保親王」「在原業平」「猿丸大夫」「朝日夕日の伝説」が集中しています。しかも銅鐸まで出土。

さらに谷川健一氏はたたみかけます。
芦屋の猿丸社(天神社)の近くに昔は、眼病に効くという湧水があったと。たたら炉の村下(むらげ、技師長のこと)や鍛冶屋に眼を患う者が多かったという事実であるとしています。

もうすっかりと谷川健一氏等による精緻な研究により、これ等は今でこそ定説に近いレベルまでになっていますが…
うっかり忘れそうになるところですが、それに大きく寄与したのが本書でした。軽く流してはいけない、これ等の積み重ねにより定説化しつつあるんやから。

そしてもう一つうっかり忘れてはいかんのが、あくまでも本書は「青銅の神の足跡」というタイトル。特に「銅」、この場面では「銅鐸」に注目せねばならんかった。

「銅」と「鉄」との繋がりは伊福部氏の項で記してはいますが、本書の最後までいかないとはっきりと見えては来ないのですが…。

[摂津国武庫郡] 阿保親王塚古墳
*画像はWikiより



◎「高穴穂宮」

関連するところで本書には無いものを。無視し得ないように思うので。
「高穴穂宮」という宮が近江国滋賀郡「穴太」(現在の大津市「穴太」)に存在しました。

第12代景行天皇(即位五十八年~崩御までの3年間)、第13成務天皇(この宮で即位し60年間統治と推定)、第14代仲哀天皇(即位二年の遷都まで)、三代に渡り営まれたもの。

琵琶湖の南西部畔に位置するとされます。遺構等は未だ発見されておらず、正確な場所は不明であるものの、高穴穂神社(未参拝)がその旧跡地という伝承があります。

名称には「穴穂」、地名は「穴太(あなた)」、こちらも無関係とは言えないかと考えます。ちなみにこちらでは南西隣の滋賀里町で銅鐸が1体出土しています。


[近江国滋賀郡] 「高穴穂宮趾」石碑
*画像はWikiより




今回はここまで。

ようやく垂仁天皇皇子が登場しましたが
次回はまた別の皇子が登場します。

今回はイレギュラーに間を空けず
記事を上げましたが

次回はまた1ヶ月後くらいになります。



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